風狂盲人日記 ⑮ 私のオキナワ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
第15回目の今回のテーマは「私ノオキナワ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年2月×日

 今月もまだ寒い日が続いている。同行援護者の腕につかまって歩きながら、冷たい北風を顔に受けていると、また沖縄に行きたいなあ、と想う。2年半前に失明するまで約20年間、ほぼ毎年2回は沖縄に行っていた。南の空と海、住む人たちと歌と踊りの背景にある歴史を辿りながら沖縄各地を歩くことが、日本の近現代史を考え直す上でも極めて大事なことだと思っているからだ。

 初めて沖縄を訪れたのは1982年の夏、米政府から沖縄が「本土並み返還」された10年後。その実情がどうなのかを知りたくて訪ねたのがきっかけだった。「沖縄に米軍基地がある」ではなく「基地の中に沖縄がある」という感が強く、普天間基地などでは今でも爆撃機の発着が頻繁に続いている。戦後既に77年にもなるが、沖縄はまだ戦中・戦後の傷痕をずっと引きずっていると痛感させられる。

 91年から年に1度は沖縄に行こうと決め、あちこち見て歩いたが、大学の同級生で、学生時代にマグロ漁船に乗ってインド洋に行き、その後ヨーロッパを長く放浪していた男Kが那覇に戻って予備校を経営していることを知り、20年ぶりに再会してから沖縄行きに弾みがついた。私が沖縄に行けば必ずKが空港まで迎えに来て、滞在期間の大半を一緒にいて、あちこち案内してくれた。那覇の一番の繁華街、国際通りあたりを歩くと必ず知り合いに会い、立ち話をし、紹介される。沖縄そばや魚料理、豚料理などの旨い店を紹介すると言って連れて行かれるのは、大抵しもた屋の大衆食堂で、夜はもっぱら島唄を聞かせる居酒屋・スナックで、女将やママさん達と実に楽しそうに話をする。島唄ライブの店では、三線を1、2曲聞くと、「もうたまらん」とつぶやいて立ち上がり、ステージのそばまで行って両手を広げ嬉しそうに踊り出す。私もそれに何度付き合って踊ることになったか、数えきれない。

 国際通りの雑居ビル2階に喜納昌吉のライブハウスがあった。最後の演奏を終えた後、午後11時過ぎから喜納とKと私の3人で泡盛を飲みながら午前3時過ぎまで話し込んだことがある。喜納は国会議員をした体験から政治不信を募らせ、「国家など要らない」と無政府主義的な発言を繰り返した。Kも「人はどんな境遇にあっても生きて行けるさ」と頷き、私は「現実に背を向けるか、体制に立ち向かうかで人の価値観、生き方が決まるなあ」と評論家風な発言をした。最後は島民の慣用句である「なんくるないさー(なるようになるさ、仕方ない、何とかなるさ、など多義的な表現)」と笑って、「そのうちにまた話そう」と言って別れた。その店も10年ほど前になくなった。

 Kの特技は人と人とを結びつけること。おかげで随分沖縄に知り合いができたし、Kが7年前病死した後彼の行きつけの店に行くと、噂で聞いているという女将や、「え、Kさんが亡くなったの!!」と驚いて、みるみる涙をいっぱい流すママさんたちが、その後しんみりと、如何にKが心優しい男であったかを様々なエピソードを混じえて語ってくれた。

  島唄の囃子言葉に「ハー、ユイユイ」があり、このユイは「結」だと聞いた。那覇空港から首里城までのモノレールも愛称は「ユイマール」であり、人と人の心を結びつけるのが沖縄、ということを象徴したネーミングになっている。Kはまさにその「ユイ」を大事にするウチナンチュウ(沖縄人)の代表だったような気がする。

  Kと会えば、別れる時は必ず「今度いつ来る」と聞かれ、「来年」と答えれば「もっと早く来いよ」と何度も繰り返す。そこで2000年頃から年2回、それも最初は1回に3~4日程度だったが、だんだん期間を延ばし、1回に1週間から2週間は居ることにしていた。Kが亡くなってからも息子さんが父親と同じように何度も「また来てください。歓迎します」と連絡をしてくるので、沖縄行きは止められないな、と思っていた。それが2年半前に失明し、もう旅行は無理だと殆ど諦めてきているが、最近、「もしかしたらまた行けるようになるかもしれない」と思うようになってきた。特に冬の期間、12月から2月が最も快適で、気温は20度以下にはめったに下がらず、夜でもTシャツに上着で済む。できれば来年の2月頃には行ければいいな、と思っている。

(つづく)