投稿者「Jushinkai」のアーカイブ

風狂盲人日記 ⑧ 夏目漱石は売文業の職人

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「夏目漱石は売文業の職人」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 8月×日

 「日本点字図書館」を中心に製作されている朗読CDで夏目漱石(1867-1916)の主な小説を聴いた。30代末に俳句雑誌に書いた『吾輩は猫である』(1905)、『坊ちゃん』(1906)、『草枕』(1906)の3部作は中・高校生時代にも面白いと思ったが、今回聴き直してみても、やはりこれは明治30年代の極めて優れた作品であり、日本近代文学史に残る名作だと頷かされた。

 その文才を評価されて、彼は朝日新聞社から破格の高給で文芸部員として雇われ、年に1、2本の連載小説を書き続けることになった。『三四郎』(1908)は東大生の青春の息吹を感じさせるまずまずの佳作と言えるが、『虞美人草』(1907)、『門』(1910)、 『行人』(1912)、『こころ』(1914)などから絶筆となった『明暗』(1916)に至るまでの新聞小説は、どれも読後感の良くないもので、むしろイライラさせられる作品ばかりであり、決して名作と言えるものではないと言わざるを得なかった。

 その理由は、主人公が作者の分身のような形で家庭環境、状況設定がわずかずつ異なってはいても、殆ど同じテーマの繰り返しであり、それは主人公が親や親類の財産を当てにして、大学を出てもまともに仕事をしないでのんびり暮らそうという「高等遊民」があれこれ妄想する話に終始しているからだ。主人公の性格は優柔不断で、自分では何も決められず、常に思うことと口にすることと行動の三つがバラバラになっている。精神分裂症的な傾向が強いことだ。

ストーリーで一応のまとまりを見せているのは『こころ』だが、前半は主人公が学生の私、後半が先生の遺書という構成で、繋がりが如何にも悪い。しかも、先生が親友を裏切ったことを悔いて十数年後に自殺するという心の動きが不可解のままに終わっている。また『行人』も主人公と嫂が仲良くしているのを、兄が二人が不倫関係にあるのではないかと疑い、それを試すような小細工をするという話で、結論は何も起こらず、全ての出来事は「コップの中の嵐」に終わっている。

 これは、新聞小説だから余りドラマチックなことは書きにくいという面も一部にはあるかもしれないが、実はそうではなくて、漱石自身としては新聞小説を書くことに殆ど情熱を傾けることもなく、ただ原稿用紙をひたすら埋めていけばいい、と考えていた節がある。その証拠に、題名の付け方も文芸部員任せにして、適当に付けてくれという投げやりな姿勢が目立つので、題名だけを見ても中身が何を書いているのか全く分からない、ということにも表れているし、取り分け、元旦からの連載をいつまで書けばいいのかと聞いて「彼岸過ぎまで」と言われると、その言葉をそのまま題名にしてしまうような安直な姿勢が露骨に出ている。

その上、主人公の行動範囲は本郷界隈から日比谷、雑司ヶ谷、田端辺りまでにほぼ限定され、品川、渋谷、浅草、墨田川一帯などの地名はほとんど出てこない。これは、漱石が馴染みの地域だけに主人公を動かしているだけであり、地図や年表、資料類を机に広げながら原稿を書いていた形跡が全く見られないことにも現れている。彼が原稿用紙の横に広げていたのは、恐らく登場人物の簡単な系図や相関関係図程度だったと私は感じた。

 漱石はもともと一高・東大出のエリートなのであるが、卒業後は望む東大教員になる道も遠いため、四国の松山にまで「都落ち」し、さらに熊本五高教員になる形で、学生仲間達に比べるとエリートの座から滑り落ちているという挫折感を味わっていた。ロンドン留学も何ら成果もない上、強度の神経衰弱で「夏目が気が狂った」と留学生仲間に通報され、2年で留学費用も出なくなり戻ってくる、という屈辱も味わっていた。帰国後は東大講師(年俸800円)、一高講師(年俸700円)、明治大学講師(年俸300円)として働いた。当時の大卒初任給の平均が月30円(『明治・大正・昭和・平成・令和値段史』 https://coin-walk.site/J077.htm)であったことを考えれば「薄給」とは言えないが、妻に子供が4人いて更に5人目を身ごもっており、女中2人に書生1人を養わねばならず、また家には多くの門下生が集まり来客も多かったので家計は苦しかった。そのため、もっと高給が取れる仕事はないかと思っているところに、新聞社からの誘いがあり喜んで乗ったものであり、月200円の月給に、更に盆暮れに1ヶ月ずつの賞与を加えてもらうことで了承し、年2800円の高給取りで過ごしていた。それだけに、彼の連載した文章も原稿用紙に殆ど字句修正をしたり挿入をしたりすることがなく、1日の分量を書いたら、それをそのまますぐに校正係に回しており、周囲の者が「よくこんな完成原稿が書けますね」と言うと、「完成しなくてもいいんだ。言いたいこと、書き足りないこと、書き直したいことがあれば、それは数日後また同じような話を蒸し返してそこで書けばいい」という、そういう姿勢で終始していた。

 漱石は明治の文豪と言われて、今日でも日本で最もポピュラーな作家の一人とされているが、その新聞連載小説の殆どは実は読まれていないのではないか、と私は思う。まともに読むと、余りにも同工異曲が多すぎて辟易としてしまうし、ストーリー展開も殆ど無い。漱石礼賛者の多くは、「近代知識人の苦悩を描いた大作家」と評価しているのだが、私に言わせれば、これは明らかな過大評価であり、本人もまたそんなことは思ってもいなかったのではないか。要するに、原稿用紙1枚幾らと計算しながら桝目を埋めていけばいい、ということに徹することのできた、その作文技術の優れた職人技が目立つだけのものではないのか、と私は強く感じている。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑦ しなやかな中国人ヴァイオリニスト

 従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「しなやかな中国人ヴァイオリニスト」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 7月 X日

 7月8日(金曜)の夜、上野公園の東京芸大旧奏楽堂で行われた中国人ヴァイオリニスト、劉薇(リュウ・ウェイ)さんのコンサートを聴きに行った。勿論一人では行けないので家内に同行してもらった。

 その日のプログラムは、ウクライナを支援する気持ちを込めて、ということで、同国ゆかりのプロコフィエフらの作曲した曲を数曲演奏した。いずれも私には初めて聞く曲ばかりだったが、その演奏には強大国の暴圧に虐げられる人たちへの共感が現れているような気がした。

 劉薇さんは中国大陸内陸部の出身。音楽家を志望しながら果たせなかった父の夢を継いで上海の音楽学校を卒業し、1986年に単身来日し、東京芸大大学院に進学した。当時の中国は貧しく、彼女も飲食店の店員アルバイトをしながらの苦学生活だったが、サンリオの辻信太郎社長(当時)が「アジアからの留学生を支援したい」と設立した教育文化財団からの奨学金を得て、何とか学業を続けた。博士課程では、戦後中国の最高の作曲家と目された馬思聡(マー・スツォン)の足跡を辿り、その全貌を明らかにすることに思いを定めた。馬氏は文化大革命の迫害に耐えた後、米国に亡命した。

 劉薇さんは、その馬氏のニューヨークの旧居跡や親戚縁者、友人などを訪ねまわり、散逸していた馬氏の楽譜を集め、整理し直し、その作曲集を編纂するかたわら、曲の録音テープを作成。同時に人と作品論を博士論文としてまとめた。その結果、東京芸大の外国人として音楽博士号(実技+理論)の称号を授与された。90年代後半から東京を拠点に精力的に演奏活動を始め、声が掛かれば全国を公演して回った。今世紀初めに重い腎臓病にかかって医者からは人工透析を勧められたが、独自の食事療法、健康療法を研究して回復、音楽活動も再開した。腎機能を10年以上維持したが、再び腎臓病が悪化。半年間人工透析を受けた後、2019年7月に日本人の夫が自分の腎臓を半分提供することを申し出て、手術も無事成功した。3年半前には八ヶ岳高原に移住し、静養しながら音楽活動を行っている。90年代の頃は丸顔に短髪で少女然としていたが、その後長い療養生活を経て、すっかり細面で全身も細くなり、楚々とした美人に変貌してきた。その劉薇さんを少しでも助けようと、2000年7月に音楽活動の支援にと後援会が組織され、現在会員数は国内外で360人を越えている。私も後援会発足以来のメンバーの一人で、毎年1~2回送られてくる会報で、彼女が元気に立ち直っている様子を写真付きで見て喜んでいた。私が2004年春日本経済新聞社を中途退社し、恩師の中嶋嶺雄先生(1995年から2001まで東京外大学長)に請われて秋田の国際教養大学の設立に深く関わった際、その「新しい門出を祝う会」がプレスセンターの大ホールで催され、劉薇さんが駆けつけて私の好きな数曲を演奏して祝ってくれた。

 制作したCDはこれまで7枚。ヴァイオリン曲のクラシックの名品を数多く集めたものが半分と、馬思聡のCDが半分だが、最近はヘンデルのヴァイオリン曲も出し、私自身それを聴いて、宮廷音楽家がこんな夜想曲風のヴァイオリン曲を作っていたのかと驚いたほどだ。今月の公演の数日前には私に電話をくれ、目の状況を尋ねてきたが、「まだまだやることが沢山あるでしょう」と明るく笑い、「この夏には八ヶ岳に静養に来たらどうですか」と誘ってくれた。

 彼女の生き方を見ていると、レジリアンスという言葉を思い出す。しなやかで逞しく、決して倒れないというほどの意味で、最近これからの日本人に大切な資質としてあちこちでこの言葉が使われるようになった。苦難を押しても常に明るく、笑って前向きの姿勢でそれを巧み避け、あるいは乗り越えていく。その姿勢から私も大いに学ばされている。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑥ 日韓の認識ギャップ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日韓の認識ギャップ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 6月末日

 先日、ある民間研究団体が主催した日韓学生交流座談会をZoomで傍聴した。参加者は両国の大学生4人ずつ。韓国人はいずれも都内の有名私立大学に在籍する留学生たちで、全員が流暢な日本語で同世代の日本人学生といろんな意見交換をした。

 その中で特に印象に残ったのは、今世紀に入って両国の外交関係が殆ど改善されない中で、学生間の交流が確実に活発になっているにもかかわらず、お互いに「今後の日韓関係は改善される」と明るい見通しを持っている人が少ないことだった。韓国では5月に保守系の新大統領が誕生したが、国民の支持率は47%であり、進歩系の対立候補が46%を得ていて、新政府の政治基盤が極めて不安定なものであることを若者たちも敏感に意識していた。

 それを聞きながら、韓国人の対日イメージ、日本人の韓国イメージが、この半世紀以上殆ど変わらない落差を示していることにも気付いた。

 私が新聞記者になって間もない1970年代、韓国からの当時の留学生や学者などと会って色んな話を聞いた中で、幾つか驚いたことを思い出した。一つには、韓国人の間で日本歴史上最も許せない人物として第一に伊藤博文、第二に豊臣秀吉が挙げられていたことだった。伊藤博文は日本では明治憲法下で初代内閣総理大臣となり、都合4回の内閣を組織した明治の元勲であり、元老として今日でも近代日本の功労者の一人と高く評価されているのだが、韓国人にとっては、日本の韓国統治下になった1910年、初代の朝鮮総督となっていることをもって「日本帝国主義の権化」とうつた。そのため伊藤が朝鮮半島を初めて視察した折、奉天で現地の若者安重根に暗殺されたのだが、朝鮮人側からすれば、安重根はその後も国民の英雄、あるいは近代朝鮮の歴史の偉人として長く称えられ、第二次大戦後は記念館も設立されて、彼を顕彰している。

 それだけに、日本が70年代に経済的に急激な発展を遂げ、韓国へも何十万もの人がビジネスで、あるいは観光で訪れるようになった時に日本円が現地でも通用したわけだが、当時最も広く使われていた千円札には伊藤博文の肖像画が使われており、韓国人学者から言われた「日本で最も嫌う人物の肖像画が載っている紙幣を有難がってもらうことに対する韓国人の心のうちを理解してほしい」という言葉がその後ずっと私の胸の中に留まっていた。そういう批判が韓国から出始めているということを聞いて、大蔵省でも千円札の肖像画から伊藤博文を外そうという動きが出ていると聞き、後に夏目漱石、野口英世に変わったといういきさつがある。

 また16世紀末朝鮮侵攻を図った秀吉軍に対抗した李将軍は、今日でも朝鮮史の輝ける英雄として称えられているが、今日の日本人でもそうした事実を知っている人は極めて少ない。
 さらに言えば、日本が近代化、西洋化に成功した象徴として称えられる日清戦争(1894-95)、日露戦争(1904‐05)にしても、主な戦場は朝鮮半島であり、そうした強国の戦火に家を焼かれ、田畑を荒らされ、逃げ惑った最大の被害者が朝鮮人であったということも、日本人は殆ど意識していない。

 それにつけても、現在の大学生たちの座談会でも彼ら自身が認めていることだが、お互いの国に対する歴史認識に相当の隔たりがあるということが明らかにされた。韓国では中学・高校以来、韓国史を学べばその大半はまず過去150年の近・現代史から勉強するのであって、しかもその70%ぐらいは日本との関係、つまり日本に抑圧されてきた関係ということが強調されてきた。それがまた、慰安婦問題や労働者の強制連行問題、最近では徴用工の問題などにも間欠的に吹き出して、外交関係の改善の重要な支障になってきていることは間違いない。逆に日本では、日本・世界の歴史は、中学・高校で学ぶ場合古代から始めて、ほとんどは20世紀初めまで、つまりせいぜい日露戦争までの歴史で終わりであって、1930~45年の日中15年戦争の模様も殆ど教室では学ばないし、太平洋戦争についてもまず学ばない。その理由は、高校受験、大学受験でその辺の問題が出ることはまずないからであり、過去40年ほど日本人の10代から20代の若者にとって、ほとんど20世紀の歴史というものを学んでいないという問題がそこによく表れている。

 またそういう歴史認識を正そうと、1990年代に日韓両国の政治学者、歴史学者が集まって、両国で使える若者向けの近現代史の歴史教科書、あるいは副読本を作ろうという動きがあったが、結局はその両国の学者同士の間でも激論が続いた結果、どうにも調整ができないということで沙汰止みになった、という経緯もある。朝鮮は古代以来強大な中国の影響を強く受けながらも、独自の文化と技術を育て、奈良時代以降中世まで、日本にもその優れた美術工芸を輸出してきたが、19世紀以降は大国の侵攻に晒され、戦後も南北に分断されるという悲劇を味わってきた。それが今世紀に入ると、科学技術面、経済力で「日本に追いつき追い越す」勢いを持ち、特に韓国では国家としてのプライドも強く意識されるようになってきた。

片や日本は、明治時代から「近代化=西洋化」を目指して「富国強兵」をスローガンにしてきたが、1945年以降は軍事力を厳しく抑えられる中で「富国」に特化し、成功してきたものの、1990年以降はその経済力も急速に低迷し、国民自身も日本に対する誇りを大きく失ってきている。

 日韓両国民にとってお互いに意識の上では「近くて遠い国」であり、その認識ギャップを埋めるのはなかなか容易ではない。

(つづく)

山田二三雄顧問と打合せ

6月7日、山田二三雄先生が来社され、今後の事業について意見交換を行いました。
山田先生は、当社の顧問で一般社団法人めぐみグループの代表理事をされておられます。

左から3人目が山田二三雄先生

第15回ゆい歴史散歩 鎌倉殿13人の鎌倉散歩

5月27日(金)、NPO法人ゆい思い出工房と共催で「第15回ゆい歴史散歩 鎌倉殿13人の鎌倉散歩」を実施し、13名が参加致しました。
当日は、午前中生憎の強い雨で開催が危ぶまれましたが、午後には雨もあがり、日差しもあり無事開催することができました。
今回の散歩コースは、「大河ドラマ館」「源頼朝の墓」「鎌倉国宝館」「鶴岡八幡宮」「寿福寺」「鎌倉歴史文化交流館」など約13,000歩の楽しい散歩でした。

大河ドラマ館にて
蕎麦「峰本」での昼食
鶴岡八幡宮にて
説明をされるNPO法人ゆい思い出工房 青木理事長
鎌倉歴史散歩文化交流館にて

勝又美智雄先生の近況:風狂盲人日記⑤「ロシアの終わりなき領土拡張欲」

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「ロシアの終わりなき領土拡張欲」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 5月末日

 4月から森鴎外の作品を朗読CDでずっと聴いている。彼が陸軍医学学校長から九州の小倉分隊の軍医長へと降格左遷された時期に書いた随筆集の中に、『ロシア戦域年表』があるのを知って驚いた。
 この年表は、ロシアが1600年代初めから1880年代までの間に如何に近隣諸国と戦争をし続け、ひたすら領土を拡張していったかを素描したもので、その変化を跡付けると極めて面白いことが分かってくる。ロシアは領土が広大にあるといっても、その半分近くは荒涼たる凍土地帯であり、農業が可能な地域は極めて限られている。そのため、モスクワを拠点として西へ、あるいは南へ、少しでも農業地帯を拡げようとする情熱はロシア建国以来一貫して持ち続けており、とりわけ興味深いのは、17世紀中頻繁にスウェーデンと戦争を繰り返し、その中間のフィンランドを領土とすることに躍起になっていたことだ。これは、不凍港を確保して更に西ヨーロッパへの足掛かりを得たいという宿願の表れであり、現にフィンランドを手中に収めて以来、すぐにバルト海に出られる軍港をこしらえて、そこで近代史上世界最強の海軍と言われたバルチック艦隊を育てることに精力を集中していた。そうした軍事力を背景に、更に横のポーランドには何度も戦争を仕掛け、領土を削り取ることを目論み、それがうまくいかないとみるとポーランドを挟んだドイツと組んで、両側からポーランドを攻めるという形で、都合3回に亘るポーランド分割を実現させた。中世から近世にかけてポーランドはヨーロッパでも最も領土の広い国であり、しかもその殆どが広大な農業地帯だったのだが、その四分の一以上はロシアが領土として取り込んでいた。

 更にウクライナに対しては、早くからここが大変な穀倉地帯であることに目を付けて、領土化することを何度も試み、侵攻を繰り返し、ついにそれを領土化すると、そこを足場に更に南下政策を取って黒海から地中海へと通ずる軍港をこしらえることで、中東から地中海に向けての勢力を確保しようと意図した。そのために、トルコとは戦争を何度も繰り返し、特にクリミア半島を確保するために両国間で争奪戦を続け、19世紀半ば以降クリミアを手中に収めると、そこから更にトルコと今度は手を組んで、エジプトにまで進出しようと目論み、地中海の南部エジプト地域をも勢力下に収めようとした。もちろんこれには失敗し、中東からも手を引くことになるのだが、クリミアだけは「生命線」として絶対に譲れないという形で、つい最近も2014年にはクリミアを改めて手中に収めることになった。

 こうしたロシアの終わりなき領土拡張欲をヨーロッパ諸国はよく知っているが故に、ロシアの西側進出に対して非常に警戒し、NATOを結成してきた訳だし、1990年代初めのソ連邦崩壊後、東ヨーロッパ及び中央アジア諸国が一斉に独立をしてソ連からの影響下から脱しようとしたのも十分頷ける。

 また日本に対しても、ソ連時代、第二次大戦終了間際のヤルタ会談で大戦後の処理対策を巡って協議した時、スターリンが日本は本州を真ん中で二分し、東側から北海道も含めてソ連が占拠し、西側をアメリカが領土化してはどうかという提案をして、フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相から一蹴される一幕もあったが、それが否決されるや次にスターリンが提案したのは、では北海道はソ連が取る、本州以下はアメリカが取ればいいという代替案であり、これまた英米から否定されると、しぶしぶ引き下がり、その代わりに北方領土から南樺太あたりは全部ソ連の領土であるということを主張したというのは、歴史の秘話として今日明らかになっている。

こうした異常なまでに強い領土拡張欲を持つ大国と付き合うには、相当な苦労があるし、現にフィンランド、スウェーデンが共に今回のウクライナ侵攻を見て、次はうちに来る可能性があると警戒し、NATOに加盟することを決めたというのは、プーチン大統領も恐らく予想もしなかった誤算であろう。プーチンは、1991年のソ連の崩壊を目の当たりにして、今世紀に入って大統領になって以来、「西側との協調・共存」を旨としてきた。しかし権力基盤を固めて万全の体制ができると、「ロシアの栄光」を取り戻すべく西方、南方への領土拡張を精力的に始めた。

 加えて、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」(モンテスキュー)であり、さらに言えば、絶対的腐敗は権力を内部から崩壊させるのも歴史の真実だ。
 「三日でウクライナを制圧する」のはずが3ヶ月になり、国際的非難を浴びた結果、親ロシア派住民の多い東部地区を奪い取ろうと方針転換したが、それもうまくいっていないのが実情だろう。
 中国も含めて、強大国が領土拡張に乗り出す時には、世界史を揺るがすような大きな事件になる、ということが端無くも今回のロシアの軍事作戦で明らかになったと言えるのではないだろうか。

森鴎外がこの『ロシア戦域年表』を書いたのは、1900年頃。鴎外にとっては不遇な小倉時代であったが、その3年近い間にクラウゼヴィッツの『戦争論』を要約して、小倉分隊長以下高級将校に講義をしており、その際既に来るべき日露戦争(1904-1905)を想定してロシアの特徴を冷静に分析していた、というのも実に興味深い話だと私は思った。

(つづく)

社会福祉法人恵の園を訪問しました

5月17日、群馬県渋川市に本部がある社会福祉法人恵の園を訪問致しました。

恵の園は、榛名山の山麓に本部があり、15,000坪の広大な土地に「障害者支援施設」「障害福祉施設サービス事業所」「特別養護老人ホーム」など30を超える施設がありますが、当日は、同法人の創始者である山田二三雄氏のご案内で「福祉資料室」「特別養護老人ホーム カナン」などを見学し、今後の連携について意見交換を行いました。

今後の連携について打合せ。中央が創始者の山田二三雄氏
「福祉資料室」にて
特別養護老人ホーム カナンにて

福祉資料室にて

風狂盲人日記④ モーツアルトはピアノの天才だ!

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「モーツアルトはピアノの天才だ!」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄

2022年 5月 ×日

 昨年末親しい人たちに宛てた近況報告文に「新年はモーツァルト、ベートーヴェンのCD全集を全部聞き比べるつもり」と書き送った。すると、新年早々秋田に住む教え子が「亡くなった父の遺品です。良かったら聴いてください」とドイツ製のモーツァルト全集CD約60枚を送ってきてくれた。急いでお礼の電話をすると「父はずっと “モーツァルト・オタク” で、家にはLPレコード、CDが大量にあって、どう処分するか実は困っていました」とのこと。私にとっては、生まれて初めての豪華なお年玉となった。
 早速、1月から4月まで毎週4回、数枚ずつ次々に聴き、漸く全て聴き終わり、気に入ったものは2回、3回と聴き直してきた。
 そこで改めて驚いたのは、全集の約半分がピアノ曲であること。その曲調といい、技巧を凝らした演奏法といい極めて独特なもので、「モーツァルトはピアノの天才だ」と感じ入った。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756‐91)は西洋音楽史上、教会ミサを中心としたバロック音楽からベートーヴェン以下の古典派、ロマン派に繋がる本格的なクラシック音楽の花開く間の繋ぎ役に位置している。家内に確認してもらったところ、ピアノは1700年代の初めに登場したようで、その後改良を重ねてモーツァルトの時代に一気に楽器の王様として君臨するようになった。モーツァルトはその王様(バイオリンは女王あるいは王女と考えられる)の魅力を極限にまで押し広げる役割を果たしたのではないか。

 彼のピアノ曲の最大の特徴は、鍵盤の左端から右端まで(当時はまだ5オクターヴであったが)を縦横に上り下りし、同時に指を絶え間なく小刻みに動かして、コロコロコロ、トットットットットンとピアノの持つ様々な音色を見事に生かしていることだと思う。主題(テーマ)はどんどん変化していき、突如別な主題が現れ曲調が変わったと思っていたら、さらに第三の主題が登場するという形で、曲全体の流れがつかみにくい。しかも終わりがかなり唐突で、突然パタンと尻切れトンボのように終えてしまうことが多い。その様子はまるで、公園に遊ぶ幼児がいきなり歓声を上げて走り出し、急に立ち止まって蟻の行列を見たり、草花が風に揺れるのをポカンと見つめ、さらに木漏れ日を仰いで眩しそうにしていたかと思うと、全く別方向に嬌声を上げて駆け出すというような、どこにどう行くか分からない、そういう趣が非常に強い。そういうところがとても面白いし、また彼の曲の魅力にもなっていると思う。ベートーヴェン以下のピアノ曲が起承転結を明確にし、曲全体の流れに統一感があるのとは対照的だ。

 モーツァルトといえば、中学校時代の音楽室の壁の肖像画を思い出す。バッハ、ヘンデル、ハイドンに次いでモーツァルト、次にベートーヴェンからチャイコフスキーまでがいるのだが、他の作曲家達の肖像画が全て成熟した大人の顔をしているのに対し、モーツァルトだけ15、6歳かと思われる少年で、髪はオールバックで小柄な顔に目を大きく見開いて、両口元を大きく頬に上げて笑っている。その最大の特徴は、アンバランスな大きな鼻だった。これは恐らく少年モーツァルトにとってもコンプレックスだったのではないか。彼は5歳の頃から「神童」ともてはやされて、宮廷内を自由に走り回っていたが、最大の遊びは居並ぶ貴婦人の大きなスカートの中に潜り込むかくれんぼであり、その時も、また作曲する時も常に「ケケケ、キャハハ」と笑い声を立てながら剽軽な道化者を演じていたことだろう。

 現代アメリカの劇作家P・シェーファーの『アマデウス』は宮廷楽団長のサリエリと若者モーツァルトとの対照を描いた傑作だが、サリエリが「天才と誉れ高いモーツァルトを凹ましてやろう」と自分の最新作の楽譜をさり気なく示して、「これぐらい書けなければ作曲家とは言えない」と自慢げに言ったのだが、モーツァルトはそれを一瞥するとすぐにピアノに向かって暗譜で全曲を弾き、「とても良くできているけれど、こうすればもっと面白くなるんではないの?」と言って随所に装飾音を加え、主題をどんどん変奏する形で変えていき、曲調全体をより華やかなものに変えてしまった。その驚嘆すべき力量に絶句したサリエリをしり目に「じゃ、ボクは遊んでくるから」と言って軽くステップを踏みながら部屋を出ていく。サリエリは「神はあんな小僧にここまで音楽の才能を与えたのか」と悔しがるシーンがある。この劇は映画も非常に良かったが、日本での上演はサリエリを松本幸四郎(現白)が好演し、その後再演を繰り返し、彼の当たり役となっている。
 モーツァルトが35歳で亡くなった時、弔問に訪れた人たちが「ご主人は歴史に残る偉大な作曲家でした」と口々に誉めそやしたが、幼な妻のコンスタンティンは少し頭が弱かったようで「あのお下劣な冗談ばかり言っている道化者が?!」となかなか信じなかったという。

 盲人になって散歩で公園のベンチで休んでいる時など、子どもたちの歓声を聞くと、よく学生時代に覚えた “I Believe” が脳裏をかすめる。
「私は信じている。真っ暗な夜でもローソクの光が輝き、嵐の時も天上のどこかで誰かが私の小さな祈りのつぶやきを一言逃さず聞いていてくれることを。赤子の泣き声を聞いたり、木の葉に触ったり、木漏れ日を仰いだりする時、私はそういう誰かがいることを確信している」
 CDを送ってくれた教え子は、十代の頃母子家庭となって相当な苦労をしたらしい。卒業の時、親子で私の部屋を訪ねてきて「娘がこんなに明るく元気になったのはこの大学のおかげです」「私が何とか卒業できたのは先生のおかげ」と二人から深々と頭を下げられ、私は胸が熱くなった。彼女はハワイで2年働いた後、故郷に戻って母親の経営する英会話教室を手伝っている。正月の電話で、彼女は「先生、目が見えなくても大丈夫。是非また秋田に頻繁に来てください。私が空港なり新幹線の駅に迎えに行って、先生の行きたい所、会いたい人に付きっきりで杖代わりになって案内しますから」と言ってくれた。お世辞の言えない子なので、額面通りに受け止めて感謝した。本当に心根の優しい子だ。
 父親はきっと娘が「神に愛される者」として元気に活躍することを願っていたに違いない。その娘が今後故郷で生活の幅を広げていくのか、それとも再び海外に出て仕事を得るのか、それは「神のみぞ知る」だ。そして私もまた、彼女がこれからどこで何をしようと、「神の加護」を得て快活に生きていくことを願っている。見えない目で空を仰ぎながら、小さなつぶやきをどこかの誰かが聞いてくれていると信じながら。
(つづく)

P.S. この日記はだんだん、参考資料に当たる間もないまま独断で書くことが多くなると思います。読者の皆さんの自由な感想、ご意見をお聞かせください。できるだけそれに誠実に応えたいと思っています。このニュースレターがシニア世代の自由な意見を言い合うサロンとなることを願っています。

風狂盲人日記③ 団琢磨の孫娘

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「団琢磨の孫娘」です。

2022年4月△日

株式会社従心会倶楽部 顧問
國際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

 先日、六本木の国際文化会館で、日本語教育のパイオニア的存在だった国際日本語普及協会(AJALT)の理事長、西尾珪子さんの「偲ぶ会」が催された。西尾さんは昨年夏、入っていた老人ホームで家族に看取られ息を引き取った。1932年生まれで享年89歳。戦前の三井財閥の総帥だった団琢磨の孫娘で、1970年代から半世紀以上にわたって独自に日本語教育法を開発し、たくさんの日本語教師を育て、日本に在住する外国大使館の外交官たちや外資系企業の経営幹部たちに日本語を個人授業で教えることを中心に、目ざましい成果を挙げてきていた。

 「偲ぶ会」ではコロナの影響のため入場者を制限し、外部者、内部者別に二部にわたって、計約200人が参列、慰霊に献花した。挨拶を依頼された私は、他のゲストが西尾さんの輝かしい業績について詳しく話すだろうと想定し、約5分間、西尾さんの美しい日本語表現がどこから来ているのか、その家庭環境を紹介した。祖父の団琢磨は西尾さんの生まれる五ヶ月前に右翼の宗教団体、血盟団の一員に拳銃で心臓を撃たれて即死したため、西尾さんは祖父の顔は知らない。

 父伊能氏は当時西洋美術史を専門にする東大助教授で、流麗な文章の著書2冊を著わしており、将来を嘱望されていた。母は長崎の格式高い高級旅館、上野屋の五女の美智子。幼い時から邦楽に親しみ、和歌を嗜んでいた。そして兄は伊玖磨氏で、戦後日本を代表する作曲家となった。その兄から珪子さんは小学高学年の頃からクラシック・レコードを聴きながら楽譜を読むことを教わり、70代になっても「楽譜を見ればメロディーが頭の中に浮かんでくる」が自慢で、これも兄のお陰と語っていた。珪子さんの4歳年上の姉、朗子(さえこ)さんが珪子さんの日本語の指南役。小学高学年の頃から姉妹で共に新聞の連載小説を愛読しており、特に吉川英治の『宮本武蔵』が大好きだったが、週に1~2回は朗子さんが「珪子、今日の文章はとてもいいから全部覚えなさい」と言って丸暗記することを要求し、姉の言うことには絶対服従の珪子さんがそれに従って必死で覚えると、数時間後に朗子さんが「テストするから言ってごらん」と腕組みをして促す。妹が途中で言いよどんだり、2、3行飛ばしたりすると、すかさず姉が「それでは文章が繋がりにくいでしょ。そこにはこれこれの文章があるはずよ」と言う。妹に命じた後、自分もそっくり暗記していたわけで、姉・妹ともに大変な記憶力の持ち主であり、また日本語の文章の良さ、繊細な表現の面白さを自ずと身に着けるような特訓になった。

 さらに、夕食後の団欒のひととき、テレビも無ければラジオもかけず、ひとしきり雑談した後、母が「では、今夜も漢字ゲームをやりましょう」と言って、全員に白い紙と鉛筆を渡し、「 禾(のぎへん)の漢字を2分間で何字書けるか、よーい始め」と言って、ストップウオッチで時間を計りながら書き始める。一番たくさん書いた人が優勝となるが、他の人が書かない漢字を書いた場合ボーナス点が加点され、嘘字を書いた場合には逆に減点になる。これを、「次は阝(こざとへん)、次は下に心が付く漢字」などと言って、幾つかゲームを続ける。これでトップは常に朗子さん。母と珪子さんが二番手争いで、兄は妹二人に勝たせようと余裕を持っていたせいか、ゆっくりと焦らずに字を書き、父もしきりに首を捻っては書いていく。その父が毎回のように尤もらしい漢字を書くので、その度に娘二人が「そんな字はない」と手元の漢和辞典でチェックする。父は「そうかな。あると思ったけどな」と首をひねるのだが、どうやら場を和ませ、家族全員を楽しませ笑わせようと意図的にありそうでなさそうな漢字をひねり出すことに腐心していたようだ。

 こうした日本語の訓練を幼い時から浴びていた珪子さんが、学習院大3年の時に1年間で書き上げた卒論は『道行の研究』。万葉集から新古今和歌集、連歌を経て、江戸時代の近松門左衛門の心中物に至るまで、義理と人情の板挟みで心中せざるを得なくなった男女の哀切感漂う思いを切々とした文章でつづる道行の系譜を辿った力作で、指導教官からも激賞された。3年生の時に1年間で資料を調べ書き上げたというその卒論を借りて読んでみたところ、400字詰め原稿用紙約200枚を綴じていて、最初から最後までマス目にきっちり楷書で綺麗な字体で書いていて、ほとんど乱れがない。今読んでみても、大学院レベルの論文に相当するような質の高いものだった。

 こうした日本語の豊かな蓄積があってこそ、日本文化の支えとなる日本語表現の美しさを人一倍強く意識し、それを外国人にも広く知ってもらおうとしてAJALTを設立したということが実に良く分かるのだ。

 西尾さんの講演やシンポジウムなどに同席してその発言を何度も聞いているが、常に起承転結が明確で、論旨明快、歯切れがよく、しかも当意即妙の冗談も加えながら聴衆を引っ張り込んでいく力は大変なもので、大体制限時間いっぱいに終える巧みさもなかなか余人には真似ができない芸当と言えた。そうした日本語を駆使する力があるからこそ、その伝統を受け継いだAJALTが、文化庁や各国の外交官、大企業の外国人・日本人を問わず「こんなに美しい日本語を駆使するAJALTの人たちなら、安心して仕事を任せられる」と信頼され、今日の隆盛を築いたと言えると私は確信しているし、西尾さんの創った伝統を引き継いでいく限り、AJALTはこれからも大きく発展していくことだろうと信じている。

 ―― ということを大体述べたのだが、後で何人もの人が「とてもいい話で良かった」と喜んでくれたのは、私自身とても嬉しかった。(つづく)

実践経営塾 講師研修会を開催

4月11日、都内で実践経営塾の講師研修会を行い講師陣が出席しました。
実践経営塾の講師の打合せは通常オンライン形式で行っておりますが、今回は久しぶりにリアルで行いました。

研修会では、福本伸夫講師より「新入社員研修」のコンテンツの紹介を行った他、今後の活動計画について意見交換を行いました。