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風狂盲人日記 ⑲ 教え子から初の政治家誕生!

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「教え子から初の政治家誕生!」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年6月15日

 「先生、連絡が遅れてすみません。まだお礼の挨拶回りが続いています。」

 携帯電話から飯牟禮克年(いいむれかつとし)君(30)の弾んだ声が聞こえてきた。国際教養大学の私の教え子で、4月末の秋田市議会議員選挙で初当選を果たした。それも最年少で、6695票の最高得票を記録しての快挙である。

 彼は熊本県出身。教養大に憧れ、初めて住んだ秋田がすっかり好きになり、卒業後、県内の最有力紙、魁新報の記者となって県内を取材して回っていた。そのうち「このままでは秋田がダメになる。自分にできることは何か」を考え続け、政治家になることを決めた。大学で知り合った秋田出身の美人と結婚し、昨年には娘も生まれ、念願の市会議員となって二重の喜びとなった。国際教養大が開学した2004年には、秋田県の人口は120万人だった。それが現在は90万人にまで落ち込み、経済が沈滞し、人口減に歯止めがかからない状況だ。

 当選した当日には私もすぐにメールでお祝いを述べ、時間的に余裕ができたら直接連絡してくれ、と伝言しておいた。市議会では予算・決算委員会、厚生委員会に所属することが決まったというので、早速思いつくことを幾つかアドバイスした。まず、所属委員会の過去1年間の議事録を通読して、どんなことが主な議題になっているかを把握すること。自治体の予算は7割が人件費であり、事業費は3割にも満たない。その 事業の内容は、その年の予算案を見ればどこにどう配分されているかが分かるので、その執行状況をチェックしていけば、行政の課題、問題点が透けて見えてくる。地方議会では独特の慣習や各政党・会派の力関係が大きく議論を左右する。それを知るためには、議会事務局のベテラン職員に議会の過去10年、20年の流れ、特徴を聞くこと。最年少の新人議員なので、他のベテラン議員たちに礼を失しないよう配慮しながら、教えを乞う形で勉強させてもらうという態度で接することが重要―――などを指摘した。いずれも私自身が日本経済新聞記者時代に、東京都議会や国会を担当した際、励行してきたことばかりだった。

 私は2004年の開校から12年間、中嶋嶺雄初代学長の補佐役として、教授兼図書館長を務めてきた。この大学は、全国に800ある大学のうち、全く他に例のないユニークな制度をたくさん持った「新構想大学」であり、形としては県が出資する県立大学に似ているが、実態は極めて私立に近く、学長の経営のリーダーシップによって国際競争力の高い大学として、グローバル人材を育成することに重点を置いている。事実上の全寮制で、授業は全て英語で行い、学生全員に1年間の留学を義務付けている。定員は当初わずか100人で、現在は175人だが、他の国公立大や有名私大と受験日を意図的にずらしているため併願が可能であり、受験生は当初定員の20倍以上、今も10倍を超え、実際に入学するのは例年200人となっている。学生は47都道府県全県から集まり、それだけでも学内は異文化接触の機会の多い所になっているが、1年間の留学が全て提携校との交換留学のため、毎年約200人の外国人留学生が来ることになっており、キャンパス内の学生は常に四分の一が外国人という状態になっている。

 2008年に初めて卒業生を出して以来、常に学生の殆どが第一志望の企業に就職できていて、厳しい教育と1年間の留学を経験してきたことから、海外で活躍できる人材として一流企業からも歓迎されている。同時に、秋田で生活する中で秋田が好きになり、秋田のために貢献したい、と考える学生もかなり居て、既に自分で会社を起こして社長になって活躍している者も何人もいるし、今回は政界に飛び込む例も出てきた訳だ。卒業生の殆どは今20代から30代。事実上の全寮制なので、OBたちのネットワークもしっかりとしており、これからそうしたOBたちが日本及び海外と繋がって、秋田に新しい風を吹き込み、地域活性化に大きく貢献するだろうと私は大いに期待している。

(つづく)

千葉哲雄様 (個人会員)が来所されました

5月31日、長く海外に勤務されており、従心会倶楽部については創業時から支援戴いておりました千葉哲雄氏が来訪されました。
同氏は飛島建設の海外部門の先駆者として、長く海外に勤務され、特に、香港、シンガポール、オーストラリア、フィリッピン、インドネシア、等で地下鉄工事、高速道路工事、処理場工事、建築工事など多大な貢献をされました。
更に又、コンサルタントとして、チモール、アフガニスタン、ベトナム、タイ等など30か国において土木建設工事の指導、支援をされました。

右端は千葉哲雄氏、左端は飛島章氏(元飛島建設社長)

山田二三雄先生を訪問

5月16日、株式会社従心会倶楽部 顧問でNPO法人 日本カンボジア交流協会 理事長の山田 二三雄先生を都内・湯島の本部を訪問し、今後の事業について意見交換を行いました。

山田先生は、最近フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」を立ち上げ、これまでの幅広いご経験を活かした活動を開始されました。

右から2二人目が山田二三雄先生

フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」

北海道より会員の佐藤健一氏来所

5月16日、従心会俱楽部倶楽部創業時より活動頂いている佐藤健一氏が札幌より頼所され、これからの活動について協議しました。

佐藤氏は富士ゼロックス、日本調剤で活躍されました。その後、医療法人財団の常務理事を経て現在、社会福祉法人の評議員議長の要職にあり、幅広い活動を続けておられます。

左側が佐藤健一氏

風狂盲人日記 ⑱ オレゴンからの便り

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「オレゴンからの便り」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年5月18日

 米オレゴン州に住む高校時代の友人K子さんからメールがあった。近況報告を兼ねて、彼女が私の「盲人日記」を全て読んだ感想を記してくれたものだが、「日記の内容が多彩であり、しかも独自の視点で深く書かれていて、読者に勇気を与える」と絶賛してくれているのがとても有難かった。

 彼女は大学を卒業後、プロの翻訳家としてベトナム戦争を素材にした米国の小説を幾つか(そのうち一作は映画化もされた)、更に米有力政治家の評伝などを翻訳していた。その訳文は英語の複雑微妙なニュアンスの部分を巧みな日本語で分かりやすく、しかも美しく描いており、翻訳家としてなかなか優れた力量の持ち主だと感心していた。

 米国人と結婚し、もう長い間オレゴン州は郊外の山荘に住み、家庭菜園や草花の世話をしながら、四季折々の周辺の情景を詩に書く生活を続けている。
 ネットを通じて、日本の現代詩の動向についても詳しくフォローしていて、高校の先輩がナスやキュウリ、大根など野菜をテーマにした詩を書いていることなどを教えてくれた。

 50歳前後からバレーを習い始めた。トウシューズを履いて背筋を伸ばし、若い人たちと一緒に踊っていると気分も良く、姿勢も良くなると語っていた。更にオペラ歌手について声楽にも取り組んだことがあり、気管支を拡げ横隔膜を動かすことが体にとても良い、と私にも歌唱健康法を勧めてきた。

 そうした彼女の近況を知るにつけ、ふと、中学時代に愛読したドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)を思い出した。彼が20代で書いた『郷愁』『車輪の下』、また40歳で執筆した『デミアン』などは、10代の少年の多感な心の揺れを見事に描いたものだが、その彼の作品を最近改めて年代順に十冊近く読み直した(朗読CDで聴いた)。晩年のエッセイ集に『人は成熟するにつれて若くなる』という作品があった。ナチスドイツを嫌って第一次大戦前からスイスに移住し、湖畔のアトリエで南アルプスの山々や草原を毎日眺めながら夥しい数の風景画を描き続けた。第二次大戦中には『ガラス玉演戯』という現代社会を痛烈に批判する長編のSF小説を書き、これがノーベル文学賞の受賞作となった。

 戦後は訪ねてくる友人たちとの会話を楽しみ、膨大なエッセイを書き続け、世界各地の友人に丁寧な長い手紙を書き送っている。彼は少年時代から詩人に憧れ、詩作を続けることが生涯の生きる糧になっていた。 没後、彼の小説、詩、エッセイ、書簡類を整理した全集が編まれたが、全100巻を越える分量になっているという。年齢を重ねても青春時代のナイーブな感性を失わぬどころか、ますますそれに磨きをかけ優れた文章を綴っているが、その作品には人を見る目の優しさがあふれている。

 そうした「一生青春」を地で行くような生き方をすることが、私たち後期高齢者にも望ましいし、その好例がオレゴンのK子さんにも窺えると思う。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑰ 秋田美人の謎

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「秋田美人の謎」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年4月30日

 23日の日曜日、東京神田で開催された結婚披露宴に出席した。大学退職後東京で親しくなったM子のファンクラブ会長と応援団長を自認しているので、その友人代表として喜んで祝辞を述べさせてもらった。

 M子は秋田市郊外の農家の出身。私が2004年から16年まで務めた国際教養大学の場所と同じで、彼女が中学・高校生の頃、恐らく田んぼのあぜ道や農道で何度かすれ違っていたはずだ。彼女は私と同じ東京外大を卒業した後、東大の大学院で国際協力論を学んで修士号を取得し、その後私の友人が経営する研究所で主に日本とインドネシアの経済交流事業、人的文化的交流事業の促進に努めていた。
そして新郎はやや年長の会社幹部で、2年ほど前異業種交流会で知り合い意気投合してゴールインすることになったという。

 M子の最大の特徴は、知的好奇心に満ちて、知らないことにはどんどん興味を持って聞き、相手の気を逸らさずに楽しい会話ができること。たまたま彼女の住んでいたアパートが、同じ足立区内の私のマンションから歩いて30分ほどの距離だということもあり、最寄りの駅前の居酒屋で夜8時ぐらいからあれこれ話し込んで、気が付いたら午前2時、3時となっていて、慌ててタクシーで帰るということも2、3度あった。

 私が秋田に移り住んだ頃には、『秋田美人の謎』という本が幾つも出ていて、シベリアや大陸からの人種混合説や、日照時間が短いこと、海の幸・山の幸が豊富で栄養バランスがいいため、血色の良い明るく元気な子が育つことなど、様々な理由が述べられていたが、どれも決定的な原因解明には至らず、結論は常に「何故か秋田には美人が多い」だった。

 私はその謎を自分では解けた、と思っている。その最大の理由は、秋田の女性は男を励まし元気にさせる術を心得ていて、特に夫婦間では「うちのお父ちゃんのやることに間違いはない」「夫にはこんな素晴らしい点がある」と素直にうなずく人が圧倒的に多いことだ。東京では経済不況が続けば続くほど、生活が苦しければ苦しいほど、夫の甲斐性の無さを面と向かってなじったり、子供に「お父さんのようになったら駄目よ」と言う家庭が多いようだが、秋田ではまずそんな風景は考えられない。「私たちがこうして皆元気で明るく楽しく過ごせるのもお父さんのお陰」「お父さんが色んな趣味を持って能力を発揮するのは素晴らしいことだわ」と夫を素直に信頼し、尊敬している妻が非常に多いのだ。

 そういう妻たちが常に明るくしていられるからこそ、また家庭も円満になっている訳で、子供達も母親の言葉を素直に受け止めて、「うちの父ちゃんはエラい」と信じて疑わない。だから秋田県内のどの田舎を回ってみても、主婦やおばあちゃんと会うと皆ほぼ例外なくニコニコして、優しく応対してくれる。その笑顔が実に素晴らしいのだ。そこで否応なく「ああ、この人は昔も今も素晴らしい美人だろうな」と思わせる人たちが多いのだ。これは全国でもかなり珍しい、しかも貴重な秋田独特の精神風土ではないか、と私は常々思ってきた。

 そう言えば、20年以上前ある週刊誌が全国の県庁所在地で地元の商店街やお店、食堂などで見かける地元の女性、十代から五十代ぐらいまで100人をアトランダムに選んで、それを美人か普通か不美人かと、〇、△、×で表現したことがある。選ぶのは雑誌編集者とカメラマン、デザイナーなどだが、殆どの県では〇の美人が1割程度なのだが、秋田だけは飛びぬけて多く、30数パーセントと高かった。そこでもやはり、「何故か秋田に美人が多い」が結論となっていたが、その美人の根拠としてやはり「笑顔が美しい」というのが決定的に重要な要素になっていた、と記憶している。

 そういう秋田美人の特徴をそのままDNAに持ったM子が、これからの結婚生活で、仕事の上でも、また家庭の上でも、笑顔のままで明るく楽しく過ごしていくだろうことは容易に想像できる。

 祝宴の締めくくりに、M子の父親が二人の門出を祝して松山千春の『大空と大地の中で』を歌った。音量豊かで、難しい高音部の長いフレーズを楽々と歌いこなしていた。後でM子に聞くと、「宴会にバラエティーを持たせようと父に頼んで歌ってもらった」とのこと。普段畑仕事をしながら好きな曲を口ずさみ、晩酌の後カラオケでのど自慢するのを、奥さんと娘が楽しそうに聞いている風景が目に浮かんだ。その母娘の表情は慈愛に満ちて優しく、愛する人を包み込む慈母観音の笑顔に似て、それこそが秋田美人の謎の秘密だと私は思っている。

(つづく) 

風狂盲人日記 ⑯ ロシアのウクライナ戦争

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「ロシアとウクライナ戦争」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年3月×日

 ロシアが突然ウクライナに侵攻し、一方的に戦争を始めてからもう一年以上経つ。この事件はロシアの大国主義的横暴に基づく領土奪還戦争なのだが、ウクライナだけでなく世界中を驚かせた強引な戦争であり、ロシアがいつどういう形で敗北を認め、収拾するかがずっと焦点になっていた。しかし未だにその出口は見えていない。

 私は全盲のため日本の新聞、雑誌、テレビなど全く見ていない。ウクライナに関する情報は全てアメリカの24時間ニュース報道番組のNPR(National Public Radio=全米公共ラジオ放送)を毎日数時間聴いて得る情報と、友人達からかかってくる電話や、Zoom会議による研究会で参加者たちと色々意見交換することから得る情報に限られている。このため、以下に記すことは全て私の頭の中に整理したものであり、細かな事実関係、特に数字の類については正確を期すことができないことを予めお断りしておく。 ここで、このウクライナ戦争の動きを私なりに整理すると、次のようになる。

(1)ロシアが突然ウクライナに侵攻した時には、プーチン大統領が「ウクライナ国内でロシア人同胞たちが不当に惨殺されている。その行為はナチスのユダヤ人虐殺に匹敵する非人間的なものであり、我が国はあくまで人道的見地から同胞を救うために止む無く侵攻する」と語った。
 これは数百年前からユダヤ人が大量に居住しているウクライナにとっては全く想像もできない非難だった。しかもロシア側が挙げる映像、写真類についても「悪質なデマ」と猛反発した。後に残虐行為の映像写真類は、ロシア軍が民間から雇った傭兵部隊がウクライナ軍に偽装して作成したものであることがほぼ確実になり、ロシアの「人道的救済」が全く事実無根であることが世界中に知れ渡った。その後、ロシア側はこの「人道的見地」に一切言及することを止め、昨年秋ごろからは軍司令部首脳たちが堂々と「我々の目標は不当に占拠された領土を奪還することにある」と変化し、そのまま今日に至っている。

(2)プーチン大統領は侵攻当初、軍最高幹部達の「早ければ三日、遅くても一週間もあれば制圧できる」との見通しをそのまま信じていた節がある。ところが予想もしない反撃を受け、プーチンは第二次大戦でドイツが降伏した5月のVictory Day(戦勝記念日)までに決着すると言明した。それもおぼつかなくなり、それ以後全くいつ決着するのか不明のままプーチンも記者会見などに姿を見せることなく、ひたすらロシア軍が砲弾をウクライナ国内に撃ち込むことを続けた。

(3)一方、ウクライナは開戦と同時にNATO軍、特に米政府に全面支援を懇請し続けた。同政府は今年1月約100人の兵士を米国に送って、オクラホマ州内の基地で戦闘態勢の特別訓練を受けさせ、その特殊部隊が国内に戻って配置についた。また、ドイツにもかなりの数の兵を派遣し特訓を受けさせ、そうした軍事技術を身に着けた兵隊たちが徐々に配置されるにつれ、ウクライナ軍の防衛態勢もかなり充実してきた。これには米国が「米軍を直接派兵することはないが、武器弾薬は積極的に提供する」と言明し、併せてEU加盟の20数か国が最新鋭の戦車をかなり提供した上、今月に入って戦闘機も4機から20機近くまで提供するようになった。アメリカも戦闘機は送れないが、開戦当初から素早くドローン(無人爆撃機)を提供し、2022年暮れには1,100機ほどを搬送した。それがロシア国内のミサイル基地を叩くことによって、ロシア軍内に2~3万人規模の被害が出たと言われている。戦闘機は単独で動いてもほとんど意味がないが、地上との緊密な連絡を取ることで敵の基地を爆撃することが主な任務であり、その態勢がほぼ今年2月ぐらいから整ったとみてよい。
 そのため、ロシア側は今年に入ってミサイル攻撃を大幅にエスカレートし、今月には自国のミサイルが34発もウクライナ軍によって撃ち落されたことへの反発から、超音速ミサイル弾を12発撃ち込み、ウクライナ側の被害を増大させている。ウクライナ軍の発表によると、今月ロシア側はウクライナ軍の三倍以上の砲弾を撃ち込んできているという。

(4)国連を舞台にロシアに対する非難が続き、国連総会で141ヵ国がロシアの無差別ミサイル攻撃を「残虐な戦争犯罪」として非難する決議を採択したが、ロシアは一向に動じない。更に今月、ロシアがウクライナの子供達を16,000人以上戦争開始前後から親善旅行と称してロシア側に引き入れ、ロシア国内でロシアの素晴らしさを教え、ウクライナの劣悪さを叩き込む洗脳教育をしていることが明るみに出て、国際司法裁判所がプーチン大統領を名指しで戦争犯罪者として告発するという、極めて例のない厳しい措置を取ったが、それに対してもロシア側は無視している。西側諸国はほぼ一致してロシアの経済封鎖を決め、ロシアとの貿易を中止しているため、ロシアも厳しい経済事情に追い込まれているが、米国内の情報機関によれば、この間中国がロシアに数百機のドローンと砲弾を提供し、その見返りとしてロシアの輸出用石油の23%を中国が受け入れることで、中国がロシアの最大の貿易相手国となり、両国の経済・軍事両面の結束を高めている。習近平が今月モスクワを訪問し、長時間にわたってプーチンと会談した内容は全く明らかにされていないが、そうした経済軍事同盟を強化したことだけは間違いないようだ。

(5)ウクライナは日本の1.6倍の国土に4500万人の国民がいるが、女性子供を中心に約800万人がこの1年間に国外に緊急避難している。国内は相当砲撃によって荒らされ、都市部の公共施設や学校、病院、住宅地域まで破壊され、電気・ガス・水道などのインフラ施設も壊され、食糧難もあって非常に厳しい状況にある。だがそれ故にロシアに屈服する気配は全くない。たとえロシアが領土奪還を宣言したとしても、それで収束するとはとても考えられない。プーチンがヘリコプターで現地を視察して回ったが、その瓦礫の下にはまさにそこに住んでいたロシア人同胞も相当多数死傷しているはずだ。つまり何のための戦争なのかが全く分からないという状況にロシアが追い込まれていることだけは間違いない。因みにアメリカの経済学者の推計によると、この1年間のロシア軍の爆撃により、広大な穀倉地帯と言われたウクライナの農地は相当に被害を受けており、それを1年半以前までの状態に戻すには、どんなに早くても5年から10年はかかる見込みだという。戦争がどういう形で終わるにせよ、ウクライナ国民はその戦禍の後始末と農地の回復、市民生活の回復には相当な時間とエネルギーと経済的負担を強いられることになるだろう。全く心が痛む話ではある。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑮ 私のオキナワ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
第15回目の今回のテーマは「私ノオキナワ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年2月×日

 今月もまだ寒い日が続いている。同行援護者の腕につかまって歩きながら、冷たい北風を顔に受けていると、また沖縄に行きたいなあ、と想う。2年半前に失明するまで約20年間、ほぼ毎年2回は沖縄に行っていた。南の空と海、住む人たちと歌と踊りの背景にある歴史を辿りながら沖縄各地を歩くことが、日本の近現代史を考え直す上でも極めて大事なことだと思っているからだ。

 初めて沖縄を訪れたのは1982年の夏、米政府から沖縄が「本土並み返還」された10年後。その実情がどうなのかを知りたくて訪ねたのがきっかけだった。「沖縄に米軍基地がある」ではなく「基地の中に沖縄がある」という感が強く、普天間基地などでは今でも爆撃機の発着が頻繁に続いている。戦後既に77年にもなるが、沖縄はまだ戦中・戦後の傷痕をずっと引きずっていると痛感させられる。

 91年から年に1度は沖縄に行こうと決め、あちこち見て歩いたが、大学の同級生で、学生時代にマグロ漁船に乗ってインド洋に行き、その後ヨーロッパを長く放浪していた男Kが那覇に戻って予備校を経営していることを知り、20年ぶりに再会してから沖縄行きに弾みがついた。私が沖縄に行けば必ずKが空港まで迎えに来て、滞在期間の大半を一緒にいて、あちこち案内してくれた。那覇の一番の繁華街、国際通りあたりを歩くと必ず知り合いに会い、立ち話をし、紹介される。沖縄そばや魚料理、豚料理などの旨い店を紹介すると言って連れて行かれるのは、大抵しもた屋の大衆食堂で、夜はもっぱら島唄を聞かせる居酒屋・スナックで、女将やママさん達と実に楽しそうに話をする。島唄ライブの店では、三線を1、2曲聞くと、「もうたまらん」とつぶやいて立ち上がり、ステージのそばまで行って両手を広げ嬉しそうに踊り出す。私もそれに何度付き合って踊ることになったか、数えきれない。

 国際通りの雑居ビル2階に喜納昌吉のライブハウスがあった。最後の演奏を終えた後、午後11時過ぎから喜納とKと私の3人で泡盛を飲みながら午前3時過ぎまで話し込んだことがある。喜納は国会議員をした体験から政治不信を募らせ、「国家など要らない」と無政府主義的な発言を繰り返した。Kも「人はどんな境遇にあっても生きて行けるさ」と頷き、私は「現実に背を向けるか、体制に立ち向かうかで人の価値観、生き方が決まるなあ」と評論家風な発言をした。最後は島民の慣用句である「なんくるないさー(なるようになるさ、仕方ない、何とかなるさ、など多義的な表現)」と笑って、「そのうちにまた話そう」と言って別れた。その店も10年ほど前になくなった。

 Kの特技は人と人とを結びつけること。おかげで随分沖縄に知り合いができたし、Kが7年前病死した後彼の行きつけの店に行くと、噂で聞いているという女将や、「え、Kさんが亡くなったの!!」と驚いて、みるみる涙をいっぱい流すママさんたちが、その後しんみりと、如何にKが心優しい男であったかを様々なエピソードを混じえて語ってくれた。

  島唄の囃子言葉に「ハー、ユイユイ」があり、このユイは「結」だと聞いた。那覇空港から首里城までのモノレールも愛称は「ユイマール」であり、人と人の心を結びつけるのが沖縄、ということを象徴したネーミングになっている。Kはまさにその「ユイ」を大事にするウチナンチュウ(沖縄人)の代表だったような気がする。

  Kと会えば、別れる時は必ず「今度いつ来る」と聞かれ、「来年」と答えれば「もっと早く来いよ」と何度も繰り返す。そこで2000年頃から年2回、それも最初は1回に3~4日程度だったが、だんだん期間を延ばし、1回に1週間から2週間は居ることにしていた。Kが亡くなってからも息子さんが父親と同じように何度も「また来てください。歓迎します」と連絡をしてくるので、沖縄行きは止められないな、と思っていた。それが2年半前に失明し、もう旅行は無理だと殆ど諦めてきているが、最近、「もしかしたらまた行けるようになるかもしれない」と思うようになってきた。特に冬の期間、12月から2月が最も快適で、気温は20度以下にはめったに下がらず、夜でもTシャツに上着で済む。できれば来年の2月頃には行ければいいな、と思っている。

(つづく)

当会会員の南野洋氏が来社されました

2月17日当会会員の南野洋氏が来社され意見交換を行いました。
南野さんは独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の建築課の課長補佐を務められ、更に今年3月に相模東急直通線が開通致しますが、その新横浜駅の駅舎などの開発を担当されておられます。

同氏はまた当社の顧問であります南野脩先生(工学博士)のご子息であると同時に、何よりも当会の創業中心メンバーとして長く会の運営をリードされた今は亡き南野徹氏の甥でもあります。南野徹氏とのことを懐かしく回顧いたしました。

向かって左が南野洋氏