風狂盲人日記 ㉑ 再会を祝う

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「再会を祝う 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年7月26日

 今月は楽しい会合が二つあった。一つは東京外大英米語科の同級生の集まり。卒業以来数年おきにクラス会を開いていたが、コロナと私の失明が重なって暫く途絶えていた。静岡県沼津市内で寺の住職をしている男が久しぶりに上京するという機会を捉えて5年ぶりのクラス会となった。集まったのは8人。全員が70代半ばで、体のあちこちにガタが来て病院通いをしていると言うが、皆明るく元気で、それぞれ第二、第三の人生を、ボランティアで地域活動に取り組んだり、長年培った経験を生かして時々仕事をしている、あるいはボーリングなどのスポーツで汗を流しているという近況を楽しく語っていた。都合で欠席した二人とは事前に電話で近況を聞いたら、それぞれ、病弱な子供の介護や親の遺産の整理などで忙しくしているとのことだった。

中嶋峰雄先生(1936-2013)

 もう一つの会合は大学時代のゼミのOB、OGの集まりで、これまで長い間私が事実上の万年幹事をやっていたのだが、今回丸4年ぶりに再開できた。こちらは平日の昼間池袋駅近くのレストランに10人集まって楽しい昼食会が催された。

恩師の中嶋嶺雄先生(1936-2013)の東京外語大での国際関係論ゼミは、学内でも人気のゼミだったが、特に1969年から先生が学長に就任する1995年まで30年近くにわたって指導したゼミ生270人のうち、卒業後も毎年正月2日に先生の自宅で催す新年会には、数十人が集まって半日賑やかに歓談していた。このゼミの最大の特徴は、ゼミ誌(『歴史と未来』)をほぼ毎年、計28号まで活版印刷で出版し、大学の売店でも販売していたことで、私は創刊号の編集委員を務めて以来、最終号までエッセイや評論を10回以上寄稿し、最多出場を記録していた。

 先生が2013年2月14日に国際教養大学長在職中に急死した時には、ゼミOB十数人が集まって急遽追悼集を出すことを決めてゼミの一斉メールで呼びかけると、40数人が寄稿してくれて、わずか2ヶ月で出版できた。

その年5月に、先生の故郷・長野県松本市で松本深志高校同窓会と才能教育研究会の合同主催による「偲ぶ会」(約250人が参列)で配布した。先生はこの二つの団体の会長も長く務めていて、バイオリンの鈴木メソッドを学んだ一期生として終生バイオリンを手元から離さず、才能教育研の発表会がサントリーホールや武道館で開催された時には、そのリーダー役を務めていた。更に追悼集は、6月に東京・ホテルオークラで中嶋ゼミ主催で開催された「偲ぶ会」(約800人が参列)でも配布された。

 先生の業績を検証するため、没後間もなく著作選集全8巻を出すことを決め、出版してくれる所を探したがなかなか見つからず、最後に漸く桜美林大学の付属機関、東アジア研究所が引き受けてくれ、無事8巻を刊行できた。私はその編集責任者として、企画立案から選集で取り上げるべき論考全てをチェックし、8人の解説者をゼミ生で分担し、その解説文を編集委員会内部で何度も読み、書き直す作業を続け、内容的にも相当優れたものができたと自負している。選集の発行は2016年から2017年にかけて。それが終わるとすぐに、私が中嶋嶺雄研究会を3年の期限付きで立ち上げ、半年に1回のペースで、大学改革や国際関係、日中関係、地域研究など、テーマ別に公開シンポジウムを開催し、そのうち「大学教育革命」「日本外交への提言」は、ソフトカバーの冊子として出版もできた。

 そうした活動をすべて終えて、2020年春にゼミの会の総会を予定したのだが、コロナでできなくなり、翌年には私が失明して活動が大幅に制限されてしまって現在に至っていた。こうした経緯があったから、余計、今回集まってくれたゼミの後輩たちの元気な声を聞くことができたのは、何よりも嬉しかったし、私より20年以上も若い現役の人たちも忙しい合間を縫って来てくれたことに心から感謝した。このゼミの先輩後輩の集まりもまた、世代を越えて、私自身色んな業種で活躍している人たちから学ぶことも多く、これからも引き続き機会を捉えて集まろう、ということで皆さんの賛同を得た。

 仕事などの利害関係ではなく、お互いに気心の知れた仲間たちという関係で気楽に話し合える人たちを持っていることは幸せなことだ。孔子が紀元前450年頃に語った「友あり、遠方より来たる。また楽しからず乎」(『論語』)は、永遠の真理だな、としみじみと感じさせられた。

(つづく)