従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、数年前緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 日本語教育の新時代」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2024年4月29日
今月から始まる新年度に日本語教育の世界が大きく変わる。2023年に日本語教育機関認定法が制定され、この4月から施行されるからだ。日本語学校は戦後80年にわたって全く法的整備の無い状態で、民間が自由に行える形で来た。それが、新しい法律によって学校の設立運営も日本語教師も国による公的機関の審査を受けることになった。それを実施するのは文部科学省に新しくできた総合政策局日本語教育課だが、ここには幾つか注意しなければいけない問題がある。
1980年代、私が日経新聞社会部記者として文部省を担当した頃、「日本の国際化が本格的に進む中で、政府として日本語教育を積極的に推進する必要があるのではないか」と事務次官以下、主要局長、課長クラスに話をしたが、当時は全員が「日本語教育は文部行政の埒外」と全くにべもなかった。政府の教育行政は日本国民に対して行えばいいのであって、外国人に対する教育は文部省の関知するところではない、というのがその理由だった。それには、戦前、台湾、朝鮮を日本統治下においた時に日本語教育を現地で進めたが、それが植民地に対する統治政策として戦後全面否定された結果、海外で日本語を普及させる活動は日本政府にとって事実上のタブーとなってきた、といういきさつがある。
だが戦後日本の経済成長が著しく進む中で、1980年代以降急速に「日本語を学んで日本で仕事をしたい」という動きがアジアを中心に高まり、日本への留学を希望する学生が急増した。それに対し、日本の大学で学ぶには、日本語能力試験の1、2級レベルの日本語力が無ければ受け入れられないとしていたため、大半の留学希望者は、まず、日本語学校で日本語の基礎から日本語能力試験に合格できるレベルまで勉強することが留学の準備段階として位置づけられ、日本語学校が全国に林立するようになった。
現在日本には日本語学校が約840校あり、約10万人の「留学予備生」を受け入れている。殆どの学校は、海外の高校を卒業した学生に1、2年のコースで日本語を学ばせると同時に、日本での生活習慣に馴染ませ、大学に送り込むというやり方をしてきた。日本語学校の7割は企業が設立したもので、学校法人になっているものは1割にも満たない。つまり日本語学校は会社組織なので、経営者が利益を得られないと判断すると急に縮小したり廃校になるケースもあり、そうした不安定な経営状態の所が少なくない上、安易に学生を多く受け入れても、それに適切な対応ができないまま留学生たちが蒸発してしまうなどのトラブルも時々起きていた。
一方、政府は今世紀に入って日本語教育の体制を整え、優れた日本語教師を養成しながら留学生を10万人から30万人に、更には40万人に増やしていくことを、国の重要政策課題に掲げている。
日本の少子化が進行する中で、介護・看護、物流・運送、情報産業、建設業など各産業部門で数万から数十万人の人材不足が見込まれている。それを補う意味で海外から日本で働く人材を大幅に増やしていきたいという、経済界からの要請も加わっている。
こうした事情から、日本語教育推進法が自民党から共産党まで全会派揃って議員提案され、2019年6月に成立・施行された。この推進法が基本となって初めて「日本語教育」が法律用語として正式に位置付けられた。それまでは、文部省の主張していたように法律上も行政上も「日本語教育」は存在せず、わずかに文科省の外局である文化庁の国語課が、全国の市区町村が住民サービスとして日本に在住する外国人に日本語を教える「地域日本語」を支援してきた。その意味では日本語教育の地位が大きく上がったことは間違いない。
但し、今月から施行される日本語教育機関認定法には幾つか問題がある。まず日本語教育機関である日本語学校は、普通の学校法人とは異なり、その設置形態の7割が民間企業だ。優れた日本語学校の殆どは、法律の縛りがないまま、それぞれ独自に教材・カリキュラムを開発し、個性的な指導方法に工夫をこらして実績を上げてきた。それを公的機関がどこまで内容を審査し、適切に認定できるかという問題がある。
また、日本語教員資格試験の導入がこの秋に始まるが、日本語教師の養成は、これまで日本語学校の多くが独自の教員養成課程を設けて、その学校の教壇に立たせていた。そうした個性的な教員養成法に対して、今年新設される公的審査機関がどういう基準で資格審査するのかがまだ全く分からない状態だ。日本の学校の教員資格は、大学で教職課程を取り、教育実習をした上、各都道府県が試験を行って採用するという手順を踏んでいる。それに対し日本語教師の場合、どんな教職科目を取得すべきか、どこでどう実習するか、国の資格試験に合格すればどこの日本語学校に採用されるのか、など不明点が多い。この秋には第一回資格試験を実施し、その結果を基に来年以降資格試験制度を整備するとのことだが、その方向性はまだ殆ど白紙状態だ。
この新制度は、今年から5年間の移行期間を経て徐々に整備していくということだが、文部行政の中に位置づけられるとなれば、予算も相当付いて、日本語学校の質的向上を進めながら、更に、より優れた教育制度が期待できる反面、公的機関の活動にありがちな「公正・公平・平等」の名の下に全国一律、画一的な制度を導入して、日本語教育の世界の自由さ、多様さを抑えつけ、また縛っていくという弊害も十分想像できる。
私は全国の日本語学校が会員となっている日本語教育振興協会の評議員、評価委員として、全国各地の日本語学校をこれまで数十校訪問し、現地調査して、その教育の実情を調べ、それぞれの学校の個性、長所を積極的に励ますことで、質の向上を図るよう努めてきた。その体験からして、今度の法律の制定によって日本語教育の世界が大きく進展するのを期待する一方、政府の形式的な抑え込みが民間の努力を阻害するものになる心配も抱いている。そうした意味で、今後の法律の実施状況を注目していきたい。
(つづく)