2月17日当会会員の南野洋氏が来社され意見交換を行いました。
南野さんは独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の建築課の課長補佐を務められ、更に今年3月に相模東急直通線が開通致しますが、その新横浜駅の駅舎などの開発を担当されておられます。
同氏はまた当社の顧問であります南野脩先生(工学博士)のご子息であると同時に、何よりも当会の創業中心メンバーとして長く会の運営をリードされた今は亡き南野徹氏の甥でもあります。南野徹氏とのことを懐かしく回顧いたしました。
株式会社従心会倶楽部会員でマレーシア・コタキナバル在住の氏原康隆さんより寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
コタキナバルでは新型コロナウイルに対応するため全面的なロックダウンが行われるなど、これまでの生活が一変したと言うことです。
従心会倶楽部のみなさま、こんにちは。 しばらくご無沙汰をしておりました。今日はマレーシアから「コタキナバル便り」を寄稿させて頂きます。
「コタキナバル便り」を書き始めるには、やはり何故私達がコタキナバルにいるのか、その理由なくして語るのは難しいかもと考え,その経緯から始める事にしたいと思います。 私達家族がコタキナバルにやって来たのは2001年の9月16日でした。 丁度、アメリカで貿易センターに2機の飛行機が突っ込んだ同時多発テロの5日後の日でした。 当時、私は仕事でパキスタンに駐在していましたが、諸般の事情で飛島建設を退社し、後任者がやって来る時でも有りました。
後任者の着任数日後に前述の同時多発事故が発生。 本社ではアメリカの動きを察し、イスラマバード空港は軍によって閉鎖され飛行場は使用出来なくなり、イスラマバードでは通常の生活は出来なくなると判断し、後任者には直ぐにパキスタンから出ろと言う指示を出しました。 引き継ぎ作業も途中にして後任者は、翌日には日本に帰国してしまいました。 私達家族は取り残された形でイスラマバードに足止めをくらいました。 私達は後任者のように「バイバイ」と言って直ぐにパキスタンを出国する訳に行きません。 残された引き継ぎ書類の整理や、私達の家財道具の引越し準備に入らなければいけませんでした。 その間に、各大手の商社マンの家族、JICA職員の家族、日本大使館の家族の人達もパキスタンから一斉に出国して行きました。 私達家族にはどこからも何も指示は無く、その時は、「自分の身は自分で守るしかない」と思わされた数日間でした。
私はかなり以前から、会社を退職しても働かずして自分達の貯蓄の金利で日本からさほど遠くない所で生活が出来る国はないかと調べていました。 探し出すのにさほど時間は掛かりませんでした。 それは家内の故郷であるコタキナバルでした。 だから、パキスタンを脱出する際には、コタキナバル以外に思い付かず、行先に迷う気持ちは有りませんでした。 当時、私は52才。 私達の第2の新しい人生がスタートした瞬間でした。 そして、息子は中学1年生。 この時点では、息子に大きな試練が待ち構えているとは想像も出来ませんでした。
2001年9月、当時のコタキナバルは本当に生活し易い環境でした。 街を走る車数は少なく、街中のどこに行っても駐車場を探す必要はなく、駐車はどこでもすべて無料でした。 1ヶ月間の光熱費も2,500円程で十分。 二人で外食しても昼食は250円程、夕食は700円も有れば十分でした。 特に助かったのは銀行の金利でした。 通常の長期金利は4%、ブミプトラ(マレー人優遇政策)で優遇されている人達は13%、但し、預金額には600万円と上限有り。 家内はこの優遇を受ける事が出来助かりました。当時、不動産も驚く程安かったので、小高い丘の上に位置し、部屋のバルコニーから町と海が全貌出来る床面積200平方メートルのマンションを住居用として約1,000万円で購入。 ここでの収入源の足しになればと、街中の中心地に所在するリゾート・マンションを賃貸用(140平方メートル)として900万円で購入。 余った現金は銀行に預け、その金利と家賃で十分生活していける環境に有り、65才から受取れる年金は考慮する必要は有りませんでした。 ここ迄は、私達の第二の人生は計画通りでした。
私達の生活環境が激変したのは2020年3月18日からでした。 それは、誰しもが周知している世界を震撼させたコロナ・ウイルスです。 サバ州では、ウイルス(コロナ)による感染拡大を防ぐための措置として州政府はコタキナバル市を全面的にロックダウンした事でした。 コタキナバルと言う街は一夜にしてゴーストタウンと化し、それは本当に異様な世界でした。 車で街中を走っても誰一人として歩いている者はいません。 車の中も運転手以外は誰も同乗する事が出来ないほど厳しいものでした。 そして、何よりも私達が大変な思いをさせられたのは、そのロックダウン中に家内が部屋の置物につまづき転んで左腕を骨折した事でした。 感染が拡大している最中だったので、病院に行くのはとても不安でした。 幸い、近くに整体師(中国人)の先生が住んでいたのを家内が思い出し、病院に行くのを止めて、急遽、その先生宅に予約なしで訪問。 家内は車の中で必死に神様に祈りを捧げ、そのかいあってか無事に先生に応急処置をして頂ける事が出来ました。 後日、民間の総合病院を訪れ、完治とは言えないですが、日常の生活が出来る様になる迄に4ヶ月程掛かりました。
そして、次に私達を非常に悩ませたのはコロナに対する感染防止策としてのワクチン接種です。 日本の様にワクチン管理が厳しくされていれば良いのですが、当地での医療(医師、看護師、設備)には問題が多過ぎます。 加えて、接種されるワクチンもファイザー、モデルナ、アストロゼネカ、それに加えて中国製の2種類のワクチン、5種類のワクチンがそれぞれクアランプールからサバ州に割り当てられた分量のワクチンが輸送されて来ます。 そこから病院ごとにワクチンが振り当てられ、割り当てられた病院でワクチン温度の管理、看護師によるワクチンの瓶から注射器への配分、注射器の管理等、管理項目は多岐に有り、それを地元の看護師が適切にこなすにはスキルが余りにも不足しています。 ワクチン接種に行って、そこで始めてどのワクチンを接種させられるのか知らされるのも不安です。 日本の新聞やTVではワクチン接種後の副作用や接種後に亡くなった人の記事を目にする事が出来ますが、ここではそう言った記事は政府の管理下にあり、我々は目にする事は全く出来ず、本当に大丈夫なのか不安が募るばかりです。 特にショックだったのは、何の持病も無かった知人の奥様がワクチン接種後翌日に亡くなった事でした。 ご主人は余りにもショックが大き過ぎて容貌は痴呆症の様に別人になってしまい、見るに耐えられない状態でした。 そして、それが記事に載る事も有りませんでした。 他にも同じような事例は有りますが、それらも全て記事になる事は有りませんでした。 憤りを感じましたが、虚しさの方が強く、その結果、私達はワクチン接種をしない事を決めました。 最近では規制も緩和され自由に動く事が出来ますが、当初は大変でした。 どこに行っても(ホテル、レストラン、ショッピングモール、教会、銀行、郵便局、学校等、病院以外のあらゆる施設)ワクチン証明書の提示(スマホでのアプリ)を求められ、私達にとってはとても厳しい生活環境に有りました。 家内と二人で「まるでモグラ生活だね」と言い合っていたのはその時期でした。 当然、私の学校でのバスケットボールのコーチ活動や自宅でのギター教室も全て中止となりました。
昨年の12月からコタキナバルー成田の直行便が週に一便で再開致しました。 それ迄は、クアランプール経由で羽田か成田に着く便が有りましたが、感染の防止を考えれば、経由を避け出来るだけ多くの人達と交えない直行便がベストだと考えています。 航空運賃もコロナ禍以前であれば往復で5~6万円で行けていましたが、今は10~12万円と高額になっています。 このコロナ感染は、コタキナバルに長期滞在していた多くの日本人の人達にも暗い影を忍ばせています。 コタキナバル―成田間の直行便が再開したので、日本に一時帰国をしていた人達が戻ってくるのではと期待していましたが、その傾向が全く見当たりません。 通常であれば、日本人が集まり易いゴルフ場とかホテル、馴染みの日本料理店等に行けばチラホラ顔見知りの日本人を見かけますが、その姿が全く見られません。 私のコタキナバルでの囲碁友達も部屋(賃貸マンション)をそのままにして未だに帰って来ていないのは寂しい限りです。 加えて、ペナン島に長期滞在していたパキスタン時代から付合いの有った囲碁友達は、昨年日本に一時帰国をしていた際にコロナの影響を間接的に受けて亡くなりました。 今では、コタキナバルで対局出来る方が誰もおらず、Youtubeで観戦しながら時間を潰す日々となっています。
コタキナバルから優秀な若者が離れて行っているのを実感しています。 私が今日までに教えて来たギター教室での学生達や学校で教えていたバスケット部の学生達のほとんどがこの3年間の間にコタキナバルから消え去り、社会人となってコタキナバルで頑張っているのは私の知る限りでは数人だけです。 社会人となった若者はクアランプールやシンガポールに職場を求め、コタキナバルを離れて行きます。 裕福な家庭で育った学生は海外(英国、オーストラリア、ニュージーランド、米国)に留学し、卒業後はその国で仕事を見つける意向が強いです。 特に医療関係、建設関係はその傾向が強いです。 まず、その学生の親たちが地元に帰ってくるなと説得しています。 高度な教育を受けてもコタキナバルでその力を発揮出来る職場(会社)がないからです。 給与で比較するとクアランプールではコタキナバルの2倍、シンガポールでは3倍貰えると若者たちは言っています。 給与額にうんぬん言うのは表面的な問題かも知れません。 根本の問題は内部的な所にあり、それは人種的、宗教的な問題も絡んでいます。 マレーシアはやはり多民族で構成された国です。 マレー系の人達は政治を中心に、中国系の人達は経済を中心にと言う考え方は根強く残っています。 それは宗教的にも言える事で、イスラム主義は政治を、キリスト教とヒンズー教は経済をと言っている様にも捉える事が出来ます。
コタキナバルに長期滞在して21年になろうとしています。 この先も長くコタキナバルに滞在するのであれば、マレーシアの永住ビザを取得しておいた方が良いと家内に勧められ、先日、関係部署に膨大な申請書を提出し、面接も終えました。提出後、20年経っても取得出来るか否か分からないと言われている代物ですが、取得出来れば、今後、マレーシアへの入国は滞在ビザを必要としないので助かります。
先日、学校から連絡が入り、屋外でのスポーツも開始する事になったので、2月から再度バスケットボールのコーチをお願い出来ないかと問合せが有りました。 この3年間、運動不足になりがちだったので、即答で了承の意向を伝え老体に鞭をウチながらの日々が始まりそうです。 これから何年、コタキナバル生活が続けられるのか分かりませんが、体を鍛えて継続して運動を続けていれば80才までは可能ではと思っています。 その際には「コタキナバル便り」の続編として何か面白い変った出来事をお知らせする事が出来るのではと楽しみにしています。
マレーシア・コタキナバル在住
氏原康隆 氏
12月12日、「今年の漢字」が公益財団法人日本漢字能力検定協会より発表され、「戦」が第1位に選ばれました。
「今年の漢字」は例年、清水寺の貫主が大きな紙に書いて話題になっておりますが、今年も森清範 貫主が書き上げ清水寺に掲示されました。
清水寺に本社がある株式会社七味家本舗の福嶌良典社長(株式会社従心会倶楽部 理事)より写真をご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。
ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の清水寺で発表され、「戦」の文字が選ばれました。
「今年の漢字」は、京都市に本部がある「公益財団法人日本漢字能力検定協会」が27年前の1995年(平成7年)に始めました。
その年の世相を表す漢字ひと文字を全国から募集し、最も多かったものを「今年の漢字」として、毎年12月12日前後に京都市東山区にある清水寺で発表しています。
大きな和紙に一気に書き上げる様子は、師走の風物詩になっています。京都市東山区にある清水寺では12日午後2時すぎ、森清範 貫主が大きな和紙に「戦」の字を一気に書き上げました。
「戦」が選ばれたのは、アメリカの同時多発テロ事件などがあった2001年以来、2回目です。協会によりますと「戦」の字が選ばれた理由について、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻など戦争を意識した年であったことや、円安・物価高など生活の中での「戦い」を応募者の多くが体感したことをあげています。
また、サッカーワールドカップの日本代表が強豪のドイツやスペインを破ったほか、冬の北京オリンピックで日本人選手が活躍するなど、スポーツの熱戦が繰り広げられたこともあげています。
清水寺の森 貫主は「『戦』が選ばれたのは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が非常に強い印象を残したためだと思います。来年は皆が心安らかに日々をおくれるような年になるよう願っています」と話していました。
「日本漢字能力検定協会」によりますと【トップ10は】次の通りでした。
2位「安」
3位「楽」
4位「高」
5位「争」
6位「命」
7位「悲」
8位「新」
9位「変」
10位「和」
勝又美智雄先生は、毎年年末にその年の回顧を親しくされておられる方々にご送付されておられますが、目のご不自由な中、今年も「2022年(令和4年)の回顧」をお送りいただきました。ご本人の同意が得られましたのでご紹介させていただきます。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2022 年暮れ
親愛なる皆さま
一年間のご無沙汰ですが、皆さまご機嫌いかがでしょうか。私は今年初めから両目とも視界ゼロ、視力ゼロの全盲となり、同行援護なしでは病院通いも散歩などもできない状態になりました。しかし目以外は体調はまずまず上々で、朝昼晩の食事も美味しくいただき、殆ど毎日朝 9 時から夜 11 時ぐらいまで CD を聴いています。
昨年末の回顧文では、失明して、もはや読書もできなければ文章を書くこともできない、従ってこうした回顧文も書けなくなりそうだと記しましたが、この1年間様々な体験があり、「目が見えなくても書ける」ことを発見し、それによって精神的にも安定して、今年もこの私的回顧文を書くことに致しました。
まず失明後の情報収集として、昨年春から始めた点字図書館の文芸書の朗読 CDを借り出して聴くということをずっと続けています。昨年は『平家物語』に始まって、『太平記』、『雨月物語』など江戸文学をサッと聞きました。続けて今年は明治以降、森鴎外、夏目漱石、幸田露伴、芥川龍之介、永井荷風、柳田國男などの主要作品をほぼ全部聴き、特に戦後のものとして井上靖、松本清張を数十冊聴いています。
目で読めば文庫本などは 1 時間に 70~80 ページのペースで読んでいましたが、朗読 CD ではそのスピードが半分なので倍の時間がかかります。耳で聴くだけだと却って集中して意味を取りながらストーリーを追うことで、案外良く頭に入ってくる気がします。
振り返ってみれば、毎月ほぼ 20 冊以上聴いているので、1年間に 250 冊は読んでいると思います。その中で井上靖や松本清張の作品などでは、その緻密な構成と登場人物の心理への踏み込み方に実に鋭く深いものがあり感心する一方、夏目漱石の 40代の新聞小説十数本は、どれも内容が浅薄でしかも深みがなく、駄作ばかりではないかと驚いたのも新しい発見でした。
また、区立図書館から借りてくる市販の CD は、能の謡曲全集から始まって、講談、浪曲(広沢虎造の『国定忠治』『清水次郎長伝』など)、清元・常磐津・長唄、詩吟に童謡・わらべ歌など、ザっと 300 枚ぐらいは聴いたと思います。なかでも特に多かったのが落語で、志ん生、志ん朝、円生、米朝、枝雀、談志、志の輔などの全集物だけで約200枚にのぼり、公共図書館の在庫の豊富さに感謝しています。
新年は、朗読 CD は海外の作品、普通 CD も日本民謡集からクラシック音楽へと広げていくつもりです。
こうした「聴く」楽しみだけでなく、「書く」楽しみもこの1年随分ありました。
まず第一に、シニア世代のための文化団体、従心会が「自由に何でもいいから書かないか」と誘ってくれたのに応じて、3月から 11 月までに計 12 回「風狂盲人日記」と題する連載エッセイを書き綴り、会のホームページに掲載してくれています(https://jushinkai.com/blog/)。
1回の分量は 2000 字平均で、自分の色んな体験を楽しんで書いていて、それが会員の人たちの間でも好評ということで、私としても気を良くして暫く続けていこうと思っています。
また、学会や教育団体の役職は殆ど外れましたが、Zoom での研究会や会議には相変わらず出席して人の話を聞きながら自由に発言することを続けています。それが毎月1、2回は必ずあるのも生活の励みになっています。更に、グローバル人材育成教育学会の会長を退いたのを機に、学会誌の論壇に私の評論を纏めて 5000 字以上書き送り、学会の支部大会でも Zoom で挨拶を頼まれたり、シンポジウムに登場して話をするなどの機会を与えてもらって楽しんでいます。また国際交流団体 IAC(国際芸術家センター)からの依頼で、この秋 Zoom による連続講演を3回実施しました。日本と世界との関係を考えるシリーズの初めての試みということで、①20 世紀に求められた国際人と 21 世紀に求められるグローバル人材の違い②鴎外、漱石、永井荷風の3人に見る留学の意味と意義③日本人と外国人の日本に対する大きな認識ギャップ―― の 3 点について、各回 45 分講演し、30 分参加者との質疑応答をするということで、これも毎回参加した 40 数人の人達からは大変好評ということで、新年にも更に別のテーマで連続講演をして欲しいと頼まれ、基本的に引き受けることにした次第です。
2年前失明した当時は絶望的な気持ちで落ち込みもしましたが、回復しようのないものは運命と諦め、そのまま受け止めるしかないと覚悟を決め、その上で、では耳で何ができるかということを考え、この1年いろいろ模索してきた訳ですが、その結果として、予想以上に色んなことができるのだということが分かり、改めて自信を回復してきた感じがしています。
但しこうしたことは全て私一人ではできるものではなく、受け取ったメールを教えてくれるのも、またその返事を口述筆記で書き送ってくれるのも家内であり、この回顧文もそうですが、評論・エッセイ類などの文章も全て、iPhone に私が吹き込んだものを家内が空いている時間に起こして事実関係や、特に数字の間違いなどを訂正しながら直してくれ、それを聞き直して必要な文章の訂正をしながら完成原稿を送るということをやっています。その意味で、私の全ての社会的活動は家内の助けが無くては全くできないものであり、昨年の回顧文に引き続き、家内に感謝、感謝の気持ちを記しておくところです。
最後になりますが、我が家の大きなニュースとして老猫モモが 11 月末に亡くなりました。22 歳7ヶ月、人間の年齢にすれば 106 歳ということで、かかりつけのペットクリニックでも「よく元気に長生きしている」と感心していました。それが家内の膝の上で寝たまま静かに息を引き取ったもので、苦しんだ様子もなく「大往生」と言えるでしょう。翌日に家内が近くのペット葬儀所に連れて行き火葬を済ませ、小さな骨壺に入って戻ってきました。長い間家族として親しみ、家内にベッタリと付き、家内が居ない時には私の足許にまつわりついて、膝に乗せるとそのまま大人しくひたすら静かに寝ていました。
居なくなってみると「ペットロス」で色んな場面を思い出して胸が痛むこともありますが、今はよく長生きしてくれた、と感謝しているところです。
こうした事情ですが、体調は相当元気で、電話の応対も無理なくできます。どうか皆さま、いつでも結構ですから気が向いた時にメールなり、特にお電話を頂ければ幸いです。原則午前 9 時から夜 9 時ぐらいの間でしたら大丈夫です。
コロナ禍もまだしつこく続いていますが、どうぞ皆さまお互いに気を付けて楽しく年を越し、新年も明るく元気に過ごすように心がけましょう。私も来年末の回顧文では更にまた「進化」した話が書けるよう努めていきたいとおもっています。
〔勝又 美智雄先生の連絡先〕
携帯電話:090-4595-8867
メール:katsumatamichio@gmail.com
11月22日、一般社団法人令和人間塾・人間学lab.の竹中栄二理事長が来社され、同法人の理念、活動概要をご紹介いただき、今後の連携について意見交換を行いました。
一般社団法人令和人間塾・人間学lab.は、安岡正篤先生及び伊與田學先生の教義を元に、
「教育」と「農業」による日本及び日本人の再生を理念に、次のような活動を精力的に行っております。