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株式会社桜士堂の木村 公一社長が来社

12月20日、従心会倶楽部の会員である京都の株式会社桜士堂 木村公一社長が来社され、同社の事業展開や今後の連携などについて意見交換を行いました。

右から2人目が株式会社桜士堂の木村社長

株式会社桜士堂(おうしどう)
〒605-0862 京都市東山区清水1-276
創業明治20年より清水寺御門前でお店を構え、鞄、巾着、財布、がま口、ポーチ等の袋物をはじめ、髪飾り、装飾アクセサリー、陶器、人形、扇子など、豊富な品揃え

風狂盲人日記 ㉖ 2023年の回顧

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「2023年の回顧 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年12月吉日

 年末に年賀状を書くのを止めて、代わりにその年の極めて私的な回顧文を書くようになってもう10年ほどになる。それを今回は、この盲人日記の一部として書くことにしたい。この日記は2年前全盲になって落ち込んでいた時に、シニア世代のための文化交流団体・従心会の大谷武彦会長から勧められて、月1~2回のペースで書き始めたものだが、幸い従心会ホームページの看板コラムになって好評だと励まされ、今後も暫く続けていくことにしている。

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 振り返ってみればこの1年は、私の人生の中でも最も静かで穏やかだった。70代になってから体のあちこちにガタが来て、脳や頸椎の動脈の手術、眼科のレーザー治療、循環器の検査入院から大腿部の動脈手術など、実に様々な病気で入退院を繰り返し、手術を行い、毎月数回病院通いをしていた。それが今年は、通院も2~3ヶ月に1回定期検診に行く程度で、目下、眼以外の体調は年齢相応か、それよりも若く健康、との診断を受けて一安心している。

 3年前までは、年に2~3回は海外旅行し、国内旅行は毎月2~3回というペースで、北海道から沖縄まで巡っていた。しかし今年は1泊以上の旅は一度も無し。毎日家で朝9時過ぎから夜11時過ぎまで古今東西の文芸作品、評論などの朗読CDを聴いている。ザっと年に250冊以上読んでいる(聴いている)勘定だ。

 今年聴いた作品群で最も印象に残っているのは、シェークスピアの全37作品、シャーロックホームズ・シリーズ全50篇、米作家のヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックの主要作品や、アップダイクのラビット・シリーズ全4作など。加えて日本の作品では、小松左京の『日本アパッチ族』『復活の日』『明日泥棒』『継ぐのは誰か』『日本沈没』、さらに大沢在昌の『新宿鮫』シリーズや、彼の長編作品をしっかり楽しんできた。

 失明以来、社会生活は殆ど無理と考えていたが、昨年国際交流団体IAC(国際芸術家センター)の依頼で、Zoomを使って講演する機会を与えられたのをきっかけに、今年も計4回、英語教育論や古典芸能案内などの講演を行った。

 加えて、グローバル教育研究所(渥美育子理事長)が毎月出しているニュースレターに、「グローバル人材を育成するための方法」について4回連載を書いた。こうした講演のレジメ作りや原稿の執筆には、家内の全面協力が不可欠で、感謝し続けている。

 外からの情報は耳だけが頼りだが、左耳は全く聞こえず、右耳も普通の人の半分ほどまで聴力が下がった。そのため、夏に補聴器を清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した。デンマーク製で実に40万円。1970~80年代は、日本の技術力が世界一を誇ったが、90年代以降の過去30年間、日本は低迷し続け、技術力も国際競争力も首位から滑り落ち、現在世界での競争力総合順位が34 位にまで下がっている(スイスの研究機関IMDの『世界競争力年鑑』 2023年版)。代わって躍進したのがドイツ、オランダ、デンマーク、フィンランド、ノルウェーなど、東欧北欧諸国であり、日本は中国にも韓国にも競争力で劣る地位にまで落ち込んでしまっている。それを象徴するように、時計・補聴器類の精密機械は軒並みヨーロッパ勢に大きく技術水準で水をあけられている、ということが痛いほどよく分かった。

 穏やかな日々の中で最も嬉しいのは、親しい人たちから電話がかかってきたり、また会いに来て色々話をしてくれることだ。今30代で活躍している大学の教え子たちの近況を聞くのは実に楽しいし、彼らの活躍がよく窺えて心が弾む。結婚式に招かれて挨拶したり、社外勉強会、異業種交流会で様々な人から声をかけられるのも、実に嬉しい。そうした体験は、この1年間の盲人日記でも折に触れて書いてきたので、興味ある方は是非従心会のホームページでバックナンバーを検索して頂きたい。

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 年末によく出る歌舞伎の演目に『松浦の太鼓』という芝居がある。元禄15(1702)年12月の夕暮れ、両国橋のたもとで連歌・俳諧の宗匠、宝井其角がみすぼらしい身なりで大掃除用の笹竹を売り歩いている若い男に出会い、それが、自分のところで歌を学んでいる赤穂浪士大高源吾と気付いて、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」の上句を言い、下句を付けるように促す。すると源吾はしばし沈黙した後、「明日待たるる その宝船」と付けた。世の無常観や憐れみを嘆息する下句が付くと想像していた其角は戸惑い、後日14日深夜、親しい松浦侯の屋敷で茶を飲みながら世間話でその話を披露した。すると赤穂藩断絶の幕府の一方的な処分に怒り、赤穂浪士たちに同情していた松浦侯も、その下の句の意味が解せずに首を傾げていると、隣の吉良邸のあたりから山鹿流陣太鼓の音が聞こえてくる。そこで、松浦侯は咄嗟に浪士の討ち入りを直感し、大喜びして助力を申し入れようと勇み立つ、というストーリーで、数年前に亡くなった中村吉右衛門がこの松浦侯を実に気持ちよさそうに演じていた姿を何度も歌舞伎座の舞台で観たことを、年末になると思い出す。

では、其角の句に私なら何と付けるかを考えてみた。案外たやすく出てきたのが、崇徳院の「瀬を早み」の竜田川の本歌取りで、「わかれてもまた会わんとぞ思ふ」でどうだろう。新年も知人・友人たちからの電話や呼びかけを何よりも楽しみにしている、というほどのつもりだ。このコラムの読者の皆さまにも、どうぞ良い新年をお迎えください。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉕ 社外勉強会の移り変わり

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 社外勉強会の移り変わり」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年11月30日

 今月も東京・日比谷で土曜の午後賑やかなイベントがあった。「丸の内朝飯会」の60周年記念パーティーということで、100人以上集まった。私は前月、この会でZoom講演した縁から無料招待されたもので、この伝統ある社外勉強会がどんな歩みをしてきたのかを知りたくて、喜んで参加した。

 この会は、1963年に当時大学を卒業したばかりの仲間数人が集まって、「職場は違ってもこれからも毎週会って議論をし続けよう」ということで始まったという。当時は60年安保の社会的変動が漸く鎮静化してきた時で、大学進学率はまだ同世代の10%にも満たず、いわゆるエリートだった彼らが社会人として様々な仕事に取り組む中で、「戦後復興期を終えた日本がこれからどう進むのか」を模索する時代であった。その中で、大卒者たちは自分の人生の目標と日本社会の将来を重ね合わせて考える縁(よすが)として、社外勉強会、異業種交流会を作り、勉強を続けていったと言える。「丸の内朝飯会」は、まさにそうした社外勉強会の先駆的な役割を果たしたもので、毎週木曜の朝7時半から1時間半、講師の話を聞いたり仲間同士でテーマを決めて議論したりということを続けてきた。その会が60年間で2800回以上になるというのは、驚嘆に値する。

 私自身の社会生活を振り返ってみても、1972年に日本経済新聞社に入社し、社会部記者として走り回っていた時、社会部長から、デスク、キャップ、私の3人で新規プロジェクトを考えるよう指示があり、その時の共通認識として70年代半ば以降高度経済成長が急速に進む中で、日本のサラリーマン社会にも大きな社会思想的な変化が起きているのではないか、ということがあった。そこで、キャップと私の二人で手分けし、手掛かりとして当時あちこちに作られていた社外勉強会、異業種交流会を数ヵ所訪ねて、そこに参加する人たちの会社観、職業観、自らの人生観などについて、あれこれと聞いて回った。

 そこで気付いたことは、会社人間の多くが、「寄らば大樹」で定年まで安定した生活が送れる官庁や役所に酷似した一流企業などに勤めることを目標としてきていたのが、それだけでは満たされない思いを強く持つようになり、自分の可能性を更に広げるために会社依存体質を改めようと進んで社外の勉強会、研究会に参加することが多くなってきていることだった。

 こうした社外勉強会は、当初自分の仕事と直接関係のない業種あるいは他分野についての知的好奇心を満たすことから、会社を離れてもやっていけるための専門知識、技能を身に着けることに進み、更に自分の生き方を改めて問い直すために宗教団体の集まりに参加したり、様々なテーマを集団で議論し合うような形式のものにも発展していった。

一方会社側でも、営業部員をまとめて自衛隊に体験入隊させたり、寺に1週間住まわせて座禅させたり写経するなどの試みもあった。私が体験したTM(超越瞑想法)の研修では、一流企業の中堅社員たちが日常業務から離れて全く自由な発想で、世界の動きについてどう考えるか、組織原理のあり方は何が理想なのか、などについてあれこれ話し合ったり、感性を磨くためのトレーニングを行ったりしていた。

 そうしたことを調べながら、同時進行の形で1979 年から日経社会面で「サラリーマン」という長期連載を始めた。一流企業の役員候補とされてきた部課長たちが、その仕事に見切りをつけて全く別業種の会社に転職する様子を描いたり、国立大学を出て一流企業に入った若者が、1~2年以内で「この職場でいけば自分が縛られてしまう」と辞めていく話など、ほとんどが本人の了解を得て実名で小説のようなドキュメンタリー・タッチで描いていった。そのネタの多くは、社外勉強会などを覗いて知り合った人たちからの情報で得たものだった。

 幸いこの連載は大変好評で、連載5年目を迎えたところで菊池寛賞を受賞した。受賞者は「サラリーマン取材班」という名前だが、連載当初から3年間は私がその約三分の一を書いてきた。新聞の連載記事が菊池寛賞の対象になったことは、確か初めてという快挙だったが、それは社会部記者が入念な取材を基にごく普通のサラリーマンを実名で取り上げ、その家庭生活や友人関係などにも深く入り込んで取材し、70年代後半から80年代前半にかけての高度経済成長絶頂期のサラリーマン群像を等身大で描いたことが高く評価されたものだと思っている。

 その後もこうした社外勉強会は全国各地で開催されてきたが、そのほとんどは、中心人物が転勤や転職などで会の運営ができなくなると自然消滅するケースが多く、せいぜい3~5年が限度であり、10年以上続くというものは極めて少ないと言える。1990年代以降のバブルが弾けてからの「失われた30年」には、もはや社外勉強会が活発になる機運はあまり見られない。理由は、社外の人脈作りはFacebookやLINEなどSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の急速な普及によって代替されるようになってきたことが挙げられる。また、潰れることがないと思われていた一流企業や銀行などが次々に倒産やM&A(買収・合併)などで変わる中で、会社人間のあり方も、自分の身を守ることが最優先されて、のんびり社外の人脈づくりを楽しむ余裕も無くなってきたとも言える。また、過去3年のコロナ禍の結果、外での会食・会合ができにくくなり、在宅勤務が増えた結果、有能な人間は在宅中に会社の仕事は一日数時間で片付け、そこから更に他の仕事もできるようになる、という二足、三足の草鞋を履くことが可能になってきている。そこで、これまで官庁同様ほとんどの企業が「副業の禁止」を謳ってきたなかで、本業はどこかの会社の社員であっても、アルバイトあるいはボランティアの名目で他の仕事も自由にできる余地が出てきている。その意味で、個人の能力次第でこれまでの「単属」人間から「複属」人間への変容が、今静かに、しかし急速に進行しつつあるのではないか、ということを最近感じている。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉔ 日本の古典芸能の魅力

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本の古典芸能の魅力 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年10月31日

 木曜の朝、東京の社外勉強会「丸の内朝飯会」でZoomで講演した。演題は、主催者の注文に従って「古典芸能の魅力」とした。午前7時半から1時間講演し、その後30分質疑応答という形式だ。私が年来、歌舞伎・文楽は日本文化の粋、と語っているのを知って、主催者が依頼してきたものだ。別に歌舞伎の専門家、研究者でもないが、1990年秋にロサンゼルス特派員の任を終えて帰国して以来、丸30年間歌舞伎座の毎月の昼・夜の演目、国立劇場の文楽公演は全て観てきた。我が書斎には、その関係の全集や芸談、評論、専門雑誌類などが、段ボール箱に詰めたら50箱以上にのぼっていた。と言って、単なる印象批評をしてもあまり意味がないと思われたので、何故歌舞伎・文楽が日本を代表する優れた伝統文化なのかということを、歴史的に素描しながら、その魅力を語ることを試みた。

 最初に強調したのは、文化の基盤をなす日本語の抑揚とリズムが、大和朝廷から奈良時代にかけて定着したことだ。それも、万葉集、古事記、日本書紀に見られるように、五七調(あるいは七五調)の短詩形の連続で自分の心情を表現するようになった。その抑揚、リズムが鎌倉期の平家物語、室町時代の太平記という語り物を通して、日本人の仏教をベースにした宗教観、生活倫理、死生観を広く浸透させることになった。

 日本人の生活様式や伝統文化の特徴が固まったのは室町時代から。まず観阿弥、世阿弥の親子が中心となって謡曲が生まれ、それを能舞台で演じる演劇集団が誕生した。その謡曲が江戸時代に入って歌舞音曲の多様化を促した。まず京都で出雲阿国一座が四条河原で公演をし、それが歌舞伎の原点となって、京、大阪、江戸と17~18世紀に一気に日本固有の芸能として発展していく。その芸能の特徴として、次の点が挙げられる。

  • 音曲部門で能の笛、鼓、太鼓から三味線が急激に普及し、その演奏家たちが家元制度によって技術の伝承と普及を進めた。
  • セリフ術を中心とする舞台上の演技もまた、親から子へ伝承される「お家芸」で伝えられ、その家元制度によって世代交代が次々に行われるという、世界でも数少ない芸能文化の普及形態が進んだ。
  • 本来武士階級を対象にした謡曲が、人口の9割以上を占める農民・商人に普及するにあたって、語りが浄瑠璃(義太夫(太棹)、清元・常磐津(中棹))、長唄(細棹)と三味線も多様化し、音色が一段と豊かになり、その語り手、唄い手たちもほぼ全て家の芸を継ぐ形が厳密に守られた。
  • 伝統芸能のほとんどは以上のように、それぞれの流派の型(形式)をしっかり守る形で広がり、それが役者であればセリフや見得、動きなどすべてに渡って型どおりに行うことがプロとしての技量を測るバロメーターとされた。

こうした型を生み出し定着させていくことが、それぞれの「お家芸」の伝承として最も重んじられる点に、日本文化の最大の特徴がある。江戸では市川團十郎(成田屋)、尾上菊五郎(音羽屋)、関西では片岡仁左衛門(松嶋屋)、中村鴈治郎(成駒屋)という、それぞれ名優を祖とする一門が活躍し、今日に至っている。

更に、江戸時代には座付き作者が次々に登場。大阪では近松門左衛門、江戸では幕末から明治にかけて鶴屋南北や河竹黙阿弥が優れた脚本を提供し、『白浪五人男』『三人吉三』などの名セリフと共に庶民の間で広く歓迎された。このうち特に私が注目してきたのは近松の心中物だ。この世で添い遂げられない若い男女が、あの世で幸せになろうと誓い合って死への旅路を歩む「道行(みちゆき)」は、世界の古典芸能、芸術作品などでも殆ど類例のない特殊な「情死の賛美」であり、普段この世の理不尽さ、不幸にじっと耐えている観客たちにカタルシスを与える優れた芸術美だと私は思う。

明治以降、天皇が九代目團十郎、五代目菊五郎の舞台を鑑賞して以来、岡本綺堂、真山青果、谷崎潤一郎ら多数の作家が新作を提供し、歌舞伎の演目を増やし続けて今日に至っている。1960‐70年代の高度成長期には、テレビ・映画の普及で歌舞伎・文楽は古臭いとして客も入らない時代が続いたが、その後古典芸能の魅力に気付いた人たちが新たな観客層となって、歌舞伎座や国立劇場に通い始め、今日では世代交代がどんどん進む中で、新たな役者・芸人たちが着実に育っている。私は3年前に失明してから舞台が全く見えなくなってしまって、劇場通いを断念したのだが、これまで半世紀以上にわたって様々な形で見聞してきた名優たちの舞台などを脳裏にくっきりと思い浮かべることができ、それを折に触れて反芻する形で楽しんでいる。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉓ ああ我が母校、神奈川県立厚木高校

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 ああ我が母校、神奈川県立厚木高校」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年9月29日

 16日(土)の午後、我が母校、神奈川県立厚木高校の設立120周年記念式典が、厚木市内のホテルで開催された。創設が1902年、日露戦争の2年前で、県立第三中学校として発足、戦後の1948年に高校となり、私はその高校第18回生(63年入学)となる。
 相模原市に住む同級生が、わざわざ我が家(足立区内)まで車で迎えに来てくれるということで、ほぼ10年刻みに開催している記念式典に久しぶりに参加した。

 厚木高校は、県中央部の学区内では昔からトップ校で、今日でも学区内を含め周辺の市町村の組長の殆どが厚木高校出身者で占められている。戦前は完全な男子校で、高校になってから女子も入るようになったが、私の学年では女子の数は学年420人中20数人で、その5年後ぐらいから女子が徐々に増え始め、今日では4割を占めるという。

 私は厚木高校時代、2年生の時に英語同好会会長を務めた。たまたま1年の時に厚木基地(厚木にはなくて、大和市と綾瀬市にまたがる)の米軍兵数人と親しくなり、基地内での映画会や野球、フットボールの試合の観戦に招かれたりし、高校生を持つ軍曹を厚木高校に招いて、米国の市民生活や教育事情などについて講演してもらう機会を作った。その時軍曹が気を利かせて、クラス50人分のホットドッグを保温器に詰めて持参し、皆に御馳走してくれたのが予想外のことで、私を含めて初めてホットドッグを食べたという生徒が殆どだった。

 2年の11月から3年11月まで生徒会長だった。それまでの生徒会は60年安保の余燼がくすぶる中で、社会党、共産党系青年組織の影響を受け、政治活動に走りがちだった。そのため一般学生からはかなり遊離した存在だった。それをおかしいと思い、親しい仲間と語らって高校生活を如何に充実させるかということに力点を置いた施策を幾つか手掛ける、全く新しい活動に取り組んだ。特に印象に残っているのが、全教員の協力を仰いで、それぞれの教科の持つ意義を語ってもらい、特に高校時代に読むべき本を何冊か推薦してもらう「読書ガイド」をガリ版印刷で作成し、全校生に配ったことだ。これは特に新入生や2年生には好評で、受験勉強一筋に過ごす高校時代とは違う生き方を考える縁(よすが)にしてもらえたと今でも思っている。

 当時は木造二階建ての校舎で、一階の職員室の上が生徒会室だった。私はそこでほぼ毎日放課後、運動部、文化部の部長たちの苦情や相談を受け、その善後策を役員同士で話し合い、校長始め教職員に交渉することを数えきれないほどやった。そのため、同期生のうち軽く100人以上の顔と名前は今でもよく覚えているし、下級生も数十人は親しく付き合っていた。

 私は戦後の混乱期のベビーブーム世代であり、取り分け父が何度か転職をしたため、小学生時代は、生まれた大分県別府市から静岡県裾野市、茨城県鹿島市などに転居し、小学校は4つ、中学校も3つ行き、幼い頃からの親しい友人というものが殆ど持てないで育った。その点、高校は初めて丸三年間同じ校舎で同じ仲間たちと過ごしたことが取り分け自分にとっても意義深く思い出されるし、高校時代の友だちとは今日に至るまで何人も親しく付き合ってきた。

 振り返ってみれば、高校大学の友人たちというのは、社会に出てからの社内での付き合いや、仕事を通じての付き合いで親しくなった人たちとは異なり、利害関係が殆ど全くない、という点で何年離れていても会えばいつでも名前を呼び捨てにして「俺、お前」の関係で気兼ねなく話せる貴重な仲間たちということになる。そういう高校大学の友人たちに、ある時は支えられ、ある時は励まされ、これまでの社会人生活を歩んできたのだな、ということが良く実感できる。

 記念式典とそれに続く交流パーティーでは参加者が約380人。そのうち我が同期生は30数人と、出席率がかなり高い方で、パーティーの終わった後、ホテルのラウンジで同期会を催したが、全員からやさしく肩を叩かれ握手されて、「目が不自由になってもよく来てくれた」とねぎらいの言葉をかけられたのがとても嬉しかった。

 帰りは、朝から付き合ってくれた同行援護サービス協会のガイドさんに手を引かれて、本厚木駅から約2時間半かけて自宅まで送ってもらった。同期の連中とはまた新年に同期会を開こう、との話がまとまっており、それにも勿論参加することを楽しみにしている。

(つづく)

第18回ゆい歴史散歩「小江戸川越を訪ねる」参加者募集 

城下町として500年の歴史を誇る川越。江戸文化と現代文化が交差する、小江戸川越。
今回のゆい歴史散歩は、NPO法人ゆい思い出工房と株式会社従心会倶楽部の共催で、蔵造りの街並み、川越城本丸御殿などを視察すると伴に、天保3年(1832年)創業の銘店・川越いちのや本店で鰻重の昼食をお楽しみいただきます。
初冬の一日を川越の街並みの散策をお楽しみされては如何ですか。

風狂盲人日記 ㉒ 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年8月31日

 この夏にはもう一つ楽しい集まりがあった。土曜日の午後、東京・日比谷のプレスセンターのレストランを借り切って「日経『私の履歴書』を楽しく読もう会」が開かれた。主催したのは、化学薬品会社重役だった吉田勝昭(まさあき)さんが20年ほど前に始めた「私の履歴書研究会」で、この日はコロナ明けの久しぶりの集まりということで、会員約20数人とその親しい友達に限定して、総勢92人。吉田さんの「私の履歴書」に関わる4冊目の新しい本が出版されるのを祝うパーティーでもあった。

 日経新聞朝刊文化面の「私の履歴書」は1950年代に始まったが、60年代から毎月一人を登場させ、1日に始まって月末に終わる30回の連載で、もう既に800人以上の各界著名人が登場している。

 吉田さんは若い時からこの定期コラムを愛読し、毎月その読後感を詳しく自分のホームページに掲載する一方、登場人物を様々な角度から分析し、それをデータベースとして蓄積している。彼が主催する研究会は、毎月20人近くが集まって、前月の履歴書について、食事をしながらそれぞれの感想を述べ合う社外勉強会で、私も何度かゲスト・スピーカーに招かれて、その議論に参加してきた。

 私は日経新聞記者時代に、1991年5月、初めての外国人としてフルブライト米上院議員を登場させ、それが予想外に好評だったため、90年代半ば以降、年に一人か二人は著名な外国人を取り上げることが、社内の基本方針となった。その社命を受けて、私は2001年10月にジャック・ウェルチ米GE会長、02年10月にルー・ガースナーIBM会長をそれぞれ登場させ、彼らの本社事務所や自宅、別荘などを訪ねて長時間インタビューし、その録音テープを聞きながら30回分の自叙伝にまとめていった。執筆にあたっては英文と日本文を同時に作成し、日本文がコラムの分量の約2割増しになる程度に書き、英文を本人にファックス(後にe-mail )で送って、本人がその文章を訂正してきた場合に日本文も書き改める、という方式を取った。だが実際には、3人とも私の英文を殆ど直さず、「よくできている」「面白い」と評価してくれ、こちらも安心して日本文をコラムの枠内にきっちり収まるように削る作業だけで済んだ。2割増しの英文自体は、日経が始めていたインターネットによる英文情報提供サービスの中に、売り物として本紙の3日後に連載分を発信し、これも読者から好評で、英文ネットサービスの拡張販売に貢献できたと自負している。

 そんな縁もあって、この日のパーティーでは乾杯の音頭を任され、「日経の記事をこれほど熱心に愛読してくれて、その成果を出版に結び付けている例は他に聞いたことがない。私としては勝手に日経の社長に成り代わり、吉田さんたちグループに感謝状なり表彰状なりを送りたい気持ちです」と挨拶した。

 パーティーではゲスト・スピーカーとして、日経の同僚、小牧利寿君が、東南アジアの4人の政治リーダーの履歴書を書いていることから、その内幕話を披露してもらった。マレーシアのマハティール、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルト、フィリピンのラモスで、取材には私の場合とは異なった苦労があったことが窺われた。

 新聞を作る側の率直な感想としては、自分たちの書いた記事を熱心に読んでくれる読者がいるということは、非常に取材の励みにもなるし、また会社全体に活気をもたらすことにも繋がっている。この日の吉田さんたちのパーティーは、そうした思いを改めて実感させるいい機会になった、と小牧君と一緒に喜んだ次第である。

(つづく)

『ハワイ・マウイ島ラハイナの火災に思う』

8月8日、ハワイ・マウイ島・ラハイナで山火事が発生し大きな被害がありましたが、1984~1991年の7年間ハワイに在住し、ラハイナでの事業を担当された元飛島建設株式会社の福田鉄男氏にご寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。

株式会社従心会倶楽部会員
元 飛島建設株式会社

福田 鉄男 氏

 「私はかつて飛島建設に勤務していた頃、1984~1991年の7年間ハワイに駐在していました。
 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの地元財閥の一つであるアムファック社(Amfac Inc.)が所有していたマウイ島西部の最後の砂浜海岸を有する土地の半分の所有権を購入し、アムファック社との合弁でリゾートホテルの開発誘致を推進していくという事業計画でした。
 購入した土地はマウイ島の既存の高級リゾートであるカアナパリ(Kaanapali)の北部隣接地でした。

 そのカアナパリから2~3km手前(マウイ島のメイン空港であるカフルイ空港から行くと)が、今回山火事の延焼で全焼したラハイナ(Lahaina)地区です。
 ラハイナは歴史的にはハワイにおける日本の京都の様なところです。
 19世紀、ハワイがまだカメハメハ王朝の頃、アメリカ大陸の白人が本格的にハワイに移り住む前に捕鯨の町として栄えていて、当時はハワイ王朝の首都だったところです。
捕鯨船の船乗り達の荒くれ者が、酒場で飲んだくれ暴れて収監される監獄跡も有名な観光名所でした。またかつて日系移民がサトウキビ・プランテーションのために入植した所でもありましたので、日系人のための寺院があり境内には 三重塔もありました。
 そんな良き昔の面影を多く残す意味での観光地でした。しかし、この寺院も三重塔も今回の火災で焼失してしまったのです。

 私が勤務していた当時、飛島建設の現地法人であるTobishima USA Incの代表であった 大谷武彦社長など、開発予定地の視察のために社内外のお客様がマウイ島に来られた際は、必ずこのラハイナに立ち寄ったものです。

 私がハワイに滞在していた頃は、このラハイナの街の山側のなだらかな斜面は地元の人の住宅地はあったものの、ほとんどがサトウキビ畑だったと記憶しています。
ところがニュースによると、最近はそのほとんどが雑草地となっていて乾燥しやすい状況となっていたようです。

 ラハイナの火災後の廃墟と言えるほどのニューズ映像の中に、これも歴史的遺物としてラハイナのランドマークでもあった、かつてのサトウキビ加工場(Pioneer Mill Company)の白くて高いコンクリートの丸煙突がポツンと残っている姿が、私にはなんとも印象的でした。
 今は、ただただ早期の復興を祈るのみです。」

ラハイナの街並み
カアナパリリゾト

NPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行

この程、当社と連携しておりますNPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行致しましたのでご紹介させていただきます。
今回は、「2023年定時総会が終了しました。」「株式会社従心会倶楽部との連携強化」、「石岡顧問が90歳を超えて3回目のエイジシュートの偉業!!」などの記事が掲載されております。

大谷代表は、この度の定時総会でNPO法人ゆい思い出工房の監事に就任されました。