従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、数年前緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「 新聞記者冥利」です。
株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授
勝又 美智雄 先生
2024年3月26日
あれからもう20年経ったか、と感慨を催す。2004年3月に新聞記者を辞め、翌4月から大学教授に転身した。日本経済新聞に勤め始めたのが1972年。記者生活を32年送り、定年まで勤め続けるつもりだった。それを辞めたのは大学時代の恩師中嶋嶺雄(東京外国語大学前学長)から、「秋田に全く新しい大学を作るので手伝ってほしい」と頼まれたからだ。記者時代から日本の教育制度のおかしいところに不満を感じ、取り分け大学教育のあり方に強い疑問を持っていただけに、「国際競争力の高い大学を作って、本当にグローバルに活躍できる人材を育てたい」という先生の情熱に共感したため、ほとんど迷うことなく承諾した。
学生時代には別に新聞記者を強く志望していた訳ではない。公務員や銀行マンなど「安定した職業」には何の魅力も感じず、商社か出版社などが面白そうだと思っていたのだが、たまたま大学事務局の親しい学生課長から、「日経新聞の学内応募締め切りが今日だ。君には向いているのではないか」と声をかけられ、気軽に募集要項にサインしたに過ぎない。新聞記者の募集枠が約50人、それに応募者が全国から2000人以上いると聞いて、「何の準備もしていないので、とても受かる訳がない」と半ば気軽な「お試し」気分で受けた。それが予想に反して、一次の筆記試験、二次の集団面接、三次の役員面接とあっさりパスしてしまったので、他の入社試験を受ける気も無くなって記者となった。
2週間の研修の後社会部に配属され、当時スト権ストで揺れていた国鉄の春闘を取材し、大気汚染による光化学スモッグで東京練馬の中学校の生徒達がバタバタ倒れる事件を取材することが記者生活のスタートとなった。担当部署として東京都庁、国会、警視庁、文部省、宮内庁などを歴任し、特に選挙取材、総会屋・暴力団対策、教育問題で、それまで全く紙面で扱われることのなかった問題を企画記事として取り上げた。学生時代から通訳のアルバイトをした体験を生かして、来日する外国人のインタビュー記事を積極的に書き、「紙面の国際化」の一翼を担ったと自負している。
81年には米スタンフォード大学が日経新聞社に、「日本のプレゼンスが高まっているので、日本の政治、経済、社会問題など幅広く英語で議論できる記者を送ってほしい」と要請があり、私が選ばれることになった。滞在費は大学持ち、交通費と生活費の一部を日経が負担するという取り決めで、丸7ヶ月間、アメリカの記者12人とヨーロッパ・アジア5人のジャーナリズムフェロー(研究員)として毎日あれこれ議論した。
新聞記者ほど面白い仕事は無いと心から思い、毎日人に会って当事者から直接詳しい話を聞き、それを紙面に書き続ける魅力にのめり込んでいった。私が中心になって取材・執筆した社会面長期連載「サラリーマン」が菊池寛賞を受賞したのは望外の驚きであり、喜びだった。社会部では夏休みや正月企画を主に担当し、それまでの日経紙面にない面白い連載を沢山書くことができたし、サウジアラビアに1ヶ月滞在し、82年正月には夕刊一面に「サウジ昨日今日」と題する現場ルポを14回書かせてもらった。日経朝刊文化面の看板コラム「私の履歴書」に初めて外国人としてフルブライト元米上院議員を登場させ(91年5月)、2001年10月にはジャック・ウエルチ米GE会長、02年10月にはルー・ガースナーIBM会長も登場させた。記者として数えきれないほどの人にインタビューし、それを基に「人間発見コラム」で山口昌男(人類学者)、嵐山光三郎(作家)、富司純子(女優)、モンデール駐日大使夫人などを連載した。新聞に書ききれなかった取材の内幕話や社会問題についての自分の主張などについては、外部の雑誌に請われるままに大量に書いた。法務省の外郭団体・入管協会の月刊誌『国際人流』には、親しい編集長の依頼を受けて「人流インタビュー」を約10年間にわたって連載した。記者としての最後の大きな連載記事は、2002年4月「日本語教育の新世紀」と題し、留学生受け入れ問題や出稼ぎ外国人の受け入れ、日本語学校の実態などを詳しくルポした。振り返ってみれば、実に毎日が面白く、年末年始も盆も正月もない忙しい毎日だったが、正に「仕事が趣味」の生活に浸りきっていた。
04年3月中旬、中嶋先生の勧めに従って、私の退職記念、というより「新しい門出を祝う会」(会費1万円)を日本プレスセンターの大ホールで催した。呼びかけ人は中嶋先生、杉田亮毅日経社長、遠山敦子文部科学大臣、江副みどり出版社社長で、実に370人が出席してくれた。ロサンゼルス特派員を辞める時に現地の商工会議所、日本企業団体などが私の送別パーティーを企画してくれた時も、300人以上の人がリトル東京のホテルニューオータニの庭園に集まってくれた。ロサンゼルスでも東京でも、一新聞記者の送別パーティーにこれだけ外部の人が集まったというのは前例がないとのことで、私自身記者として、集まった人たち全員と取材を通して知り合ったことを思い出しながら感謝感激だった。誠に新聞記者冥利とはこのことだと実感したものだった。
(つづく)