投稿者「Jushinkai」のアーカイブ

西久保八幡神社に参拝

新年あけましておめでとうございます。
本年もご支援ご協力をお願い申しあげます。
仕事始めの1月4日、株式会社従心会倶楽部の大谷武彦代表、株式会社東洋システム開発 松本 博之社長を始め関係幹部が新年恒例の西久保八幡神社に参拝し、今年一年の事業繁栄と健康を祈願致しました。

株式会社桜士堂の木村 公一社長が来社

12月20日、従心会倶楽部の会員である京都の株式会社桜士堂 木村公一社長が来社され、同社の事業展開や今後の連携などについて意見交換を行いました。

右から2人目が株式会社桜士堂の木村社長

株式会社桜士堂(おうしどう)
〒605-0862 京都市東山区清水1-276
創業明治20年より清水寺御門前でお店を構え、鞄、巾着、財布、がま口、ポーチ等の袋物をはじめ、髪飾り、装飾アクセサリー、陶器、人形、扇子など、豊富な品揃え

風狂盲人日記 ㉖ 2023年の回顧

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「2023年の回顧 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年12月吉日

 年末に年賀状を書くのを止めて、代わりにその年の極めて私的な回顧文を書くようになってもう10年ほどになる。それを今回は、この盲人日記の一部として書くことにしたい。この日記は2年前全盲になって落ち込んでいた時に、シニア世代のための文化交流団体・従心会の大谷武彦会長から勧められて、月1~2回のペースで書き始めたものだが、幸い従心会ホームページの看板コラムになって好評だと励まされ、今後も暫く続けていくことにしている。

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 振り返ってみればこの1年は、私の人生の中でも最も静かで穏やかだった。70代になってから体のあちこちにガタが来て、脳や頸椎の動脈の手術、眼科のレーザー治療、循環器の検査入院から大腿部の動脈手術など、実に様々な病気で入退院を繰り返し、手術を行い、毎月数回病院通いをしていた。それが今年は、通院も2~3ヶ月に1回定期検診に行く程度で、目下、眼以外の体調は年齢相応か、それよりも若く健康、との診断を受けて一安心している。

 3年前までは、年に2~3回は海外旅行し、国内旅行は毎月2~3回というペースで、北海道から沖縄まで巡っていた。しかし今年は1泊以上の旅は一度も無し。毎日家で朝9時過ぎから夜11時過ぎまで古今東西の文芸作品、評論などの朗読CDを聴いている。ザっと年に250冊以上読んでいる(聴いている)勘定だ。

 今年聴いた作品群で最も印象に残っているのは、シェークスピアの全37作品、シャーロックホームズ・シリーズ全50篇、米作家のヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックの主要作品や、アップダイクのラビット・シリーズ全4作など。加えて日本の作品では、小松左京の『日本アパッチ族』『復活の日』『明日泥棒』『継ぐのは誰か』『日本沈没』、さらに大沢在昌の『新宿鮫』シリーズや、彼の長編作品をしっかり楽しんできた。

 失明以来、社会生活は殆ど無理と考えていたが、昨年国際交流団体IAC(国際芸術家センター)の依頼で、Zoomを使って講演する機会を与えられたのをきっかけに、今年も計4回、英語教育論や古典芸能案内などの講演を行った。

 加えて、グローバル教育研究所(渥美育子理事長)が毎月出しているニュースレターに、「グローバル人材を育成するための方法」について4回連載を書いた。こうした講演のレジメ作りや原稿の執筆には、家内の全面協力が不可欠で、感謝し続けている。

 外からの情報は耳だけが頼りだが、左耳は全く聞こえず、右耳も普通の人の半分ほどまで聴力が下がった。そのため、夏に補聴器を清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した。デンマーク製で実に40万円。1970~80年代は、日本の技術力が世界一を誇ったが、90年代以降の過去30年間、日本は低迷し続け、技術力も国際競争力も首位から滑り落ち、現在世界での競争力総合順位が34 位にまで下がっている(スイスの研究機関IMDの『世界競争力年鑑』 2023年版)。代わって躍進したのがドイツ、オランダ、デンマーク、フィンランド、ノルウェーなど、東欧北欧諸国であり、日本は中国にも韓国にも競争力で劣る地位にまで落ち込んでしまっている。それを象徴するように、時計・補聴器類の精密機械は軒並みヨーロッパ勢に大きく技術水準で水をあけられている、ということが痛いほどよく分かった。

 穏やかな日々の中で最も嬉しいのは、親しい人たちから電話がかかってきたり、また会いに来て色々話をしてくれることだ。今30代で活躍している大学の教え子たちの近況を聞くのは実に楽しいし、彼らの活躍がよく窺えて心が弾む。結婚式に招かれて挨拶したり、社外勉強会、異業種交流会で様々な人から声をかけられるのも、実に嬉しい。そうした体験は、この1年間の盲人日記でも折に触れて書いてきたので、興味ある方は是非従心会のホームページでバックナンバーを検索して頂きたい。

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 年末によく出る歌舞伎の演目に『松浦の太鼓』という芝居がある。元禄15(1702)年12月の夕暮れ、両国橋のたもとで連歌・俳諧の宗匠、宝井其角がみすぼらしい身なりで大掃除用の笹竹を売り歩いている若い男に出会い、それが、自分のところで歌を学んでいる赤穂浪士大高源吾と気付いて、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」の上句を言い、下句を付けるように促す。すると源吾はしばし沈黙した後、「明日待たるる その宝船」と付けた。世の無常観や憐れみを嘆息する下句が付くと想像していた其角は戸惑い、後日14日深夜、親しい松浦侯の屋敷で茶を飲みながら世間話でその話を披露した。すると赤穂藩断絶の幕府の一方的な処分に怒り、赤穂浪士たちに同情していた松浦侯も、その下の句の意味が解せずに首を傾げていると、隣の吉良邸のあたりから山鹿流陣太鼓の音が聞こえてくる。そこで、松浦侯は咄嗟に浪士の討ち入りを直感し、大喜びして助力を申し入れようと勇み立つ、というストーリーで、数年前に亡くなった中村吉右衛門がこの松浦侯を実に気持ちよさそうに演じていた姿を何度も歌舞伎座の舞台で観たことを、年末になると思い出す。

では、其角の句に私なら何と付けるかを考えてみた。案外たやすく出てきたのが、崇徳院の「瀬を早み」の竜田川の本歌取りで、「わかれてもまた会わんとぞ思ふ」でどうだろう。新年も知人・友人たちからの電話や呼びかけを何よりも楽しみにしている、というほどのつもりだ。このコラムの読者の皆さまにも、どうぞ良い新年をお迎えください。

(つづく)

山田二三雄顧問を訪問しました

11月25日、大谷代表と津久井事務局長が静岡県伊東市の山田二三雄顧問のご自宅を訪問し、株式会社従心会倶楽部の今後の展開について有益な意見交換を行いました。山田二三雄氏には、当社の2012年設立当初から顧問としてご指導いただいております。

山田顧問は、社会学博士で特定非営利活動法人日本カンボジア交流協会の理事長として、93歳になられた今もカンボジアを行き来するなど精力的に活動をされておられます。

中央が山田二三雄顧問

株式会社明光建商を訪問致しました

11月13日、4日、大谷代表、飛島顧問、御厨とコロナに翻弄された3年半ぶ りに、福井県越前市の株式会社明光建商を訪問致しました。
塩谷会長、塩谷社長はじめ経営幹部の方々と事業経営に関する勉強会、情報交換会を二日間に亘り行い、有意義な時間を過ごすことができました。今後とも、相互間で連携を強化し、協力を進めていく方針です。

前列左から2人目が塩谷昭文会長、前列右から1人目が塩谷和宏社長

風狂盲人日記 ㉕ 社外勉強会の移り変わり

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 社外勉強会の移り変わり」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年11月30日

 今月も東京・日比谷で土曜の午後賑やかなイベントがあった。「丸の内朝飯会」の60周年記念パーティーということで、100人以上集まった。私は前月、この会でZoom講演した縁から無料招待されたもので、この伝統ある社外勉強会がどんな歩みをしてきたのかを知りたくて、喜んで参加した。

 この会は、1963年に当時大学を卒業したばかりの仲間数人が集まって、「職場は違ってもこれからも毎週会って議論をし続けよう」ということで始まったという。当時は60年安保の社会的変動が漸く鎮静化してきた時で、大学進学率はまだ同世代の10%にも満たず、いわゆるエリートだった彼らが社会人として様々な仕事に取り組む中で、「戦後復興期を終えた日本がこれからどう進むのか」を模索する時代であった。その中で、大卒者たちは自分の人生の目標と日本社会の将来を重ね合わせて考える縁(よすが)として、社外勉強会、異業種交流会を作り、勉強を続けていったと言える。「丸の内朝飯会」は、まさにそうした社外勉強会の先駆的な役割を果たしたもので、毎週木曜の朝7時半から1時間半、講師の話を聞いたり仲間同士でテーマを決めて議論したりということを続けてきた。その会が60年間で2800回以上になるというのは、驚嘆に値する。

 私自身の社会生活を振り返ってみても、1972年に日本経済新聞社に入社し、社会部記者として走り回っていた時、社会部長から、デスク、キャップ、私の3人で新規プロジェクトを考えるよう指示があり、その時の共通認識として70年代半ば以降高度経済成長が急速に進む中で、日本のサラリーマン社会にも大きな社会思想的な変化が起きているのではないか、ということがあった。そこで、キャップと私の二人で手分けし、手掛かりとして当時あちこちに作られていた社外勉強会、異業種交流会を数ヵ所訪ねて、そこに参加する人たちの会社観、職業観、自らの人生観などについて、あれこれと聞いて回った。

 そこで気付いたことは、会社人間の多くが、「寄らば大樹」で定年まで安定した生活が送れる官庁や役所に酷似した一流企業などに勤めることを目標としてきていたのが、それだけでは満たされない思いを強く持つようになり、自分の可能性を更に広げるために会社依存体質を改めようと進んで社外の勉強会、研究会に参加することが多くなってきていることだった。

 こうした社外勉強会は、当初自分の仕事と直接関係のない業種あるいは他分野についての知的好奇心を満たすことから、会社を離れてもやっていけるための専門知識、技能を身に着けることに進み、更に自分の生き方を改めて問い直すために宗教団体の集まりに参加したり、様々なテーマを集団で議論し合うような形式のものにも発展していった。

一方会社側でも、営業部員をまとめて自衛隊に体験入隊させたり、寺に1週間住まわせて座禅させたり写経するなどの試みもあった。私が体験したTM(超越瞑想法)の研修では、一流企業の中堅社員たちが日常業務から離れて全く自由な発想で、世界の動きについてどう考えるか、組織原理のあり方は何が理想なのか、などについてあれこれ話し合ったり、感性を磨くためのトレーニングを行ったりしていた。

 そうしたことを調べながら、同時進行の形で1979 年から日経社会面で「サラリーマン」という長期連載を始めた。一流企業の役員候補とされてきた部課長たちが、その仕事に見切りをつけて全く別業種の会社に転職する様子を描いたり、国立大学を出て一流企業に入った若者が、1~2年以内で「この職場でいけば自分が縛られてしまう」と辞めていく話など、ほとんどが本人の了解を得て実名で小説のようなドキュメンタリー・タッチで描いていった。そのネタの多くは、社外勉強会などを覗いて知り合った人たちからの情報で得たものだった。

 幸いこの連載は大変好評で、連載5年目を迎えたところで菊池寛賞を受賞した。受賞者は「サラリーマン取材班」という名前だが、連載当初から3年間は私がその約三分の一を書いてきた。新聞の連載記事が菊池寛賞の対象になったことは、確か初めてという快挙だったが、それは社会部記者が入念な取材を基にごく普通のサラリーマンを実名で取り上げ、その家庭生活や友人関係などにも深く入り込んで取材し、70年代後半から80年代前半にかけての高度経済成長絶頂期のサラリーマン群像を等身大で描いたことが高く評価されたものだと思っている。

 その後もこうした社外勉強会は全国各地で開催されてきたが、そのほとんどは、中心人物が転勤や転職などで会の運営ができなくなると自然消滅するケースが多く、せいぜい3~5年が限度であり、10年以上続くというものは極めて少ないと言える。1990年代以降のバブルが弾けてからの「失われた30年」には、もはや社外勉強会が活発になる機運はあまり見られない。理由は、社外の人脈作りはFacebookやLINEなどSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の急速な普及によって代替されるようになってきたことが挙げられる。また、潰れることがないと思われていた一流企業や銀行などが次々に倒産やM&A(買収・合併)などで変わる中で、会社人間のあり方も、自分の身を守ることが最優先されて、のんびり社外の人脈づくりを楽しむ余裕も無くなってきたとも言える。また、過去3年のコロナ禍の結果、外での会食・会合ができにくくなり、在宅勤務が増えた結果、有能な人間は在宅中に会社の仕事は一日数時間で片付け、そこから更に他の仕事もできるようになる、という二足、三足の草鞋を履くことが可能になってきている。そこで、これまで官庁同様ほとんどの企業が「副業の禁止」を謳ってきたなかで、本業はどこかの会社の社員であっても、アルバイトあるいはボランティアの名目で他の仕事も自由にできる余地が出てきている。その意味で、個人の能力次第でこれまでの「単属」人間から「複属」人間への変容が、今静かに、しかし急速に進行しつつあるのではないか、ということを最近感じている。

(つづく)

第18回ゆい歴史散歩「小江戸川越を訪ねる」を開催致しました

11月7日(火曜日)、NPO法人ゆい思い出工房と共催で、第18回ゆい歴史散歩を「小江戸川越を訪ねる」のテーマで開催し19名の方々が参加されました。

東武東上線・JR川越線の川越駅を10時に出発し、最初のうちは雨模様の天候でしたが次第に日差しが出てきて、初冬の小江戸川越の散策を満喫し、約15,000歩の散歩を楽しみました。

東武東上線・JR川越線 川越駅からスタート致しました
時の鐘にて
いちのやにて昼食
本丸御殿にて
氷川神社にて

風狂盲人日記 ㉔ 日本の古典芸能の魅力

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本の古典芸能の魅力 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年10月31日

 木曜の朝、東京の社外勉強会「丸の内朝飯会」でZoomで講演した。演題は、主催者の注文に従って「古典芸能の魅力」とした。午前7時半から1時間講演し、その後30分質疑応答という形式だ。私が年来、歌舞伎・文楽は日本文化の粋、と語っているのを知って、主催者が依頼してきたものだ。別に歌舞伎の専門家、研究者でもないが、1990年秋にロサンゼルス特派員の任を終えて帰国して以来、丸30年間歌舞伎座の毎月の昼・夜の演目、国立劇場の文楽公演は全て観てきた。我が書斎には、その関係の全集や芸談、評論、専門雑誌類などが、段ボール箱に詰めたら50箱以上にのぼっていた。と言って、単なる印象批評をしてもあまり意味がないと思われたので、何故歌舞伎・文楽が日本を代表する優れた伝統文化なのかということを、歴史的に素描しながら、その魅力を語ることを試みた。

 最初に強調したのは、文化の基盤をなす日本語の抑揚とリズムが、大和朝廷から奈良時代にかけて定着したことだ。それも、万葉集、古事記、日本書紀に見られるように、五七調(あるいは七五調)の短詩形の連続で自分の心情を表現するようになった。その抑揚、リズムが鎌倉期の平家物語、室町時代の太平記という語り物を通して、日本人の仏教をベースにした宗教観、生活倫理、死生観を広く浸透させることになった。

 日本人の生活様式や伝統文化の特徴が固まったのは室町時代から。まず観阿弥、世阿弥の親子が中心となって謡曲が生まれ、それを能舞台で演じる演劇集団が誕生した。その謡曲が江戸時代に入って歌舞音曲の多様化を促した。まず京都で出雲阿国一座が四条河原で公演をし、それが歌舞伎の原点となって、京、大阪、江戸と17~18世紀に一気に日本固有の芸能として発展していく。その芸能の特徴として、次の点が挙げられる。

  • 音曲部門で能の笛、鼓、太鼓から三味線が急激に普及し、その演奏家たちが家元制度によって技術の伝承と普及を進めた。
  • セリフ術を中心とする舞台上の演技もまた、親から子へ伝承される「お家芸」で伝えられ、その家元制度によって世代交代が次々に行われるという、世界でも数少ない芸能文化の普及形態が進んだ。
  • 本来武士階級を対象にした謡曲が、人口の9割以上を占める農民・商人に普及するにあたって、語りが浄瑠璃(義太夫(太棹)、清元・常磐津(中棹))、長唄(細棹)と三味線も多様化し、音色が一段と豊かになり、その語り手、唄い手たちもほぼ全て家の芸を継ぐ形が厳密に守られた。
  • 伝統芸能のほとんどは以上のように、それぞれの流派の型(形式)をしっかり守る形で広がり、それが役者であればセリフや見得、動きなどすべてに渡って型どおりに行うことがプロとしての技量を測るバロメーターとされた。

こうした型を生み出し定着させていくことが、それぞれの「お家芸」の伝承として最も重んじられる点に、日本文化の最大の特徴がある。江戸では市川團十郎(成田屋)、尾上菊五郎(音羽屋)、関西では片岡仁左衛門(松嶋屋)、中村鴈治郎(成駒屋)という、それぞれ名優を祖とする一門が活躍し、今日に至っている。

更に、江戸時代には座付き作者が次々に登場。大阪では近松門左衛門、江戸では幕末から明治にかけて鶴屋南北や河竹黙阿弥が優れた脚本を提供し、『白浪五人男』『三人吉三』などの名セリフと共に庶民の間で広く歓迎された。このうち特に私が注目してきたのは近松の心中物だ。この世で添い遂げられない若い男女が、あの世で幸せになろうと誓い合って死への旅路を歩む「道行(みちゆき)」は、世界の古典芸能、芸術作品などでも殆ど類例のない特殊な「情死の賛美」であり、普段この世の理不尽さ、不幸にじっと耐えている観客たちにカタルシスを与える優れた芸術美だと私は思う。

明治以降、天皇が九代目團十郎、五代目菊五郎の舞台を鑑賞して以来、岡本綺堂、真山青果、谷崎潤一郎ら多数の作家が新作を提供し、歌舞伎の演目を増やし続けて今日に至っている。1960‐70年代の高度成長期には、テレビ・映画の普及で歌舞伎・文楽は古臭いとして客も入らない時代が続いたが、その後古典芸能の魅力に気付いた人たちが新たな観客層となって、歌舞伎座や国立劇場に通い始め、今日では世代交代がどんどん進む中で、新たな役者・芸人たちが着実に育っている。私は3年前に失明してから舞台が全く見えなくなってしまって、劇場通いを断念したのだが、これまで半世紀以上にわたって様々な形で見聞してきた名優たちの舞台などを脳裏にくっきりと思い浮かべることができ、それを折に触れて反芻する形で楽しんでいる。

(つづく)

NPO法人ゆい思い出工房幹部が来社

10月16日、NPO法人ゆい思い出工房の幹部の、南雲康宏氏。吉村啓治氏が来社され今後の連携について意見交換を行いました。
来社された吉村啓治氏は、当社のシニアアドバイザーでもあり、NPO法人ゆい思い出工房の理事のほか、浦安市議会議員として「浦安を”日本一”シニアが輝く街に!」をかかげ「子どもからシニアまで優しい街づくり」を目指して精力的に活動されておられます。

前列右から2人目が吉村啓治氏、3番目が南雲康宏氏