この程、当社と連携しておりますNPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行致しましたのでご紹介させていただきます。
今回は、「2023年定時総会が終了しました。」「株式会社従心会倶楽部との連携強化」、「石岡顧問が90歳を超えて3回目のエイジシュートの偉業!!」などの記事が掲載されております。
大谷代表は、この度の定時総会でNPO法人ゆい思い出工房の監事に就任されました。
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「再会を祝う 」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年7月26日
今月は楽しい会合が二つあった。一つは東京外大英米語科の同級生の集まり。卒業以来数年おきにクラス会を開いていたが、コロナと私の失明が重なって暫く途絶えていた。静岡県沼津市内で寺の住職をしている男が久しぶりに上京するという機会を捉えて5年ぶりのクラス会となった。集まったのは8人。全員が70代半ばで、体のあちこちにガタが来て病院通いをしていると言うが、皆明るく元気で、それぞれ第二、第三の人生を、ボランティアで地域活動に取り組んだり、長年培った経験を生かして時々仕事をしている、あるいはボーリングなどのスポーツで汗を流しているという近況を楽しく語っていた。都合で欠席した二人とは事前に電話で近況を聞いたら、それぞれ、病弱な子供の介護や親の遺産の整理などで忙しくしているとのことだった。
もう一つの会合は大学時代のゼミのOB、OGの集まりで、これまで長い間私が事実上の万年幹事をやっていたのだが、今回丸4年ぶりに再開できた。こちらは平日の昼間池袋駅近くのレストランに10人集まって楽しい昼食会が催された。
恩師の中嶋嶺雄先生(1936-2013)の東京外語大での国際関係論ゼミは、学内でも人気のゼミだったが、特に1969年から先生が学長に就任する1995年まで30年近くにわたって指導したゼミ生270人のうち、卒業後も毎年正月2日に先生の自宅で催す新年会には、数十人が集まって半日賑やかに歓談していた。このゼミの最大の特徴は、ゼミ誌(『歴史と未来』)をほぼ毎年、計28号まで活版印刷で出版し、大学の売店でも販売していたことで、私は創刊号の編集委員を務めて以来、最終号までエッセイや評論を10回以上寄稿し、最多出場を記録していた。
先生が2013年2月14日に国際教養大学長在職中に急死した時には、ゼミOB十数人が集まって急遽追悼集を出すことを決めてゼミの一斉メールで呼びかけると、40数人が寄稿してくれて、わずか2ヶ月で出版できた。
その年5月に、先生の故郷・長野県松本市で松本深志高校同窓会と才能教育研究会の合同主催による「偲ぶ会」(約250人が参列)で配布した。先生はこの二つの団体の会長も長く務めていて、バイオリンの鈴木メソッドを学んだ一期生として終生バイオリンを手元から離さず、才能教育研の発表会がサントリーホールや武道館で開催された時には、そのリーダー役を務めていた。更に追悼集は、6月に東京・ホテルオークラで中嶋ゼミ主催で開催された「偲ぶ会」(約800人が参列)でも配布された。
先生の業績を検証するため、没後間もなく著作選集全8巻を出すことを決め、出版してくれる所を探したがなかなか見つからず、最後に漸く桜美林大学の付属機関、東アジア研究所が引き受けてくれ、無事8巻を刊行できた。私はその編集責任者として、企画立案から選集で取り上げるべき論考全てをチェックし、8人の解説者をゼミ生で分担し、その解説文を編集委員会内部で何度も読み、書き直す作業を続け、内容的にも相当優れたものができたと自負している。選集の発行は2016年から2017年にかけて。それが終わるとすぐに、私が中嶋嶺雄研究会を3年の期限付きで立ち上げ、半年に1回のペースで、大学改革や国際関係、日中関係、地域研究など、テーマ別に公開シンポジウムを開催し、そのうち「大学教育革命」「日本外交への提言」は、ソフトカバーの冊子として出版もできた。
そうした活動をすべて終えて、2020年春にゼミの会の総会を予定したのだが、コロナでできなくなり、翌年には私が失明して活動が大幅に制限されてしまって現在に至っていた。こうした経緯があったから、余計、今回集まってくれたゼミの後輩たちの元気な声を聞くことができたのは、何よりも嬉しかったし、私より20年以上も若い現役の人たちも忙しい合間を縫って来てくれたことに心から感謝した。このゼミの先輩後輩の集まりもまた、世代を越えて、私自身色んな業種で活躍している人たちから学ぶことも多く、これからも引き続き機会を捉えて集まろう、ということで皆さんの賛同を得た。
仕事などの利害関係ではなく、お互いに気心の知れた仲間たちという関係で気楽に話し合える人たちを持っていることは幸せなことだ。孔子が紀元前450年頃に語った「友あり、遠方より来たる。また楽しからず乎」(『論語』)は、永遠の真理だな、としみじみと感じさせられた。
(つづく)
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本語教育の大転換 」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年7月5日
日本語教育の世界が大きく変わろうとしている。今春新しくできた法律で、来年4月以降日本語教師に資格認定制度が導入され、日本語学校も公的機関から認定されることが決まった。日本語教師、日本語学校はこれまで事実上の無法状態にあり、誰でも自由に教師になり学校を作ることができていた。そこに国の法律の網が被せられる訳で、教師、学校共に資格審査が厳しくなる。そのこと自体は総論として、今後の日本が「多文化共生社会」に向けて体制を整える上で極めて重要であり、望ましいことなのだが、具体的な内容がまだ不明であり、日本語教育の現場にかなり不安を拡げつつあることは確かだ。
日本政府は明治以来つい最近まで、「政府が行うのは日本国民に対する施策であり、外国人に対する政策は政府の関知するところではない」との立場を堅持していた。そこで文部省も「日本国民でない外国人に教育をすることは文部行政の埒外(らちがい)である」と断じて憚らなかった。
それが、1980年代の中曽根内閣の「留学生受け入れ10万人計画」が政治的判断で打ち出された結果、政府としても対応を迫られたのだが、日本語教育そのものについての検討は殆どなされなかった。私が80年代前半、文部省記者クラブ詰めだった時、同省の幹部らとよく懇談するなかで、外国人に対する日本語教育に文部省は積極的に取り組むべきだと主張したが、全く相手にされなかった。
そこで89年、日本が経済大国として急成長した中で、中国を始め、東南アジアからの出稼ぎ労働者が日本に殺到し始め、その安直な入国の方法として、日本語学校で学ぶ「留学」を目指した。ところが、そうした外国人の受け入れをする日本語学校の中に、入学金や授業料を取ったまま学校を閉鎖したり、経営者が行方不明になるなどのトラブルが続出し、特に、中国からの留学希望者たちが数週間にわたって上海の日本領事館を取り囲んで抗議するという外交問題にまで発展した(上海事件)。それに慌てた政府は、外務省、文部省、法務省の3省が協議して、応急の善後策を取ることになった。
しかし法務省は「不良外国人」の入国を波打ち際で止めることに専念しており、外務省は外交問題にさえならなければ教育問題には関知しないという立場だった。そして肝心の文部省は代々の既定方針である「外国人の教育は文部行政ではない」との建前から、日本語学校の審査や日本語教育の内容の検討などについては殆どやる気がなく、日本語教育の話は外局である文化庁の国語課に任せることにした。国語課は当用漢字の制定や送り仮名の是非などを専門家が集まって議論する国語審議会の事務局であり、日本語教育そのものについては事実上殆ど野放しだったと言っていい。
そうした事情から、日本語学校を巡るトラブルを防止し、日本語教師、日本語学校の質を高めるための新しい機関として、一般財団法人日本語教育振興協会(略称「日振協」)が3省の協力で設立され、この団体が日本語学校を会員として、その会員校の教育内容の審査を引き受けることになった。
その後、21世紀になって政府は国際化時代に対応して、留学生の受け入れ数を一挙に30万人にまで引き上げてきた。
この間、私は日経新聞記者として、公益財団法人国際日本語普及協会(AJALT)が外国人向けの優れた日本語教科書(Japanese for Busy People)を発刊した70年代にいち早くその社会的意義を評価して、社会面のトップで大きく扱い、その後も日本語教育の世界を継続的にフォローしてきた。記者としての最後の仕事は、2002年に「日本語教育の新世紀」と題する24回の連載を日経紙面で執筆し、日本語学校の実情、日本語教師の実態を詳しく報道することだった。
AJALTは既に50年以上、来日する外国大使館員、外資系企業、宣教師、学者研究者などに日本語を個人授業することに実績を挙げ、全国各地の自治体が地域に住む外国人を対象に開く日本語講座の指導に当たってきた。そして同時に、東南アジアからの難民に対する日本語研修や、政府が受け入れる海外からの技術研修生の教育指導にも大きな成果を上げてきている。最近ではウクライナからの3000人を超す避難民のうち、日本滞在を希望する約300人に対する日本語教育も担当している。
私は過去20年AJALTの理事、および日振協の評議委員会議長、評価委員を務め、全国各地の日本語学校の経営状況、教育内容を視察しながら調べ評価していった。その評価の基本姿勢は「こうすればもっと良くなる」という積極的な提言が主であり、学校側の個性豊かな教育内容や、その優れた指導ぶりについては積極的に応援する姿勢を第一にしていた。
日振協の活動に対して、日本語学校の一部が政治家を巻き込んで「法的根拠がないのに学校を審査するのはけしからん」と主張し、政権を取った民主党が事業仕分けでやはりこの問題を政治的に取り上げて、法的な整備をすべきことを指摘していた。今全国に日本語学校が830校あり、約8万人の留学生を教育している。その大半は日本の大学に留学を希望する人たちなのだが、最近は日本語を学んで仕事を覚えたら本国に戻ってビジネスをしたいという人たちも増えている。日本語学校の7割は株式会社であり、公的機関から教育機関としての審査を受ける学校法人は2割にも満たない。株式会社なので経営が思わしくなければ廃業するという所も少なくなく、それが在校生とのトラブルも生んでいた。
そうした流れの中で漸く2019年、国会議員全員による議員提案という珍しい形で「日本語教育推進法」が制定され、日本語教師及び日本語学校の認定制度が法律的に整うことになった訳だ。
先月にはAJALTの総会、日振協の評議委員会があり、どちらにも私はZoomで参加し発言したが、文科省が今後日本語教育に否応なく本格的に取り組まざるを得なくなった場合、この省の最大の特徴として、全国一律公正公平の名のもとに、これまで自由闊達に優れた教育内容で指導を行ってきた日本語学校を一律に枠にはめて、その多彩な個性を摘んでしまう心配があるのではないかということを懸念している。また今、中高年齢者の多くが、増加する在日外国人に対して生活日本語を教える日本語教師になりたいという希望が多いのだが、そこに国家試験の枠をはめることで、むしろ日本語教師になりたいという人たちの意欲を削ぐことになる、あるいは既に日本語教師をしている人たちの間に自分の地位、処遇がどうなるのかという不安が広がっているのも間違いがない。
文科省・文化庁は今、その認定制度の詳細を固めるため学識経験者を集めて意見を聞いているが、その概要が固まって政府の方針として出てくるのはこの秋から年末だ。その間、AJALTや日振協など優れた団体の意見も十分に取り入れながら、納得のいく方向性を打ち出すように心から願っている。
(つづく)
従心会倶楽部の会員である株式会社全笑(平野仁智代表取締役社長)では、かねてから和歌山県有田川町にある複合施設のリニュアル事業を進めておりましたがこのほど完成し、3月1日に「W.A.S Riverside nature terrace」として開所式が行われ、従心会倶楽部からは、大谷代表と松本理事が出席致しました。
株式会社全笑より開所式の模様を寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
晴天に恵まれた2023年3月1日、株式会社全笑は和歌山県有田川町清水の W.A.S Riverside nature terraceのリニューアルの開所式を無事に開催する事ができました。
この施設のある有田川町は日本一の山椒の産地ですが、高齢化・人口流出など多くの問題を抱え、町のランドマーク的存在のこの施設も閑散期と繁忙期の差が激しく毎年赤字が続いておりました。
この施設を弊社代表平野が、地域、高野山、バックアップ企業等を結びつけ活気のある施設にたてなおすべく進めてきた事業です。この趣旨にご賛同いただいた高野山関係者、有田川町町長、副町長、行政関係者、企業様等、約70名に出席いただき盛大に開催いたしました。
主な参加者
有田川町町長 中山様、副町長 坂頭様、教育長 片嶋様、高野山真言宗別格本山 普賢院院家 森様、株式会社角濱総本舗 角濱社長、株式会社中本名玉堂 中本社長様、公益財団法人オイスカ顧問中野様、株式会社 従心会倶楽部 大谷社長様、ソルビバ株式会社 竹内社長様、東洋システム開発株式会社 松本社長様、税理士法人be 篠田会長様、金印わさび株式会社 石川社長様、株式会社 美ノ久 取締役部長田口様、生産者側より、JAありだ 代表理事組合長 森田様、JAありだ理事 宮本様、ありだ山椒組合 部会長 平野様、一般社団法人 大和屋 代表 見座様、株式会社 ロゴスコーポレーション 河田様 等。
高野山、バックアップ企業、行政、全笑、地域の方々とでタッグを組み有田川地域が活性化し交流人口が増え、清水町への移住定住が増えるように努めて参ります。また中山間地域の課題は全国的にも共通だと思いますので中山間地域の農業の必要性を説き全国でもモデルケースになるような事業にして参りたいと思いますので今後ともご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。
3月18日より本格稼働
ドームテントでの宿泊は4月中旬から
詳しくはホームページもしくは担当 松原までお問合せ下さい。
0737-25-1288
さくらの花の開花が待ち遠しい季節となりましたが、株式会社従心会倶楽部では、NPO法人ゆい思い出工房と連携して第17回ゆい歴史散歩「武蔵野の自然・さくら、江戸の水瓶(すいびょう)を訪ねる」のテーマで実施することとし、参加者の募集を開始致しましたのでご案内申し上げます。多くの皆様のご参加をお待ちしております。
1.開催日 | 2023年3月24日(金) |
2.集合場所/時間 | JR中央線 西荻窪駅改札口 10時集合 |
3.参加費 | 4,000円 (入場料、昼食代、コーヒー代等を含む) |
4.参加費振込銀行口座 | 株式会社従心会倶楽部 城南信用金庫 新橋支店 普通 469126 カ)ジュウシンカイクラブ |
5.募集定員 | 20名(先着順) |
6.締切日 | 3月18日(土) |
7.連絡先 | 青木 豊 y.aokicx@s7.dion.ne.jp 090-9304-3212 津久井 均 h.tsukui@jushinkai.com 090-4590-0404 |
NPO法人ゆい思い出工房では、昨年当社も協賛した「第2回ゆいフォトコンテスト」を行い多数の応募がありました。この程、浦安市街づくり活動プラザで審査会が行われ入選作品、優秀作品が選ばれました。
審査会の模様を寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
NPO法人ゆい思い出工房ではこのほど「第2回絆100公募展Webフォトコンテスト」を実施しました。2018年に開催した第一回目では全国各地から471点(198名)のたくさんの応募をいただきましたが、今回はそれを大きく上回り519点(251名)という応募で大成功を収めました。「素敵な『人と人との絆』そのイメージは?」というテーマのもと、200字以内のコメントを添えての今回のこのコンテストでは、1人ひとり、思い思いに「絆」をイメージした、見る人の心に響く作品が多く寄せられました。
そして去る2月10日、写真家・三輪薫氏、写真家・林義勝氏、弁護士・岩渕正紀氏、株式会社従心会倶楽部 代表取締役・大谷武彦氏による審査のもと、金・銀・銅・優秀賞をはじめ入選100点が選ばれました。
従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「お正月には箏の音を」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2023年1月×日
お正月には箏の音を聴こう、と思い立って東京都足立区立中央図書館から筝曲のCDを計10枚借りてきた。昔(と言っても私が小中学生から高校時代にかけての昭和30~40年代)の正月には、町の商店街や公民館などの有線放送スピーカーから、必ずと言っていいほど宮城道雄の『春の海』が聞こえてきていた。都会のデパートでも、正月の店内BGMの定番が『春の海』あるいは古曲の『六段』だったと記憶している。
宮城道雄(1894~1956)は8歳の頃から視覚障害となり、10代後半には全盲となったが、幼くして筝曲を学び、10代半ばには生田流の免許皆伝を受け、弟子を指導するほどにもなっていた。『春の海』は1929年(昭和4年)に彼の作った作品だが、フランスのバイオリン奏者が早くに注目し、ヨーロッパに紹介したため、戦前から箏の名曲として世界的に知られるようになっていた。宮城は長短合わせて100曲を越す作品を作曲しただけでなく、13弦の箏では飽き足らず、17弦、さらに20弦以上も備える新しい箏も開発するほど研究熱心で、壮年以降も大変な活躍が期待されていたが、演奏旅行の途中列車のデッキから転落して死亡するという事故で惜しくも62歳という若さで亡くなった。
彼の筝曲は、ゆったりした流れの中で箏の複雑微妙な響きを豊かに感じさせる典雅なものが多く、聴いていて心が和む。もっと長生きしてくれれば、更に素晴らしい曲をたくさん作ったのではないか、と思われるのが誠に残念だ。
借りたCDで驚いたのは「現代の筝曲」シリーズ5枚組だ。戦後も1970年代以降活躍してきた若い筝曲家の演奏を収録したものだが、伝統的な演奏法に基づいた誠にゆったりとのどかな曲から、驚異的なスピードで弦を弾くアップテンポな曲、また曲の起承転結がドラマチックに展開されるような作品など様々で、箏が既にポップミュージックやジャズ、クラシック音楽などとのコラボレーションも可能なところまで来ていることが実に良く分かった。
参考資料として家内がネット検索して教えてくれた筝曲家、沢井一恵(1941~)のインタビュー記事を聞いて驚いたのは、彼女が武満徹や坂本龍一など現代日本を代表する作曲家の曲を演奏したり、五島みどりのバイオリンと組み合わせたコンサート活動を欧米で何度も行った上、ロシア人作曲家が彼女のために作った箏の曲をNHK交響楽団を背景にして演奏し、更に欧米でも様々なオーケストラと共演してきていることだ。彼女は欧米の大学に箏を寄贈すると同時に、弟子たちをその指導係として一緒に派遣し、各地の大学で邦楽講座を設けて筝曲の良さの普及に大きな貢献をしてきている。
私たちはともすれば「国際的に活躍できる人間づくり」「グローバル人材の育成」などを強調しているが、その実態は未だに英語を学ぶことがその必要十分条件と考える風潮に染まっている。だが本当のグローバル人材とは、こうして日本の伝統文化の良さを理解し、それに誇りを持って海外でそれを分かりやすく伝えることができる人間だということを、こうした筝曲家の努力の跡から窺い知ることができるだろう。
それにしても、私自身これまで毎年1月には国立小劇場で開催される邦楽公演を聴きに行っていたのだが、この3年ほどはコロナと失明とが重なってそれも果たせなくなっていた。だが、この正月はそうした「邦楽」の良さをCDで再確認することができ、まさに「こいつは春から縁起がいいわえ」の心境に浸っている。
(つづく)
2022年12月末日
年末になると樋口一葉の短編『大つごもり』を思い出す。
明治20年頃、貧しい境遇の娘(18歳)が、商家に住み込みで下女として働いているが、年の暮れに伯父夫婦を訪ねたところ、幼い従弟の少年(8歳)を含めて親子3人が青白い顔をしてふさぎ込んでいる。聞けば、「あちこちに借金があって、とても年の瀬を越せそうにない」と言う。最低幾ら必要かと聞くと、2円(今ならザっと4万円)あれば何とか正月を迎えられそうだという。娘は「お給金の前借りをご主人に頼んで何とかするから、大晦日のお昼ごろ取りに来て」と約束する。だが店の奥さんは相手にしない。そこへ従弟がお金を受け取りに来たため切羽詰まって、娘は店の手文庫から1円札を2枚抜き取って、急いで少年に渡して帰らせる。その夜、意外な結末で娘の盗みは露見せずに済んだが、娘も伯父一家も新年には何の光明も見えない――。
一葉の作品の登場人物の殆どは、こうした薄幸の少年少女たち。それを江戸戯作文と漢文混じりのキビキビとした文体で、簡潔に活写している。
代表作『たけくらべ』も、浅草裏の下町に住む少年達が喧嘩ばかりしているのを宥めていた美登利(14歳)が、遊郭に身売りする話が中心となる。更に『にごりえ』では、遊女と客の心中事件が取り上げられている。
一葉は明治5年に生まれて29年に没した。父は甲州の農家の出だが、田畑を売った金で八丁堀同心の株を買い、士族の末端に連なった。これで出世すると期待したのも束の間、明治維新で平民となり全財産を新しい商業組合づくりに注ぎ込んだが、失敗して無一文となった。失意のうちに亡くなり、17歳の一葉が母と幼い妹を抱えて家長となり、やり繰りしなくてはならない立場に立たされた。知り合いの間を駆け回って借金の申し込みをしたが軒並み断られ、僅かに3人が金を出してもいいと言ってくれたが、全て「身体と交換条件だ」「わしの囲い者になれ」ということを持ち出され、真っ青になって逃げ帰ってきた。そうした体験を基に、23歳から25歳までの約2年間に優れた作品10篇を書き綴ったわけだ。それを偶然目にした森鴎外、幸田露伴が激賞して原稿の執筆依頼が少しずつ舞い込むようになった。だが時既に遅し。栄養失調と過労に肺病を患ってほぼ寝たきりとなり、鴎外が医者を手配して診察させたが診断結果は「もはや手遅れ、打つ手なし」とのことで、その数日後には咳き込みながら息を引き取った。葬儀も出す金もないため、位牌に焼香に現れたのは近所の人達11人だけだったという。何とも悲惨な短い人生ではあった。
井上ひさしの戯曲に『頭痛肩こり樋口一葉』がある。生活苦から10代で頭痛肩こりに悩まされた一葉の生活ぶりを描いた優れた作品で、再演を繰り返している。私は異なる配役でその舞台を3回観たが、そのうちCMガールからテレビタレントで人気だった宮崎美子が一葉を演じた時には「ミスキャストではないか」と思った。宮崎が天性のネアカ女性で、テレビでは常に明るく笑顔を振りまいている人で、一葉を演じるには無理があると思ったからだ。そしてその舞台は予想通り、宮崎一葉が常に笑顔を絶やさず母と妹を励まし、近所の人にも明るく振る舞っていて、場面が暗転する瞬間にフッと深刻に悩む表情になるということで通していた。それを観終わって、これは実は非常な適役ではないか、と考え直した。
井上の小説、戯曲は常に「難しいことを易しく、暗い話を明るく、辛いことを楽しく」をモットーにした作品作りをこころがけている。どの作品も読みながら、あるいは観客として舞台を観ながら大いに笑わせ、見終わった後いろいろと考えさせるということで一貫している。
五千円札に載っている一葉の顔を見ると、髪に櫛一つなくまた地味な着物を着て、その目は1~2メートル先を力も入れず見ているが、口はしっかりと真一文字に引き締めて芯の強さを感じさせる。とても20代前半の若い女性ではなく、かなり苦労した中年女性の表情としか思えない。その短い生涯を辿ってみると、将来に明るい展望を持てないまま、明日、明後日の生活をどうしようかと一人で悩みを内に抱え込んで黙っている静かな女性という印象が強い。それは恐らく明治時代の女性に多いタイプなのであろうし、決して彼女が例外的に一人苦しんでいた、ということではないだろう。現に彼女の小説のモデルになった娘たちの殆どは、彼女と全く同じ境遇であり、彼女自身も一歩違えば自分の小説で描いた女性たちと同じ運命を辿ることになったことは間違いないだろうから。
一葉の文机の横には、書きかけの原稿やメモ類が大量に残され、4000首を越える和歌が残されていた。その和歌を辿ることで彼女の心の襞がより詳しく分かるのではないかと思うが、今の私にはそれは調べることもできない。
ただ、彼女の心情を推し量れば、頼みにできる人も居ないまま、たった一人でひたすら自分を励ましつつ、必死の思いで書き続けた健気さが鮮明に浮かび上がる。
私たちの生活を振り返ってみても、一年間に辛いこと、嫌なことは山ほどある。それを井上の描く一葉のように「明るく楽しく笑い飛ばす」ことで苦境を乗り越えるのが、しなやかで、逞しい「生きる術」だろう。新年もそう思って生きていきたい。
(つづく)