風狂盲人日記 ⑬ 樋口一葉讃

2022年12月末日

 年末になると樋口一葉の短編『大つごもり』を思い出す。

 明治20年頃、貧しい境遇の娘(18歳)が、商家に住み込みで下女として働いているが、年の暮れに伯父夫婦を訪ねたところ、幼い従弟の少年(8歳)を含めて親子3人が青白い顔をしてふさぎ込んでいる。聞けば、「あちこちに借金があって、とても年の瀬を越せそうにない」と言う。最低幾ら必要かと聞くと、2円(今ならザっと4万円)あれば何とか正月を迎えられそうだという。娘は「お給金の前借りをご主人に頼んで何とかするから、大晦日のお昼ごろ取りに来て」と約束する。だが店の奥さんは相手にしない。そこへ従弟がお金を受け取りに来たため切羽詰まって、娘は店の手文庫から1円札を2枚抜き取って、急いで少年に渡して帰らせる。その夜、意外な結末で娘の盗みは露見せずに済んだが、娘も伯父一家も新年には何の光明も見えない――。

 一葉の作品の登場人物の殆どは、こうした薄幸の少年少女たち。それを江戸戯作文と漢文混じりのキビキビとした文体で、簡潔に活写している。
 代表作『たけくらべ』も、浅草裏の下町に住む少年達が喧嘩ばかりしているのを宥めていた美登利(14歳)が、遊郭に身売りする話が中心となる。更に『にごりえ』では、遊女と客の心中事件が取り上げられている。

 一葉は明治5年に生まれて29年に没した。父は甲州の農家の出だが、田畑を売った金で八丁堀同心の株を買い、士族の末端に連なった。これで出世すると期待したのも束の間、明治維新で平民となり全財産を新しい商業組合づくりに注ぎ込んだが、失敗して無一文となった。失意のうちに亡くなり、17歳の一葉が母と幼い妹を抱えて家長となり、やり繰りしなくてはならない立場に立たされた。知り合いの間を駆け回って借金の申し込みをしたが軒並み断られ、僅かに3人が金を出してもいいと言ってくれたが、全て「身体と交換条件だ」「わしの囲い者になれ」ということを持ち出され、真っ青になって逃げ帰ってきた。そうした体験を基に、23歳から25歳までの約2年間に優れた作品10篇を書き綴ったわけだ。それを偶然目にした森鴎外、幸田露伴が激賞して原稿の執筆依頼が少しずつ舞い込むようになった。だが時既に遅し。栄養失調と過労に肺病を患ってほぼ寝たきりとなり、鴎外が医者を手配して診察させたが診断結果は「もはや手遅れ、打つ手なし」とのことで、その数日後には咳き込みながら息を引き取った。葬儀も出す金もないため、位牌に焼香に現れたのは近所の人達11人だけだったという。何とも悲惨な短い人生ではあった。

 井上ひさしの戯曲に『頭痛肩こり樋口一葉』がある。生活苦から10代で頭痛肩こりに悩まされた一葉の生活ぶりを描いた優れた作品で、再演を繰り返している。私は異なる配役でその舞台を3回観たが、そのうちCMガールからテレビタレントで人気だった宮崎美子が一葉を演じた時には「ミスキャストではないか」と思った。宮崎が天性のネアカ女性で、テレビでは常に明るく笑顔を振りまいている人で、一葉を演じるには無理があると思ったからだ。そしてその舞台は予想通り、宮崎一葉が常に笑顔を絶やさず母と妹を励まし、近所の人にも明るく振る舞っていて、場面が暗転する瞬間にフッと深刻に悩む表情になるということで通していた。それを観終わって、これは実は非常な適役ではないか、と考え直した。

 井上の小説、戯曲は常に「難しいことを易しく、暗い話を明るく、辛いことを楽しく」をモットーにした作品作りをこころがけている。どの作品も読みながら、あるいは観客として舞台を観ながら大いに笑わせ、見終わった後いろいろと考えさせるということで一貫している。

 五千円札に載っている一葉の顔を見ると、髪に櫛一つなくまた地味な着物を着て、その目は1~2メートル先を力も入れず見ているが、口はしっかりと真一文字に引き締めて芯の強さを感じさせる。とても20代前半の若い女性ではなく、かなり苦労した中年女性の表情としか思えない。その短い生涯を辿ってみると、将来に明るい展望を持てないまま、明日、明後日の生活をどうしようかと一人で悩みを内に抱え込んで黙っている静かな女性という印象が強い。それは恐らく明治時代の女性に多いタイプなのであろうし、決して彼女が例外的に一人苦しんでいた、ということではないだろう。現に彼女の小説のモデルになった娘たちの殆どは、彼女と全く同じ境遇であり、彼女自身も一歩違えば自分の小説で描いた女性たちと同じ運命を辿ることになったことは間違いないだろうから。

 一葉の文机の横には、書きかけの原稿やメモ類が大量に残され、4000首を越える和歌が残されていた。その和歌を辿ることで彼女の心の襞がより詳しく分かるのではないかと思うが、今の私にはそれは調べることもできない。
 ただ、彼女の心情を推し量れば、頼みにできる人も居ないまま、たった一人でひたすら自分を励ましつつ、必死の思いで書き続けた健気さが鮮明に浮かび上がる。

 私たちの生活を振り返ってみても、一年間に辛いこと、嫌なことは山ほどある。それを井上の描く一葉のように「明るく楽しく笑い飛ばす」ことで苦境を乗り越えるのが、しなやかで、逞しい「生きる術」だろう。新年もそう思って生きていきたい。

(つづく)