お知らせ」カテゴリーアーカイブ

風狂盲人日記 ㉔ 日本の古典芸能の魅力

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本の古典芸能の魅力 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年10月31日

 木曜の朝、東京の社外勉強会「丸の内朝飯会」でZoomで講演した。演題は、主催者の注文に従って「古典芸能の魅力」とした。午前7時半から1時間講演し、その後30分質疑応答という形式だ。私が年来、歌舞伎・文楽は日本文化の粋、と語っているのを知って、主催者が依頼してきたものだ。別に歌舞伎の専門家、研究者でもないが、1990年秋にロサンゼルス特派員の任を終えて帰国して以来、丸30年間歌舞伎座の毎月の昼・夜の演目、国立劇場の文楽公演は全て観てきた。我が書斎には、その関係の全集や芸談、評論、専門雑誌類などが、段ボール箱に詰めたら50箱以上にのぼっていた。と言って、単なる印象批評をしてもあまり意味がないと思われたので、何故歌舞伎・文楽が日本を代表する優れた伝統文化なのかということを、歴史的に素描しながら、その魅力を語ることを試みた。

 最初に強調したのは、文化の基盤をなす日本語の抑揚とリズムが、大和朝廷から奈良時代にかけて定着したことだ。それも、万葉集、古事記、日本書紀に見られるように、五七調(あるいは七五調)の短詩形の連続で自分の心情を表現するようになった。その抑揚、リズムが鎌倉期の平家物語、室町時代の太平記という語り物を通して、日本人の仏教をベースにした宗教観、生活倫理、死生観を広く浸透させることになった。

 日本人の生活様式や伝統文化の特徴が固まったのは室町時代から。まず観阿弥、世阿弥の親子が中心となって謡曲が生まれ、それを能舞台で演じる演劇集団が誕生した。その謡曲が江戸時代に入って歌舞音曲の多様化を促した。まず京都で出雲阿国一座が四条河原で公演をし、それが歌舞伎の原点となって、京、大阪、江戸と17~18世紀に一気に日本固有の芸能として発展していく。その芸能の特徴として、次の点が挙げられる。

  • 音曲部門で能の笛、鼓、太鼓から三味線が急激に普及し、その演奏家たちが家元制度によって技術の伝承と普及を進めた。
  • セリフ術を中心とする舞台上の演技もまた、親から子へ伝承される「お家芸」で伝えられ、その家元制度によって世代交代が次々に行われるという、世界でも数少ない芸能文化の普及形態が進んだ。
  • 本来武士階級を対象にした謡曲が、人口の9割以上を占める農民・商人に普及するにあたって、語りが浄瑠璃(義太夫(太棹)、清元・常磐津(中棹))、長唄(細棹)と三味線も多様化し、音色が一段と豊かになり、その語り手、唄い手たちもほぼ全て家の芸を継ぐ形が厳密に守られた。
  • 伝統芸能のほとんどは以上のように、それぞれの流派の型(形式)をしっかり守る形で広がり、それが役者であればセリフや見得、動きなどすべてに渡って型どおりに行うことがプロとしての技量を測るバロメーターとされた。

こうした型を生み出し定着させていくことが、それぞれの「お家芸」の伝承として最も重んじられる点に、日本文化の最大の特徴がある。江戸では市川團十郎(成田屋)、尾上菊五郎(音羽屋)、関西では片岡仁左衛門(松嶋屋)、中村鴈治郎(成駒屋)という、それぞれ名優を祖とする一門が活躍し、今日に至っている。

更に、江戸時代には座付き作者が次々に登場。大阪では近松門左衛門、江戸では幕末から明治にかけて鶴屋南北や河竹黙阿弥が優れた脚本を提供し、『白浪五人男』『三人吉三』などの名セリフと共に庶民の間で広く歓迎された。このうち特に私が注目してきたのは近松の心中物だ。この世で添い遂げられない若い男女が、あの世で幸せになろうと誓い合って死への旅路を歩む「道行(みちゆき)」は、世界の古典芸能、芸術作品などでも殆ど類例のない特殊な「情死の賛美」であり、普段この世の理不尽さ、不幸にじっと耐えている観客たちにカタルシスを与える優れた芸術美だと私は思う。

明治以降、天皇が九代目團十郎、五代目菊五郎の舞台を鑑賞して以来、岡本綺堂、真山青果、谷崎潤一郎ら多数の作家が新作を提供し、歌舞伎の演目を増やし続けて今日に至っている。1960‐70年代の高度成長期には、テレビ・映画の普及で歌舞伎・文楽は古臭いとして客も入らない時代が続いたが、その後古典芸能の魅力に気付いた人たちが新たな観客層となって、歌舞伎座や国立劇場に通い始め、今日では世代交代がどんどん進む中で、新たな役者・芸人たちが着実に育っている。私は3年前に失明してから舞台が全く見えなくなってしまって、劇場通いを断念したのだが、これまで半世紀以上にわたって様々な形で見聞してきた名優たちの舞台などを脳裏にくっきりと思い浮かべることができ、それを折に触れて反芻する形で楽しんでいる。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉓ ああ我が母校、神奈川県立厚木高校

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 ああ我が母校、神奈川県立厚木高校」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年9月29日

 16日(土)の午後、我が母校、神奈川県立厚木高校の設立120周年記念式典が、厚木市内のホテルで開催された。創設が1902年、日露戦争の2年前で、県立第三中学校として発足、戦後の1948年に高校となり、私はその高校第18回生(63年入学)となる。
 相模原市に住む同級生が、わざわざ我が家(足立区内)まで車で迎えに来てくれるということで、ほぼ10年刻みに開催している記念式典に久しぶりに参加した。

 厚木高校は、県中央部の学区内では昔からトップ校で、今日でも学区内を含め周辺の市町村の組長の殆どが厚木高校出身者で占められている。戦前は完全な男子校で、高校になってから女子も入るようになったが、私の学年では女子の数は学年420人中20数人で、その5年後ぐらいから女子が徐々に増え始め、今日では4割を占めるという。

 私は厚木高校時代、2年生の時に英語同好会会長を務めた。たまたま1年の時に厚木基地(厚木にはなくて、大和市と綾瀬市にまたがる)の米軍兵数人と親しくなり、基地内での映画会や野球、フットボールの試合の観戦に招かれたりし、高校生を持つ軍曹を厚木高校に招いて、米国の市民生活や教育事情などについて講演してもらう機会を作った。その時軍曹が気を利かせて、クラス50人分のホットドッグを保温器に詰めて持参し、皆に御馳走してくれたのが予想外のことで、私を含めて初めてホットドッグを食べたという生徒が殆どだった。

 2年の11月から3年11月まで生徒会長だった。それまでの生徒会は60年安保の余燼がくすぶる中で、社会党、共産党系青年組織の影響を受け、政治活動に走りがちだった。そのため一般学生からはかなり遊離した存在だった。それをおかしいと思い、親しい仲間と語らって高校生活を如何に充実させるかということに力点を置いた施策を幾つか手掛ける、全く新しい活動に取り組んだ。特に印象に残っているのが、全教員の協力を仰いで、それぞれの教科の持つ意義を語ってもらい、特に高校時代に読むべき本を何冊か推薦してもらう「読書ガイド」をガリ版印刷で作成し、全校生に配ったことだ。これは特に新入生や2年生には好評で、受験勉強一筋に過ごす高校時代とは違う生き方を考える縁(よすが)にしてもらえたと今でも思っている。

 当時は木造二階建ての校舎で、一階の職員室の上が生徒会室だった。私はそこでほぼ毎日放課後、運動部、文化部の部長たちの苦情や相談を受け、その善後策を役員同士で話し合い、校長始め教職員に交渉することを数えきれないほどやった。そのため、同期生のうち軽く100人以上の顔と名前は今でもよく覚えているし、下級生も数十人は親しく付き合っていた。

 私は戦後の混乱期のベビーブーム世代であり、取り分け父が何度か転職をしたため、小学生時代は、生まれた大分県別府市から静岡県裾野市、茨城県鹿島市などに転居し、小学校は4つ、中学校も3つ行き、幼い頃からの親しい友人というものが殆ど持てないで育った。その点、高校は初めて丸三年間同じ校舎で同じ仲間たちと過ごしたことが取り分け自分にとっても意義深く思い出されるし、高校時代の友だちとは今日に至るまで何人も親しく付き合ってきた。

 振り返ってみれば、高校大学の友人たちというのは、社会に出てからの社内での付き合いや、仕事を通じての付き合いで親しくなった人たちとは異なり、利害関係が殆ど全くない、という点で何年離れていても会えばいつでも名前を呼び捨てにして「俺、お前」の関係で気兼ねなく話せる貴重な仲間たちということになる。そういう高校大学の友人たちに、ある時は支えられ、ある時は励まされ、これまでの社会人生活を歩んできたのだな、ということが良く実感できる。

 記念式典とそれに続く交流パーティーでは参加者が約380人。そのうち我が同期生は30数人と、出席率がかなり高い方で、パーティーの終わった後、ホテルのラウンジで同期会を催したが、全員からやさしく肩を叩かれ握手されて、「目が不自由になってもよく来てくれた」とねぎらいの言葉をかけられたのがとても嬉しかった。

 帰りは、朝から付き合ってくれた同行援護サービス協会のガイドさんに手を引かれて、本厚木駅から約2時間半かけて自宅まで送ってもらった。同期の連中とはまた新年に同期会を開こう、との話がまとまっており、それにも勿論参加することを楽しみにしている。

(つづく)

第18回ゆい歴史散歩「小江戸川越を訪ねる」参加者募集 

城下町として500年の歴史を誇る川越。江戸文化と現代文化が交差する、小江戸川越。
今回のゆい歴史散歩は、NPO法人ゆい思い出工房と株式会社従心会倶楽部の共催で、蔵造りの街並み、川越城本丸御殿などを視察すると伴に、天保3年(1832年)創業の銘店・川越いちのや本店で鰻重の昼食をお楽しみいただきます。
初冬の一日を川越の街並みの散策をお楽しみされては如何ですか。

風狂盲人日記 ㉒ 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年8月31日

 この夏にはもう一つ楽しい集まりがあった。土曜日の午後、東京・日比谷のプレスセンターのレストランを借り切って「日経『私の履歴書』を楽しく読もう会」が開かれた。主催したのは、化学薬品会社重役だった吉田勝昭(まさあき)さんが20年ほど前に始めた「私の履歴書研究会」で、この日はコロナ明けの久しぶりの集まりということで、会員約20数人とその親しい友達に限定して、総勢92人。吉田さんの「私の履歴書」に関わる4冊目の新しい本が出版されるのを祝うパーティーでもあった。

 日経新聞朝刊文化面の「私の履歴書」は1950年代に始まったが、60年代から毎月一人を登場させ、1日に始まって月末に終わる30回の連載で、もう既に800人以上の各界著名人が登場している。

 吉田さんは若い時からこの定期コラムを愛読し、毎月その読後感を詳しく自分のホームページに掲載する一方、登場人物を様々な角度から分析し、それをデータベースとして蓄積している。彼が主催する研究会は、毎月20人近くが集まって、前月の履歴書について、食事をしながらそれぞれの感想を述べ合う社外勉強会で、私も何度かゲスト・スピーカーに招かれて、その議論に参加してきた。

 私は日経新聞記者時代に、1991年5月、初めての外国人としてフルブライト米上院議員を登場させ、それが予想外に好評だったため、90年代半ば以降、年に一人か二人は著名な外国人を取り上げることが、社内の基本方針となった。その社命を受けて、私は2001年10月にジャック・ウェルチ米GE会長、02年10月にルー・ガースナーIBM会長をそれぞれ登場させ、彼らの本社事務所や自宅、別荘などを訪ねて長時間インタビューし、その録音テープを聞きながら30回分の自叙伝にまとめていった。執筆にあたっては英文と日本文を同時に作成し、日本文がコラムの分量の約2割増しになる程度に書き、英文を本人にファックス(後にe-mail )で送って、本人がその文章を訂正してきた場合に日本文も書き改める、という方式を取った。だが実際には、3人とも私の英文を殆ど直さず、「よくできている」「面白い」と評価してくれ、こちらも安心して日本文をコラムの枠内にきっちり収まるように削る作業だけで済んだ。2割増しの英文自体は、日経が始めていたインターネットによる英文情報提供サービスの中に、売り物として本紙の3日後に連載分を発信し、これも読者から好評で、英文ネットサービスの拡張販売に貢献できたと自負している。

 そんな縁もあって、この日のパーティーでは乾杯の音頭を任され、「日経の記事をこれほど熱心に愛読してくれて、その成果を出版に結び付けている例は他に聞いたことがない。私としては勝手に日経の社長に成り代わり、吉田さんたちグループに感謝状なり表彰状なりを送りたい気持ちです」と挨拶した。

 パーティーではゲスト・スピーカーとして、日経の同僚、小牧利寿君が、東南アジアの4人の政治リーダーの履歴書を書いていることから、その内幕話を披露してもらった。マレーシアのマハティール、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルト、フィリピンのラモスで、取材には私の場合とは異なった苦労があったことが窺われた。

 新聞を作る側の率直な感想としては、自分たちの書いた記事を熱心に読んでくれる読者がいるということは、非常に取材の励みにもなるし、また会社全体に活気をもたらすことにも繋がっている。この日の吉田さんたちのパーティーは、そうした思いを改めて実感させるいい機会になった、と小牧君と一緒に喜んだ次第である。

(つづく)

『ハワイ・マウイ島ラハイナの火災に思う』

8月8日、ハワイ・マウイ島・ラハイナで山火事が発生し大きな被害がありましたが、1984~1991年の7年間ハワイに在住し、ラハイナでの事業を担当された元飛島建設株式会社の福田鉄男氏にご寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。

株式会社従心会倶楽部会員
元 飛島建設株式会社

福田 鉄男 氏

 「私はかつて飛島建設に勤務していた頃、1984~1991年の7年間ハワイに駐在していました。
 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの地元財閥の一つであるアムファック社(Amfac Inc.)が所有していたマウイ島西部の最後の砂浜海岸を有する土地の半分の所有権を購入し、アムファック社との合弁でリゾートホテルの開発誘致を推進していくという事業計画でした。
 購入した土地はマウイ島の既存の高級リゾートであるカアナパリ(Kaanapali)の北部隣接地でした。

 そのカアナパリから2~3km手前(マウイ島のメイン空港であるカフルイ空港から行くと)が、今回山火事の延焼で全焼したラハイナ(Lahaina)地区です。
 ラハイナは歴史的にはハワイにおける日本の京都の様なところです。
 19世紀、ハワイがまだカメハメハ王朝の頃、アメリカ大陸の白人が本格的にハワイに移り住む前に捕鯨の町として栄えていて、当時はハワイ王朝の首都だったところです。
捕鯨船の船乗り達の荒くれ者が、酒場で飲んだくれ暴れて収監される監獄跡も有名な観光名所でした。またかつて日系移民がサトウキビ・プランテーションのために入植した所でもありましたので、日系人のための寺院があり境内には 三重塔もありました。
 そんな良き昔の面影を多く残す意味での観光地でした。しかし、この寺院も三重塔も今回の火災で焼失してしまったのです。

 私が勤務していた当時、飛島建設の現地法人であるTobishima USA Incの代表であった 大谷武彦社長など、開発予定地の視察のために社内外のお客様がマウイ島に来られた際は、必ずこのラハイナに立ち寄ったものです。

 私がハワイに滞在していた頃は、このラハイナの街の山側のなだらかな斜面は地元の人の住宅地はあったものの、ほとんどがサトウキビ畑だったと記憶しています。
ところがニュースによると、最近はそのほとんどが雑草地となっていて乾燥しやすい状況となっていたようです。

 ラハイナの火災後の廃墟と言えるほどのニューズ映像の中に、これも歴史的遺物としてラハイナのランドマークでもあった、かつてのサトウキビ加工場(Pioneer Mill Company)の白くて高いコンクリートの丸煙突がポツンと残っている姿が、私にはなんとも印象的でした。
 今は、ただただ早期の復興を祈るのみです。」

ラハイナの街並み
カアナパリリゾト

NPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行

この程、当社と連携しておりますNPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行致しましたのでご紹介させていただきます。
今回は、「2023年定時総会が終了しました。」「株式会社従心会倶楽部との連携強化」、「石岡顧問が90歳を超えて3回目のエイジシュートの偉業!!」などの記事が掲載されております。

大谷代表は、この度の定時総会でNPO法人ゆい思い出工房の監事に就任されました。

風狂盲人日記 ㉑ 再会を祝う

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「再会を祝う 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年7月26日

 今月は楽しい会合が二つあった。一つは東京外大英米語科の同級生の集まり。卒業以来数年おきにクラス会を開いていたが、コロナと私の失明が重なって暫く途絶えていた。静岡県沼津市内で寺の住職をしている男が久しぶりに上京するという機会を捉えて5年ぶりのクラス会となった。集まったのは8人。全員が70代半ばで、体のあちこちにガタが来て病院通いをしていると言うが、皆明るく元気で、それぞれ第二、第三の人生を、ボランティアで地域活動に取り組んだり、長年培った経験を生かして時々仕事をしている、あるいはボーリングなどのスポーツで汗を流しているという近況を楽しく語っていた。都合で欠席した二人とは事前に電話で近況を聞いたら、それぞれ、病弱な子供の介護や親の遺産の整理などで忙しくしているとのことだった。

中嶋峰雄先生(1936-2013)

 もう一つの会合は大学時代のゼミのOB、OGの集まりで、これまで長い間私が事実上の万年幹事をやっていたのだが、今回丸4年ぶりに再開できた。こちらは平日の昼間池袋駅近くのレストランに10人集まって楽しい昼食会が催された。

恩師の中嶋嶺雄先生(1936-2013)の東京外語大での国際関係論ゼミは、学内でも人気のゼミだったが、特に1969年から先生が学長に就任する1995年まで30年近くにわたって指導したゼミ生270人のうち、卒業後も毎年正月2日に先生の自宅で催す新年会には、数十人が集まって半日賑やかに歓談していた。このゼミの最大の特徴は、ゼミ誌(『歴史と未来』)をほぼ毎年、計28号まで活版印刷で出版し、大学の売店でも販売していたことで、私は創刊号の編集委員を務めて以来、最終号までエッセイや評論を10回以上寄稿し、最多出場を記録していた。

 先生が2013年2月14日に国際教養大学長在職中に急死した時には、ゼミOB十数人が集まって急遽追悼集を出すことを決めてゼミの一斉メールで呼びかけると、40数人が寄稿してくれて、わずか2ヶ月で出版できた。

その年5月に、先生の故郷・長野県松本市で松本深志高校同窓会と才能教育研究会の合同主催による「偲ぶ会」(約250人が参列)で配布した。先生はこの二つの団体の会長も長く務めていて、バイオリンの鈴木メソッドを学んだ一期生として終生バイオリンを手元から離さず、才能教育研の発表会がサントリーホールや武道館で開催された時には、そのリーダー役を務めていた。更に追悼集は、6月に東京・ホテルオークラで中嶋ゼミ主催で開催された「偲ぶ会」(約800人が参列)でも配布された。

 先生の業績を検証するため、没後間もなく著作選集全8巻を出すことを決め、出版してくれる所を探したがなかなか見つからず、最後に漸く桜美林大学の付属機関、東アジア研究所が引き受けてくれ、無事8巻を刊行できた。私はその編集責任者として、企画立案から選集で取り上げるべき論考全てをチェックし、8人の解説者をゼミ生で分担し、その解説文を編集委員会内部で何度も読み、書き直す作業を続け、内容的にも相当優れたものができたと自負している。選集の発行は2016年から2017年にかけて。それが終わるとすぐに、私が中嶋嶺雄研究会を3年の期限付きで立ち上げ、半年に1回のペースで、大学改革や国際関係、日中関係、地域研究など、テーマ別に公開シンポジウムを開催し、そのうち「大学教育革命」「日本外交への提言」は、ソフトカバーの冊子として出版もできた。

 そうした活動をすべて終えて、2020年春にゼミの会の総会を予定したのだが、コロナでできなくなり、翌年には私が失明して活動が大幅に制限されてしまって現在に至っていた。こうした経緯があったから、余計、今回集まってくれたゼミの後輩たちの元気な声を聞くことができたのは、何よりも嬉しかったし、私より20年以上も若い現役の人たちも忙しい合間を縫って来てくれたことに心から感謝した。このゼミの先輩後輩の集まりもまた、世代を越えて、私自身色んな業種で活躍している人たちから学ぶことも多く、これからも引き続き機会を捉えて集まろう、ということで皆さんの賛同を得た。

 仕事などの利害関係ではなく、お互いに気心の知れた仲間たちという関係で気楽に話し合える人たちを持っていることは幸せなことだ。孔子が紀元前450年頃に語った「友あり、遠方より来たる。また楽しからず乎」(『論語』)は、永遠の真理だな、としみじみと感じさせられた。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑳ 日本語教育の大転換

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本語教育の大転換 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年7月5日

 日本語教育の世界が大きく変わろうとしている。今春新しくできた法律で、来年4月以降日本語教師に資格認定制度が導入され、日本語学校も公的機関から認定されることが決まった。日本語教師、日本語学校はこれまで事実上の無法状態にあり、誰でも自由に教師になり学校を作ることができていた。そこに国の法律の網が被せられる訳で、教師、学校共に資格審査が厳しくなる。そのこと自体は総論として、今後の日本が「多文化共生社会」に向けて体制を整える上で極めて重要であり、望ましいことなのだが、具体的な内容がまだ不明であり、日本語教育の現場にかなり不安を拡げつつあることは確かだ。

 日本政府は明治以来つい最近まで、「政府が行うのは日本国民に対する施策であり、外国人に対する政策は政府の関知するところではない」との立場を堅持していた。そこで文部省も「日本国民でない外国人に教育をすることは文部行政の埒外(らちがい)である」と断じて憚らなかった。

 それが、1980年代の中曽根内閣の「留学生受け入れ10万人計画」が政治的判断で打ち出された結果、政府としても対応を迫られたのだが、日本語教育そのものについての検討は殆どなされなかった。私が80年代前半、文部省記者クラブ詰めだった時、同省の幹部らとよく懇談するなかで、外国人に対する日本語教育に文部省は積極的に取り組むべきだと主張したが、全く相手にされなかった。

 そこで89年、日本が経済大国として急成長した中で、中国を始め、東南アジアからの出稼ぎ労働者が日本に殺到し始め、その安直な入国の方法として、日本語学校で学ぶ「留学」を目指した。ところが、そうした外国人の受け入れをする日本語学校の中に、入学金や授業料を取ったまま学校を閉鎖したり、経営者が行方不明になるなどのトラブルが続出し、特に、中国からの留学希望者たちが数週間にわたって上海の日本領事館を取り囲んで抗議するという外交問題にまで発展した(上海事件)。それに慌てた政府は、外務省、文部省、法務省の3省が協議して、応急の善後策を取ることになった。

 しかし法務省は「不良外国人」の入国を波打ち際で止めることに専念しており、外務省は外交問題にさえならなければ教育問題には関知しないという立場だった。そして肝心の文部省は代々の既定方針である「外国人の教育は文部行政ではない」との建前から、日本語学校の審査や日本語教育の内容の検討などについては殆どやる気がなく、日本語教育の話は外局である文化庁の国語課に任せることにした。国語課は当用漢字の制定や送り仮名の是非などを専門家が集まって議論する国語審議会の事務局であり、日本語教育そのものについては事実上殆ど野放しだったと言っていい。

 そうした事情から、日本語学校を巡るトラブルを防止し、日本語教師、日本語学校の質を高めるための新しい機関として、一般財団法人日本語教育振興協会(略称「日振協」)が3省の協力で設立され、この団体が日本語学校を会員として、その会員校の教育内容の審査を引き受けることになった。

その後、21世紀になって政府は国際化時代に対応して、留学生の受け入れ数を一挙に30万人にまで引き上げてきた。

 この間、私は日経新聞記者として、公益財団法人国際日本語普及協会(AJALT)が外国人向けの優れた日本語教科書(Japanese for Busy People)を発刊した70年代にいち早くその社会的意義を評価して、社会面のトップで大きく扱い、その後も日本語教育の世界を継続的にフォローしてきた。記者としての最後の仕事は、2002年に「日本語教育の新世紀」と題する24回の連載を日経紙面で執筆し、日本語学校の実情、日本語教師の実態を詳しく報道することだった。

 AJALTは既に50年以上、来日する外国大使館員、外資系企業、宣教師、学者研究者などに日本語を個人授業することに実績を挙げ、全国各地の自治体が地域に住む外国人を対象に開く日本語講座の指導に当たってきた。そして同時に、東南アジアからの難民に対する日本語研修や、政府が受け入れる海外からの技術研修生の教育指導にも大きな成果を上げてきている。最近ではウクライナからの3000人を超す避難民のうち、日本滞在を希望する約300人に対する日本語教育も担当している。

 私は過去20年AJALTの理事、および日振協の評議委員会議長、評価委員を務め、全国各地の日本語学校の経営状況、教育内容を視察しながら調べ評価していった。その評価の基本姿勢は「こうすればもっと良くなる」という積極的な提言が主であり、学校側の個性豊かな教育内容や、その優れた指導ぶりについては積極的に応援する姿勢を第一にしていた。

 日振協の活動に対して、日本語学校の一部が政治家を巻き込んで「法的根拠がないのに学校を審査するのはけしからん」と主張し、政権を取った民主党が事業仕分けでやはりこの問題を政治的に取り上げて、法的な整備をすべきことを指摘していた。今全国に日本語学校が830校あり、約8万人の留学生を教育している。その大半は日本の大学に留学を希望する人たちなのだが、最近は日本語を学んで仕事を覚えたら本国に戻ってビジネスをしたいという人たちも増えている。日本語学校の7割は株式会社であり、公的機関から教育機関としての審査を受ける学校法人は2割にも満たない。株式会社なので経営が思わしくなければ廃業するという所も少なくなく、それが在校生とのトラブルも生んでいた。

 そうした流れの中で漸く2019年、国会議員全員による議員提案という珍しい形で「日本語教育推進法」が制定され、日本語教師及び日本語学校の認定制度が法律的に整うことになった訳だ。

 先月にはAJALTの総会、日振協の評議委員会があり、どちらにも私はZoomで参加し発言したが、文科省が今後日本語教育に否応なく本格的に取り組まざるを得なくなった場合、この省の最大の特徴として、全国一律公正公平の名のもとに、これまで自由闊達に優れた教育内容で指導を行ってきた日本語学校を一律に枠にはめて、その多彩な個性を摘んでしまう心配があるのではないかということを懸念している。また今、中高年齢者の多くが、増加する在日外国人に対して生活日本語を教える日本語教師になりたいという希望が多いのだが、そこに国家試験の枠をはめることで、むしろ日本語教師になりたいという人たちの意欲を削ぐことになる、あるいは既に日本語教師をしている人たちの間に自分の地位、処遇がどうなるのかという不安が広がっているのも間違いがない。

 文科省・文化庁は今、その認定制度の詳細を固めるため学識経験者を集めて意見を聞いているが、その概要が固まって政府の方針として出てくるのはこの秋から年末だ。その間、AJALTや日振協など優れた団体の意見も十分に取り入れながら、納得のいく方向性を打ち出すように心から願っている。

(つづく)

訃報: 奈良井 満洲雄様、従心会倶楽部シニアアドバイサー

奈良井 満州雄氏
従心会倶楽部 シニアアドバイザー
元飛島建設株式会社 土木部長

奈良井満洲雄(ならい・ますお)氏は予てから療養中のところ6月6日5時25分、老衰の為ご急逝されました。享年88才。
 通夜、告別式につきましては家族葬(近親者のみ)にて6月9日に執り行なわれました。

ここに生前のご厚誼に心より感謝し謹んでお知らせいたします。

ご遺族住所:埼玉県さいたま市西区中針1487-3
      奈良井すづ枝様(御令室)

山田二三雄先生を訪問

5月16日、株式会社従心会倶楽部 顧問でNPO法人 日本カンボジア交流協会 理事長の山田 二三雄先生を都内・湯島の本部を訪問し、今後の事業について意見交換を行いました。

山田先生は、最近フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」を立ち上げ、これまでの幅広いご経験を活かした活動を開始されました。

右から2二人目が山田二三雄先生

フッチーおじさんのなんでも相談室「HOLY MISSION」