5月16日、株式会社従心会倶楽部 顧問でNPO法人 日本カンボジア交流協会 理事長の山田 二三雄先生を都内・湯島の本部を訪問し、今後の事業について意見交換を行いました。
山田先生は、最近フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」を立ち上げ、これまでの幅広いご経験を活かした活動を開始されました。

フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「オレゴンからの便り」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年5月18日
米オレゴン州に住む高校時代の友人K子さんからメールがあった。近況報告を兼ねて、彼女が私の「盲人日記」を全て読んだ感想を記してくれたものだが、「日記の内容が多彩であり、しかも独自の視点で深く書かれていて、読者に勇気を与える」と絶賛してくれているのがとても有難かった。
彼女は大学を卒業後、プロの翻訳家としてベトナム戦争を素材にした米国の小説を幾つか(そのうち一作は映画化もされた)、更に米有力政治家の評伝などを翻訳していた。その訳文は英語の複雑微妙なニュアンスの部分を巧みな日本語で分かりやすく、しかも美しく描いており、翻訳家としてなかなか優れた力量の持ち主だと感心していた。
米国人と結婚し、もう長い間オレゴン州は郊外の山荘に住み、家庭菜園や草花の世話をしながら、四季折々の周辺の情景を詩に書く生活を続けている。
ネットを通じて、日本の現代詩の動向についても詳しくフォローしていて、高校の先輩がナスやキュウリ、大根など野菜をテーマにした詩を書いていることなどを教えてくれた。
50歳前後からバレーを習い始めた。トウシューズを履いて背筋を伸ばし、若い人たちと一緒に踊っていると気分も良く、姿勢も良くなると語っていた。更にオペラ歌手について声楽にも取り組んだことがあり、気管支を拡げ横隔膜を動かすことが体にとても良い、と私にも歌唱健康法を勧めてきた。
そうした彼女の近況を知るにつけ、ふと、中学時代に愛読したドイツの作家ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)を思い出した。彼が20代で書いた『郷愁』『車輪の下』、また40歳で執筆した『デミアン』などは、10代の少年の多感な心の揺れを見事に描いたものだが、その彼の作品を最近改めて年代順に十冊近く読み直した(朗読CDで聴いた)。晩年のエッセイ集に『人は成熟するにつれて若くなる』という作品があった。ナチスドイツを嫌って第一次大戦前からスイスに移住し、湖畔のアトリエで南アルプスの山々や草原を毎日眺めながら夥しい数の風景画を描き続けた。第二次大戦中には『ガラス玉演戯』という現代社会を痛烈に批判する長編のSF小説を書き、これがノーベル文学賞の受賞作となった。
戦後は訪ねてくる友人たちとの会話を楽しみ、膨大なエッセイを書き続け、世界各地の友人に丁寧な長い手紙を書き送っている。彼は少年時代から詩人に憧れ、詩作を続けることが生涯の生きる糧になっていた。 没後、彼の小説、詩、エッセイ、書簡類を整理した全集が編まれたが、全100巻を越える分量になっているという。年齢を重ねても青春時代のナイーブな感性を失わぬどころか、ますますそれに磨きをかけ優れた文章を綴っているが、その作品には人を見る目の優しさがあふれている。
そうした「一生青春」を地で行くような生き方をすることが、私たち後期高齢者にも望ましいし、その好例がオレゴンのK子さんにも窺えると思う。
(つづく)
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「秋田美人の謎」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年4月30日
23日の日曜日、東京神田で開催された結婚披露宴に出席した。大学退職後東京で親しくなったM子のファンクラブ会長と応援団長を自認しているので、その友人代表として喜んで祝辞を述べさせてもらった。
M子は秋田市郊外の農家の出身。私が2004年から16年まで務めた国際教養大学の場所と同じで、彼女が中学・高校生の頃、恐らく田んぼのあぜ道や農道で何度かすれ違っていたはずだ。彼女は私と同じ東京外大を卒業した後、東大の大学院で国際協力論を学んで修士号を取得し、その後私の友人が経営する研究所で主に日本とインドネシアの経済交流事業、人的文化的交流事業の促進に努めていた。
そして新郎はやや年長の会社幹部で、2年ほど前異業種交流会で知り合い意気投合してゴールインすることになったという。
M子の最大の特徴は、知的好奇心に満ちて、知らないことにはどんどん興味を持って聞き、相手の気を逸らさずに楽しい会話ができること。たまたま彼女の住んでいたアパートが、同じ足立区内の私のマンションから歩いて30分ほどの距離だということもあり、最寄りの駅前の居酒屋で夜8時ぐらいからあれこれ話し込んで、気が付いたら午前2時、3時となっていて、慌ててタクシーで帰るということも2、3度あった。
私が秋田に移り住んだ頃には、『秋田美人の謎』という本が幾つも出ていて、シベリアや大陸からの人種混合説や、日照時間が短いこと、海の幸・山の幸が豊富で栄養バランスがいいため、血色の良い明るく元気な子が育つことなど、様々な理由が述べられていたが、どれも決定的な原因解明には至らず、結論は常に「何故か秋田には美人が多い」だった。
私はその謎を自分では解けた、と思っている。その最大の理由は、秋田の女性は男を励まし元気にさせる術を心得ていて、特に夫婦間では「うちのお父ちゃんのやることに間違いはない」「夫にはこんな素晴らしい点がある」と素直にうなずく人が圧倒的に多いことだ。東京では経済不況が続けば続くほど、生活が苦しければ苦しいほど、夫の甲斐性の無さを面と向かってなじったり、子供に「お父さんのようになったら駄目よ」と言う家庭が多いようだが、秋田ではまずそんな風景は考えられない。「私たちがこうして皆元気で明るく楽しく過ごせるのもお父さんのお陰」「お父さんが色んな趣味を持って能力を発揮するのは素晴らしいことだわ」と夫を素直に信頼し、尊敬している妻が非常に多いのだ。
そういう妻たちが常に明るくしていられるからこそ、また家庭も円満になっている訳で、子供達も母親の言葉を素直に受け止めて、「うちの父ちゃんはエラい」と信じて疑わない。だから秋田県内のどの田舎を回ってみても、主婦やおばあちゃんと会うと皆ほぼ例外なくニコニコして、優しく応対してくれる。その笑顔が実に素晴らしいのだ。そこで否応なく「ああ、この人は昔も今も素晴らしい美人だろうな」と思わせる人たちが多いのだ。これは全国でもかなり珍しい、しかも貴重な秋田独特の精神風土ではないか、と私は常々思ってきた。
そう言えば、20年以上前ある週刊誌が全国の県庁所在地で地元の商店街やお店、食堂などで見かける地元の女性、十代から五十代ぐらいまで100人をアトランダムに選んで、それを美人か普通か不美人かと、〇、△、×で表現したことがある。選ぶのは雑誌編集者とカメラマン、デザイナーなどだが、殆どの県では〇の美人が1割程度なのだが、秋田だけは飛びぬけて多く、30数パーセントと高かった。そこでもやはり、「何故か秋田に美人が多い」が結論となっていたが、その美人の根拠としてやはり「笑顔が美しい」というのが決定的に重要な要素になっていた、と記憶している。
そういう秋田美人の特徴をそのままDNAに持ったM子が、これからの結婚生活で、仕事の上でも、また家庭の上でも、笑顔のままで明るく楽しく過ごしていくだろうことは容易に想像できる。
祝宴の締めくくりに、M子の父親が二人の門出を祝して松山千春の『大空と大地の中で』を歌った。音量豊かで、難しい高音部の長いフレーズを楽々と歌いこなしていた。後でM子に聞くと、「宴会にバラエティーを持たせようと父に頼んで歌ってもらった」とのこと。普段畑仕事をしながら好きな曲を口ずさみ、晩酌の後カラオケでのど自慢するのを、奥さんと娘が楽しそうに聞いている風景が目に浮かんだ。その母娘の表情は慈愛に満ちて優しく、愛する人を包み込む慈母観音の笑顔に似て、それこそが秋田美人の謎の秘密だと私は思っている。
(つづく)
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「ロシアとウクライナ戦争」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年3月×日
ロシアが突然ウクライナに侵攻し、一方的に戦争を始めてからもう一年以上経つ。この事件はロシアの大国主義的横暴に基づく領土奪還戦争なのだが、ウクライナだけでなく世界中を驚かせた強引な戦争であり、ロシアがいつどういう形で敗北を認め、収拾するかがずっと焦点になっていた。しかし未だにその出口は見えていない。
私は全盲のため日本の新聞、雑誌、テレビなど全く見ていない。ウクライナに関する情報は全てアメリカの24時間ニュース報道番組のNPR(National Public Radio=全米公共ラジオ放送)を毎日数時間聴いて得る情報と、友人達からかかってくる電話や、Zoom会議による研究会で参加者たちと色々意見交換することから得る情報に限られている。このため、以下に記すことは全て私の頭の中に整理したものであり、細かな事実関係、特に数字の類については正確を期すことができないことを予めお断りしておく。 ここで、このウクライナ戦争の動きを私なりに整理すると、次のようになる。
(1)ロシアが突然ウクライナに侵攻した時には、プーチン大統領が「ウクライナ国内でロシア人同胞たちが不当に惨殺されている。その行為はナチスのユダヤ人虐殺に匹敵する非人間的なものであり、我が国はあくまで人道的見地から同胞を救うために止む無く侵攻する」と語った。
これは数百年前からユダヤ人が大量に居住しているウクライナにとっては全く想像もできない非難だった。しかもロシア側が挙げる映像、写真類についても「悪質なデマ」と猛反発した。後に残虐行為の映像写真類は、ロシア軍が民間から雇った傭兵部隊がウクライナ軍に偽装して作成したものであることがほぼ確実になり、ロシアの「人道的救済」が全く事実無根であることが世界中に知れ渡った。その後、ロシア側はこの「人道的見地」に一切言及することを止め、昨年秋ごろからは軍司令部首脳たちが堂々と「我々の目標は不当に占拠された領土を奪還することにある」と変化し、そのまま今日に至っている。
(2)プーチン大統領は侵攻当初、軍最高幹部達の「早ければ三日、遅くても一週間もあれば制圧できる」との見通しをそのまま信じていた節がある。ところが予想もしない反撃を受け、プーチンは第二次大戦でドイツが降伏した5月のVictory Day(戦勝記念日)までに決着すると言明した。それもおぼつかなくなり、それ以後全くいつ決着するのか不明のままプーチンも記者会見などに姿を見せることなく、ひたすらロシア軍が砲弾をウクライナ国内に撃ち込むことを続けた。
(3)一方、ウクライナは開戦と同時にNATO軍、特に米政府に全面支援を懇請し続けた。同政府は今年1月約100人の兵士を米国に送って、オクラホマ州内の基地で戦闘態勢の特別訓練を受けさせ、その特殊部隊が国内に戻って配置についた。また、ドイツにもかなりの数の兵を派遣し特訓を受けさせ、そうした軍事技術を身に着けた兵隊たちが徐々に配置されるにつれ、ウクライナ軍の防衛態勢もかなり充実してきた。これには米国が「米軍を直接派兵することはないが、武器弾薬は積極的に提供する」と言明し、併せてEU加盟の20数か国が最新鋭の戦車をかなり提供した上、今月に入って戦闘機も4機から20機近くまで提供するようになった。アメリカも戦闘機は送れないが、開戦当初から素早くドローン(無人爆撃機)を提供し、2022年暮れには1,100機ほどを搬送した。それがロシア国内のミサイル基地を叩くことによって、ロシア軍内に2~3万人規模の被害が出たと言われている。戦闘機は単独で動いてもほとんど意味がないが、地上との緊密な連絡を取ることで敵の基地を爆撃することが主な任務であり、その態勢がほぼ今年2月ぐらいから整ったとみてよい。
そのため、ロシア側は今年に入ってミサイル攻撃を大幅にエスカレートし、今月には自国のミサイルが34発もウクライナ軍によって撃ち落されたことへの反発から、超音速ミサイル弾を12発撃ち込み、ウクライナ側の被害を増大させている。ウクライナ軍の発表によると、今月ロシア側はウクライナ軍の三倍以上の砲弾を撃ち込んできているという。
(4)国連を舞台にロシアに対する非難が続き、国連総会で141ヵ国がロシアの無差別ミサイル攻撃を「残虐な戦争犯罪」として非難する決議を採択したが、ロシアは一向に動じない。更に今月、ロシアがウクライナの子供達を16,000人以上戦争開始前後から親善旅行と称してロシア側に引き入れ、ロシア国内でロシアの素晴らしさを教え、ウクライナの劣悪さを叩き込む洗脳教育をしていることが明るみに出て、国際司法裁判所がプーチン大統領を名指しで戦争犯罪者として告発するという、極めて例のない厳しい措置を取ったが、それに対してもロシア側は無視している。西側諸国はほぼ一致してロシアの経済封鎖を決め、ロシアとの貿易を中止しているため、ロシアも厳しい経済事情に追い込まれているが、米国内の情報機関によれば、この間中国がロシアに数百機のドローンと砲弾を提供し、その見返りとしてロシアの輸出用石油の23%を中国が受け入れることで、中国がロシアの最大の貿易相手国となり、両国の経済・軍事両面の結束を高めている。習近平が今月モスクワを訪問し、長時間にわたってプーチンと会談した内容は全く明らかにされていないが、そうした経済軍事同盟を強化したことだけは間違いないようだ。
(5)ウクライナは日本の1.6倍の国土に4500万人の国民がいるが、女性子供を中心に約800万人がこの1年間に国外に緊急避難している。国内は相当砲撃によって荒らされ、都市部の公共施設や学校、病院、住宅地域まで破壊され、電気・ガス・水道などのインフラ施設も壊され、食糧難もあって非常に厳しい状況にある。だがそれ故にロシアに屈服する気配は全くない。たとえロシアが領土奪還を宣言したとしても、それで収束するとはとても考えられない。プーチンがヘリコプターで現地を視察して回ったが、その瓦礫の下にはまさにそこに住んでいたロシア人同胞も相当多数死傷しているはずだ。つまり何のための戦争なのかが全く分からないという状況にロシアが追い込まれていることだけは間違いない。因みにアメリカの経済学者の推計によると、この1年間のロシア軍の爆撃により、広大な穀倉地帯と言われたウクライナの農地は相当に被害を受けており、それを1年半以前までの状態に戻すには、どんなに早くても5年から10年はかかる見込みだという。戦争がどういう形で終わるにせよ、ウクライナ国民はその戦禍の後始末と農地の回復、市民生活の回復には相当な時間とエネルギーと経済的負担を強いられることになるだろう。全く心が痛む話ではある。
(つづく)
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
第15回目の今回のテーマは「私ノオキナワ」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年2月×日
今月もまだ寒い日が続いている。同行援護者の腕につかまって歩きながら、冷たい北風を顔に受けていると、また沖縄に行きたいなあ、と想う。2年半前に失明するまで約20年間、ほぼ毎年2回は沖縄に行っていた。南の空と海、住む人たちと歌と踊りの背景にある歴史を辿りながら沖縄各地を歩くことが、日本の近現代史を考え直す上でも極めて大事なことだと思っているからだ。
初めて沖縄を訪れたのは1982年の夏、米政府から沖縄が「本土並み返還」された10年後。その実情がどうなのかを知りたくて訪ねたのがきっかけだった。「沖縄に米軍基地がある」ではなく「基地の中に沖縄がある」という感が強く、普天間基地などでは今でも爆撃機の発着が頻繁に続いている。戦後既に77年にもなるが、沖縄はまだ戦中・戦後の傷痕をずっと引きずっていると痛感させられる。
91年から年に1度は沖縄に行こうと決め、あちこち見て歩いたが、大学の同級生で、学生時代にマグロ漁船に乗ってインド洋に行き、その後ヨーロッパを長く放浪していた男Kが那覇に戻って予備校を経営していることを知り、20年ぶりに再会してから沖縄行きに弾みがついた。私が沖縄に行けば必ずKが空港まで迎えに来て、滞在期間の大半を一緒にいて、あちこち案内してくれた。那覇の一番の繁華街、国際通りあたりを歩くと必ず知り合いに会い、立ち話をし、紹介される。沖縄そばや魚料理、豚料理などの旨い店を紹介すると言って連れて行かれるのは、大抵しもた屋の大衆食堂で、夜はもっぱら島唄を聞かせる居酒屋・スナックで、女将やママさん達と実に楽しそうに話をする。島唄ライブの店では、三線を1、2曲聞くと、「もうたまらん」とつぶやいて立ち上がり、ステージのそばまで行って両手を広げ嬉しそうに踊り出す。私もそれに何度付き合って踊ることになったか、数えきれない。
国際通りの雑居ビル2階に喜納昌吉のライブハウスがあった。最後の演奏を終えた後、午後11時過ぎから喜納とKと私の3人で泡盛を飲みながら午前3時過ぎまで話し込んだことがある。喜納は国会議員をした体験から政治不信を募らせ、「国家など要らない」と無政府主義的な発言を繰り返した。Kも「人はどんな境遇にあっても生きて行けるさ」と頷き、私は「現実に背を向けるか、体制に立ち向かうかで人の価値観、生き方が決まるなあ」と評論家風な発言をした。最後は島民の慣用句である「なんくるないさー(なるようになるさ、仕方ない、何とかなるさ、など多義的な表現)」と笑って、「そのうちにまた話そう」と言って別れた。その店も10年ほど前になくなった。
Kの特技は人と人とを結びつけること。おかげで随分沖縄に知り合いができたし、Kが7年前病死した後彼の行きつけの店に行くと、噂で聞いているという女将や、「え、Kさんが亡くなったの!!」と驚いて、みるみる涙をいっぱい流すママさんたちが、その後しんみりと、如何にKが心優しい男であったかを様々なエピソードを混じえて語ってくれた。
島唄の囃子言葉に「ハー、ユイユイ」があり、このユイは「結」だと聞いた。那覇空港から首里城までのモノレールも愛称は「ユイマール」であり、人と人の心を結びつけるのが沖縄、ということを象徴したネーミングになっている。Kはまさにその「ユイ」を大事にするウチナンチュウ(沖縄人)の代表だったような気がする。
Kと会えば、別れる時は必ず「今度いつ来る」と聞かれ、「来年」と答えれば「もっと早く来いよ」と何度も繰り返す。そこで2000年頃から年2回、それも最初は1回に3~4日程度だったが、だんだん期間を延ばし、1回に1週間から2週間は居ることにしていた。Kが亡くなってからも息子さんが父親と同じように何度も「また来てください。歓迎します」と連絡をしてくるので、沖縄行きは止められないな、と思っていた。それが2年半前に失明し、もう旅行は無理だと殆ど諦めてきているが、最近、「もしかしたらまた行けるようになるかもしれない」と思うようになってきた。特に冬の期間、12月から2月が最も快適で、気温は20度以下にはめったに下がらず、夜でもTシャツに上着で済む。できれば来年の2月頃には行ければいいな、と思っている。
(つづく)
株式会社従心会倶楽部会員でマレーシア・コタキナバル在住の氏原康隆さんより寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
コタキナバルでは新型コロナウイルに対応するため全面的なロックダウンが行われるなど、これまでの生活が一変したと言うことです。
従心会倶楽部のみなさま、こんにちは。 しばらくご無沙汰をしておりました。今日はマレーシアから「コタキナバル便り」を寄稿させて頂きます。
「コタキナバル便り」を書き始めるには、やはり何故私達がコタキナバルにいるのか、その理由なくして語るのは難しいかもと考え,その経緯から始める事にしたいと思います。 私達家族がコタキナバルにやって来たのは2001年の9月16日でした。 丁度、アメリカで貿易センターに2機の飛行機が突っ込んだ同時多発テロの5日後の日でした。 当時、私は仕事でパキスタンに駐在していましたが、諸般の事情で飛島建設を退社し、後任者がやって来る時でも有りました。
後任者の着任数日後に前述の同時多発事故が発生。 本社ではアメリカの動きを察し、イスラマバード空港は軍によって閉鎖され飛行場は使用出来なくなり、イスラマバードでは通常の生活は出来なくなると判断し、後任者には直ぐにパキスタンから出ろと言う指示を出しました。 引き継ぎ作業も途中にして後任者は、翌日には日本に帰国してしまいました。 私達家族は取り残された形でイスラマバードに足止めをくらいました。 私達は後任者のように「バイバイ」と言って直ぐにパキスタンを出国する訳に行きません。 残された引き継ぎ書類の整理や、私達の家財道具の引越し準備に入らなければいけませんでした。 その間に、各大手の商社マンの家族、JICA職員の家族、日本大使館の家族の人達もパキスタンから一斉に出国して行きました。 私達家族にはどこからも何も指示は無く、その時は、「自分の身は自分で守るしかない」と思わされた数日間でした。
私はかなり以前から、会社を退職しても働かずして自分達の貯蓄の金利で日本からさほど遠くない所で生活が出来る国はないかと調べていました。 探し出すのにさほど時間は掛かりませんでした。 それは家内の故郷であるコタキナバルでした。 だから、パキスタンを脱出する際には、コタキナバル以外に思い付かず、行先に迷う気持ちは有りませんでした。 当時、私は52才。 私達の第2の新しい人生がスタートした瞬間でした。 そして、息子は中学1年生。 この時点では、息子に大きな試練が待ち構えているとは想像も出来ませんでした。
2001年9月、当時のコタキナバルは本当に生活し易い環境でした。 街を走る車数は少なく、街中のどこに行っても駐車場を探す必要はなく、駐車はどこでもすべて無料でした。 1ヶ月間の光熱費も2,500円程で十分。 二人で外食しても昼食は250円程、夕食は700円も有れば十分でした。 特に助かったのは銀行の金利でした。 通常の長期金利は4%、ブミプトラ(マレー人優遇政策)で優遇されている人達は13%、但し、預金額には600万円と上限有り。 家内はこの優遇を受ける事が出来助かりました。当時、不動産も驚く程安かったので、小高い丘の上に位置し、部屋のバルコニーから町と海が全貌出来る床面積200平方メートルのマンションを住居用として約1,000万円で購入。 ここでの収入源の足しになればと、街中の中心地に所在するリゾート・マンションを賃貸用(140平方メートル)として900万円で購入。 余った現金は銀行に預け、その金利と家賃で十分生活していける環境に有り、65才から受取れる年金は考慮する必要は有りませんでした。 ここ迄は、私達の第二の人生は計画通りでした。
私達の生活環境が激変したのは2020年3月18日からでした。 それは、誰しもが周知している世界を震撼させたコロナ・ウイルスです。 サバ州では、ウイルス(コロナ)による感染拡大を防ぐための措置として州政府はコタキナバル市を全面的にロックダウンした事でした。 コタキナバルと言う街は一夜にしてゴーストタウンと化し、それは本当に異様な世界でした。 車で街中を走っても誰一人として歩いている者はいません。 車の中も運転手以外は誰も同乗する事が出来ないほど厳しいものでした。 そして、何よりも私達が大変な思いをさせられたのは、そのロックダウン中に家内が部屋の置物につまづき転んで左腕を骨折した事でした。 感染が拡大している最中だったので、病院に行くのはとても不安でした。 幸い、近くに整体師(中国人)の先生が住んでいたのを家内が思い出し、病院に行くのを止めて、急遽、その先生宅に予約なしで訪問。 家内は車の中で必死に神様に祈りを捧げ、そのかいあってか無事に先生に応急処置をして頂ける事が出来ました。 後日、民間の総合病院を訪れ、完治とは言えないですが、日常の生活が出来る様になる迄に4ヶ月程掛かりました。
そして、次に私達を非常に悩ませたのはコロナに対する感染防止策としてのワクチン接種です。 日本の様にワクチン管理が厳しくされていれば良いのですが、当地での医療(医師、看護師、設備)には問題が多過ぎます。 加えて、接種されるワクチンもファイザー、モデルナ、アストロゼネカ、それに加えて中国製の2種類のワクチン、5種類のワクチンがそれぞれクアランプールからサバ州に割り当てられた分量のワクチンが輸送されて来ます。 そこから病院ごとにワクチンが振り当てられ、割り当てられた病院でワクチン温度の管理、看護師によるワクチンの瓶から注射器への配分、注射器の管理等、管理項目は多岐に有り、それを地元の看護師が適切にこなすにはスキルが余りにも不足しています。 ワクチン接種に行って、そこで始めてどのワクチンを接種させられるのか知らされるのも不安です。 日本の新聞やTVではワクチン接種後の副作用や接種後に亡くなった人の記事を目にする事が出来ますが、ここではそう言った記事は政府の管理下にあり、我々は目にする事は全く出来ず、本当に大丈夫なのか不安が募るばかりです。 特にショックだったのは、何の持病も無かった知人の奥様がワクチン接種後翌日に亡くなった事でした。 ご主人は余りにもショックが大き過ぎて容貌は痴呆症の様に別人になってしまい、見るに耐えられない状態でした。 そして、それが記事に載る事も有りませんでした。 他にも同じような事例は有りますが、それらも全て記事になる事は有りませんでした。 憤りを感じましたが、虚しさの方が強く、その結果、私達はワクチン接種をしない事を決めました。 最近では規制も緩和され自由に動く事が出来ますが、当初は大変でした。 どこに行っても(ホテル、レストラン、ショッピングモール、教会、銀行、郵便局、学校等、病院以外のあらゆる施設)ワクチン証明書の提示(スマホでのアプリ)を求められ、私達にとってはとても厳しい生活環境に有りました。 家内と二人で「まるでモグラ生活だね」と言い合っていたのはその時期でした。 当然、私の学校でのバスケットボールのコーチ活動や自宅でのギター教室も全て中止となりました。
昨年の12月からコタキナバルー成田の直行便が週に一便で再開致しました。 それ迄は、クアランプール経由で羽田か成田に着く便が有りましたが、感染の防止を考えれば、経由を避け出来るだけ多くの人達と交えない直行便がベストだと考えています。 航空運賃もコロナ禍以前であれば往復で5~6万円で行けていましたが、今は10~12万円と高額になっています。 このコロナ感染は、コタキナバルに長期滞在していた多くの日本人の人達にも暗い影を忍ばせています。 コタキナバル―成田間の直行便が再開したので、日本に一時帰国をしていた人達が戻ってくるのではと期待していましたが、その傾向が全く見当たりません。 通常であれば、日本人が集まり易いゴルフ場とかホテル、馴染みの日本料理店等に行けばチラホラ顔見知りの日本人を見かけますが、その姿が全く見られません。 私のコタキナバルでの囲碁友達も部屋(賃貸マンション)をそのままにして未だに帰って来ていないのは寂しい限りです。 加えて、ペナン島に長期滞在していたパキスタン時代から付合いの有った囲碁友達は、昨年日本に一時帰国をしていた際にコロナの影響を間接的に受けて亡くなりました。 今では、コタキナバルで対局出来る方が誰もおらず、Youtubeで観戦しながら時間を潰す日々となっています。
コタキナバルから優秀な若者が離れて行っているのを実感しています。 私が今日までに教えて来たギター教室での学生達や学校で教えていたバスケット部の学生達のほとんどがこの3年間の間にコタキナバルから消え去り、社会人となってコタキナバルで頑張っているのは私の知る限りでは数人だけです。 社会人となった若者はクアランプールやシンガポールに職場を求め、コタキナバルを離れて行きます。 裕福な家庭で育った学生は海外(英国、オーストラリア、ニュージーランド、米国)に留学し、卒業後はその国で仕事を見つける意向が強いです。 特に医療関係、建設関係はその傾向が強いです。 まず、その学生の親たちが地元に帰ってくるなと説得しています。 高度な教育を受けてもコタキナバルでその力を発揮出来る職場(会社)がないからです。 給与で比較するとクアランプールではコタキナバルの2倍、シンガポールでは3倍貰えると若者たちは言っています。 給与額にうんぬん言うのは表面的な問題かも知れません。 根本の問題は内部的な所にあり、それは人種的、宗教的な問題も絡んでいます。 マレーシアはやはり多民族で構成された国です。 マレー系の人達は政治を中心に、中国系の人達は経済を中心にと言う考え方は根強く残っています。 それは宗教的にも言える事で、イスラム主義は政治を、キリスト教とヒンズー教は経済をと言っている様にも捉える事が出来ます。
コタキナバルに長期滞在して21年になろうとしています。 この先も長くコタキナバルに滞在するのであれば、マレーシアの永住ビザを取得しておいた方が良いと家内に勧められ、先日、関係部署に膨大な申請書を提出し、面接も終えました。提出後、20年経っても取得出来るか否か分からないと言われている代物ですが、取得出来れば、今後、マレーシアへの入国は滞在ビザを必要としないので助かります。
先日、学校から連絡が入り、屋外でのスポーツも開始する事になったので、2月から再度バスケットボールのコーチをお願い出来ないかと問合せが有りました。 この3年間、運動不足になりがちだったので、即答で了承の意向を伝え老体に鞭をウチながらの日々が始まりそうです。 これから何年、コタキナバル生活が続けられるのか分かりませんが、体を鍛えて継続して運動を続けていれば80才までは可能ではと思っています。 その際には「コタキナバル便り」の続編として何か面白い変った出来事をお知らせする事が出来るのではと楽しみにしています。
マレーシア・コタキナバル在住
氏原康隆 氏
12月12日、「今年の漢字」が公益財団法人日本漢字能力検定協会より発表され、「戦」が第1位に選ばれました。
「今年の漢字」は例年、清水寺の貫主が大きな紙に書いて話題になっておりますが、今年も森清範 貫主が書き上げ清水寺に掲示されました。
清水寺に本社がある株式会社七味家本舗の福嶌良典社長(株式会社従心会倶楽部 理事)より写真をご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。
ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の清水寺で発表され、「戦」の文字が選ばれました。
「今年の漢字」は、京都市に本部がある「公益財団法人日本漢字能力検定協会」が27年前の1995年(平成7年)に始めました。
その年の世相を表す漢字ひと文字を全国から募集し、最も多かったものを「今年の漢字」として、毎年12月12日前後に京都市東山区にある清水寺で発表しています。
大きな和紙に一気に書き上げる様子は、師走の風物詩になっています。京都市東山区にある清水寺では12日午後2時すぎ、森清範 貫主が大きな和紙に「戦」の字を一気に書き上げました。
「戦」が選ばれたのは、アメリカの同時多発テロ事件などがあった2001年以来、2回目です。協会によりますと「戦」の字が選ばれた理由について、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻など戦争を意識した年であったことや、円安・物価高など生活の中での「戦い」を応募者の多くが体感したことをあげています。
また、サッカーワールドカップの日本代表が強豪のドイツやスペインを破ったほか、冬の北京オリンピックで日本人選手が活躍するなど、スポーツの熱戦が繰り広げられたこともあげています。
清水寺の森 貫主は「『戦』が選ばれたのは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が非常に強い印象を残したためだと思います。来年は皆が心安らかに日々をおくれるような年になるよう願っています」と話していました。
「日本漢字能力検定協会」によりますと【トップ10は】次の通りでした。
2位「安」
3位「楽」
4位「高」
5位「争」
6位「命」
7位「悲」
8位「新」
9位「変」
10位「和」