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野口敬人税理士事務所の野口所長が来社

2月13日、野口敬人税理士事務所の野口税理士・所長が来社され、意見交換を行いました。
同事務所は、最近新たに武蔵野市に税理士事務所を開設されました。

右から1人目が野口敬人税理士法人の野口所長

野口敬人税理士事務所
代表者:税理士・所長 野口敬人氏
所在地:〒180-0006 東京都武蔵野市中町1丁目9番1号
              岩崎エステートビル3階
Mail:takahito.nogutchi.kaikei@gmail.com

風狂盲人日記 ㉗ 天災と人災

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、数年前緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「天災と人災」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2024年1月吉日

 昨年末、大学の教え子がご主人と4歳の娘を連れて我が家に来てくれた。昨夏会って色んな話をした時「目が不自由な先生のためにプレゼントします」と言ってくれたAmazon社のスマートスピーカー「アレクサ」を持参し、コンピュータエンジニアのご主人が私の机の上にセットしてくれた。ダチョウの卵ほどの大きさで、これに「アレクサ、ラジオのNPR(全米公共放送)を聴かせて」と言えば、すぐに放送局を探し当てて流してくれる。音楽で「さだまさしの歌を聴かせて」と言えば、即座に『関白宣言』から『精霊流し』、『風に立つライオン』などまで、1時間ヒット曲が流れる。「Audibleで大沢在昌の『新宿鮫』を聴かせて」と言えば、その作品の朗読が始まるといった具合で、盲人にとって便利この上ない。新年に向けて素晴らしいお年玉をもらったと喜んで、深く感謝した。

 新年は穏やかに始まると、元旦にラジオのBBC(英国営放送)を楽しんで聴いていたら、夕方地震が起きた。揺れ具合から東京で震度3あるかないかの揺れだな、たいしたことないだろうと思ったら、石川県能登地方でマグニチュード7.6、最大震度も7あったと聞いて驚いた。正月に実家で家族全員で楽しく過ごしている家庭も多かっただろうし、観光地が多いのでお正月ゆっくりと温泉を楽しむ客たちも多かったに違いない。被害情報がなかなか分からず、ニュースを聴いていてイライラさせられた。

 2日には羽田空港滑走路で日航機と海上保安庁の小型機が衝突する事故が発生し、更に驚いた。大型旅客機が頻繁に発着する滑走路に小型機が入ってくるということに呆れたが、管制塔との交信のミスか、パイロットの判断ミスか、これは事故と言っても人為的なミスによる人災としかいいようがない。

 3日午前2時のNHKラジオニュースで、被災状況の後「元日夜からSNSなどで様々なデマ情報が大量に流れています」とのコメントがあった。隣国(北朝鮮か中国)から核ミサイル弾が日本海に撃ち込まれ、そのため地震が起きたというもので、中には2、3年前の自衛隊最高幹部の記者会見のフィルムを編集して、さも今、日本が核攻撃されているという話を流しているSNSもあったという。

 それで思い出すのは、1923年(ちょうど100年前)の関東大震災の時、「在日朝鮮人、中国人が武装して暴動を起こし、日本中を大混乱に陥れようと井戸に毒薬を撒くなどしている」などというデマ情報が瞬く間に広がったことだ。各地域で住民たちの自警団が編成され、地域で見慣れない朝鮮人、中国人を次々に掴まえては暴行を加え、数千人が虐殺された。大きな天災の後にはこうした人災が付き物なのだが、今回も地震に乗じてそれを面白がってデマを捏造して流布する“愉快犯”が多数出たことも間違いない。幸い、今回はそうしたデマや流言飛語による人災はほとんどなかったようだが、SNSの発達と同時にそうした手の込んだデマや中傷がまき散らされることは避けようがないのかもしれない。

 地震の被害状況をずっと聴いていて腹立たしく思ったのは、自治体や政府の動きが決してスムーズではないことだ。大地震が起きれば道路が寸断され、水道・電気が止まり、救助活動も思うようにいかないのは当然だが、そうした事態になることを想定して、各自治体では防災マップやマニュアルを作成しているはずだ。それがいったいどの程度素早く対応できたのか。ラジオを聴いている限り、自衛隊の救援部隊が現地に到着してもなかなか動きが取れないとか、ボランティアの救助グループが活動しても、そうした動きが地元の自治体に現場の実態報告として上がらず、負傷者の救出などの人命救助がなかなか思うように進まないことが窺えた。

 日本はリスク・マネジメント(事前の危機管理)は普段から比較的よくできているが、クライシス・マネジメント(実際に事故災害が発生した後の危機管理)は不十分だとよく言われてきた。行政当局が発達しているが故に、警察や消防からの連絡は素早くても、それを基にどう救助をするか、救援体制をどう整えるかということはお役所仕事になって、なかなか素早く対応できず、そのために一刻を争うような負傷者の救出が遅れ、死者を増やしてしまうということが、今回も端なくもあったようだ。

 震災後半月ほど経って政府が被災者に20万円を3ヶ月間無利子で貸すという政策を出したと聞いて、思わず苦笑してしまった。防寒のため、あるいは食料を確保するためにどうしてもその救済金を欲しいと思う人は、恐らくほとんどが返済の見込みもない人たちだろう。当然これは給付ではなく貸付金であり、3ヶ月後には返済せよと言われたら、その人たちはほとんど躊躇して借りることもできないのではないか。これは自治体レベルで判断すればいいのだが、被害状況に応じて5万、10万、20万なりの金を臨時に支給するということだってあり得るだろうし、そういう手当をするのがむしろ適切なのではないだろうか。私に同行援護してくれるガイドさんは、この20万円貸し付けの話に憤慨して、与党の政治家が政治資金を高額着服するようなことがある中で、いっそ、そういう政治家たちが自主的に被災民に20万円支給する、ということをすれば皆喜ぶのだろうにと慨嘆して話していた。それが庶民感覚なのだろうと思う。

天災は事前に避けようにも避けようがない。しかし天災に続く人災は、幾らでも少なくしようと思えば少なくできるものだと私は思う。米国では大災害が起きた時すぐにFEMA(米国連邦緊急事態管理庁)が緊急配備態勢を敷いて、まず人命救助を第一に現場を押さえ、対策を取ることが常態化している。その元に政府も軍隊の派遣や連邦警察、州警察を総動員する形で動いている。だがどうも日本では、行政はそういう緊急事態に対する動きが鈍いのではないか。今回の大地震からもそうした教訓を生かしてほしいし、そのためには、地元のテレビ局やラジオ局などが積極的に被災状況を克明に調べ、何をどうすればここまでの被害が出なくてすんだのか、ということを検証する努力をしてほしいと願っている。

(つづく)

株式会社全笑 平野仁智社長来社

1月4日、当社の理事である株式会社全笑 平野仁智社長が来社され、大谷代表と今後の事業展開などについて意見交換を行いました。

株式会社全笑
代表者:代表取締役 平野仁智 氏
本社:〒610-1105 京都市西京区大枝塚原町3-152 シャルレ桂坂1階
事業内容:
香辛料原料の加工卸
香辛料原料の輸出入
小売店舗運営
障がい福祉事業所運営
飲食店運営
宿泊施設運営


株式会社桜士堂の木村 公一社長が来社

12月20日、従心会倶楽部の会員である京都の株式会社桜士堂 木村公一社長が来社され、同社の事業展開や今後の連携などについて意見交換を行いました。

右から2人目が株式会社桜士堂の木村社長

株式会社桜士堂(おうしどう)
〒605-0862 京都市東山区清水1-276
創業明治20年より清水寺御門前でお店を構え、鞄、巾着、財布、がま口、ポーチ等の袋物をはじめ、髪飾り、装飾アクセサリー、陶器、人形、扇子など、豊富な品揃え

風狂盲人日記 ㉖ 2023年の回顧

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「2023年の回顧 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年12月吉日

 年末に年賀状を書くのを止めて、代わりにその年の極めて私的な回顧文を書くようになってもう10年ほどになる。それを今回は、この盲人日記の一部として書くことにしたい。この日記は2年前全盲になって落ち込んでいた時に、シニア世代のための文化交流団体・従心会の大谷武彦会長から勧められて、月1~2回のペースで書き始めたものだが、幸い従心会ホームページの看板コラムになって好評だと励まされ、今後も暫く続けていくことにしている。

  • * *

 振り返ってみればこの1年は、私の人生の中でも最も静かで穏やかだった。70代になってから体のあちこちにガタが来て、脳や頸椎の動脈の手術、眼科のレーザー治療、循環器の検査入院から大腿部の動脈手術など、実に様々な病気で入退院を繰り返し、手術を行い、毎月数回病院通いをしていた。それが今年は、通院も2~3ヶ月に1回定期検診に行く程度で、目下、眼以外の体調は年齢相応か、それよりも若く健康、との診断を受けて一安心している。

 3年前までは、年に2~3回は海外旅行し、国内旅行は毎月2~3回というペースで、北海道から沖縄まで巡っていた。しかし今年は1泊以上の旅は一度も無し。毎日家で朝9時過ぎから夜11時過ぎまで古今東西の文芸作品、評論などの朗読CDを聴いている。ザっと年に250冊以上読んでいる(聴いている)勘定だ。

 今年聴いた作品群で最も印象に残っているのは、シェークスピアの全37作品、シャーロックホームズ・シリーズ全50篇、米作家のヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックの主要作品や、アップダイクのラビット・シリーズ全4作など。加えて日本の作品では、小松左京の『日本アパッチ族』『復活の日』『明日泥棒』『継ぐのは誰か』『日本沈没』、さらに大沢在昌の『新宿鮫』シリーズや、彼の長編作品をしっかり楽しんできた。

 失明以来、社会生活は殆ど無理と考えていたが、昨年国際交流団体IAC(国際芸術家センター)の依頼で、Zoomを使って講演する機会を与えられたのをきっかけに、今年も計4回、英語教育論や古典芸能案内などの講演を行った。

 加えて、グローバル教育研究所(渥美育子理事長)が毎月出しているニュースレターに、「グローバル人材を育成するための方法」について4回連載を書いた。こうした講演のレジメ作りや原稿の執筆には、家内の全面協力が不可欠で、感謝し続けている。

 外からの情報は耳だけが頼りだが、左耳は全く聞こえず、右耳も普通の人の半分ほどまで聴力が下がった。そのため、夏に補聴器を清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した。デンマーク製で実に40万円。1970~80年代は、日本の技術力が世界一を誇ったが、90年代以降の過去30年間、日本は低迷し続け、技術力も国際競争力も首位から滑り落ち、現在世界での競争力総合順位が34 位にまで下がっている(スイスの研究機関IMDの『世界競争力年鑑』 2023年版)。代わって躍進したのがドイツ、オランダ、デンマーク、フィンランド、ノルウェーなど、東欧北欧諸国であり、日本は中国にも韓国にも競争力で劣る地位にまで落ち込んでしまっている。それを象徴するように、時計・補聴器類の精密機械は軒並みヨーロッパ勢に大きく技術水準で水をあけられている、ということが痛いほどよく分かった。

 穏やかな日々の中で最も嬉しいのは、親しい人たちから電話がかかってきたり、また会いに来て色々話をしてくれることだ。今30代で活躍している大学の教え子たちの近況を聞くのは実に楽しいし、彼らの活躍がよく窺えて心が弾む。結婚式に招かれて挨拶したり、社外勉強会、異業種交流会で様々な人から声をかけられるのも、実に嬉しい。そうした体験は、この1年間の盲人日記でも折に触れて書いてきたので、興味ある方は是非従心会のホームページでバックナンバーを検索して頂きたい。

  • * *

 年末によく出る歌舞伎の演目に『松浦の太鼓』という芝居がある。元禄15(1702)年12月の夕暮れ、両国橋のたもとで連歌・俳諧の宗匠、宝井其角がみすぼらしい身なりで大掃除用の笹竹を売り歩いている若い男に出会い、それが、自分のところで歌を学んでいる赤穂浪士大高源吾と気付いて、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」の上句を言い、下句を付けるように促す。すると源吾はしばし沈黙した後、「明日待たるる その宝船」と付けた。世の無常観や憐れみを嘆息する下句が付くと想像していた其角は戸惑い、後日14日深夜、親しい松浦侯の屋敷で茶を飲みながら世間話でその話を披露した。すると赤穂藩断絶の幕府の一方的な処分に怒り、赤穂浪士たちに同情していた松浦侯も、その下の句の意味が解せずに首を傾げていると、隣の吉良邸のあたりから山鹿流陣太鼓の音が聞こえてくる。そこで、松浦侯は咄嗟に浪士の討ち入りを直感し、大喜びして助力を申し入れようと勇み立つ、というストーリーで、数年前に亡くなった中村吉右衛門がこの松浦侯を実に気持ちよさそうに演じていた姿を何度も歌舞伎座の舞台で観たことを、年末になると思い出す。

では、其角の句に私なら何と付けるかを考えてみた。案外たやすく出てきたのが、崇徳院の「瀬を早み」の竜田川の本歌取りで、「わかれてもまた会わんとぞ思ふ」でどうだろう。新年も知人・友人たちからの電話や呼びかけを何よりも楽しみにしている、というほどのつもりだ。このコラムの読者の皆さまにも、どうぞ良い新年をお迎えください。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉕ 社外勉強会の移り変わり

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 社外勉強会の移り変わり」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年11月30日

 今月も東京・日比谷で土曜の午後賑やかなイベントがあった。「丸の内朝飯会」の60周年記念パーティーということで、100人以上集まった。私は前月、この会でZoom講演した縁から無料招待されたもので、この伝統ある社外勉強会がどんな歩みをしてきたのかを知りたくて、喜んで参加した。

 この会は、1963年に当時大学を卒業したばかりの仲間数人が集まって、「職場は違ってもこれからも毎週会って議論をし続けよう」ということで始まったという。当時は60年安保の社会的変動が漸く鎮静化してきた時で、大学進学率はまだ同世代の10%にも満たず、いわゆるエリートだった彼らが社会人として様々な仕事に取り組む中で、「戦後復興期を終えた日本がこれからどう進むのか」を模索する時代であった。その中で、大卒者たちは自分の人生の目標と日本社会の将来を重ね合わせて考える縁(よすが)として、社外勉強会、異業種交流会を作り、勉強を続けていったと言える。「丸の内朝飯会」は、まさにそうした社外勉強会の先駆的な役割を果たしたもので、毎週木曜の朝7時半から1時間半、講師の話を聞いたり仲間同士でテーマを決めて議論したりということを続けてきた。その会が60年間で2800回以上になるというのは、驚嘆に値する。

 私自身の社会生活を振り返ってみても、1972年に日本経済新聞社に入社し、社会部記者として走り回っていた時、社会部長から、デスク、キャップ、私の3人で新規プロジェクトを考えるよう指示があり、その時の共通認識として70年代半ば以降高度経済成長が急速に進む中で、日本のサラリーマン社会にも大きな社会思想的な変化が起きているのではないか、ということがあった。そこで、キャップと私の二人で手分けし、手掛かりとして当時あちこちに作られていた社外勉強会、異業種交流会を数ヵ所訪ねて、そこに参加する人たちの会社観、職業観、自らの人生観などについて、あれこれと聞いて回った。

 そこで気付いたことは、会社人間の多くが、「寄らば大樹」で定年まで安定した生活が送れる官庁や役所に酷似した一流企業などに勤めることを目標としてきていたのが、それだけでは満たされない思いを強く持つようになり、自分の可能性を更に広げるために会社依存体質を改めようと進んで社外の勉強会、研究会に参加することが多くなってきていることだった。

 こうした社外勉強会は、当初自分の仕事と直接関係のない業種あるいは他分野についての知的好奇心を満たすことから、会社を離れてもやっていけるための専門知識、技能を身に着けることに進み、更に自分の生き方を改めて問い直すために宗教団体の集まりに参加したり、様々なテーマを集団で議論し合うような形式のものにも発展していった。

一方会社側でも、営業部員をまとめて自衛隊に体験入隊させたり、寺に1週間住まわせて座禅させたり写経するなどの試みもあった。私が体験したTM(超越瞑想法)の研修では、一流企業の中堅社員たちが日常業務から離れて全く自由な発想で、世界の動きについてどう考えるか、組織原理のあり方は何が理想なのか、などについてあれこれ話し合ったり、感性を磨くためのトレーニングを行ったりしていた。

 そうしたことを調べながら、同時進行の形で1979 年から日経社会面で「サラリーマン」という長期連載を始めた。一流企業の役員候補とされてきた部課長たちが、その仕事に見切りをつけて全く別業種の会社に転職する様子を描いたり、国立大学を出て一流企業に入った若者が、1~2年以内で「この職場でいけば自分が縛られてしまう」と辞めていく話など、ほとんどが本人の了解を得て実名で小説のようなドキュメンタリー・タッチで描いていった。そのネタの多くは、社外勉強会などを覗いて知り合った人たちからの情報で得たものだった。

 幸いこの連載は大変好評で、連載5年目を迎えたところで菊池寛賞を受賞した。受賞者は「サラリーマン取材班」という名前だが、連載当初から3年間は私がその約三分の一を書いてきた。新聞の連載記事が菊池寛賞の対象になったことは、確か初めてという快挙だったが、それは社会部記者が入念な取材を基にごく普通のサラリーマンを実名で取り上げ、その家庭生活や友人関係などにも深く入り込んで取材し、70年代後半から80年代前半にかけての高度経済成長絶頂期のサラリーマン群像を等身大で描いたことが高く評価されたものだと思っている。

 その後もこうした社外勉強会は全国各地で開催されてきたが、そのほとんどは、中心人物が転勤や転職などで会の運営ができなくなると自然消滅するケースが多く、せいぜい3~5年が限度であり、10年以上続くというものは極めて少ないと言える。1990年代以降のバブルが弾けてからの「失われた30年」には、もはや社外勉強会が活発になる機運はあまり見られない。理由は、社外の人脈作りはFacebookやLINEなどSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の急速な普及によって代替されるようになってきたことが挙げられる。また、潰れることがないと思われていた一流企業や銀行などが次々に倒産やM&A(買収・合併)などで変わる中で、会社人間のあり方も、自分の身を守ることが最優先されて、のんびり社外の人脈づくりを楽しむ余裕も無くなってきたとも言える。また、過去3年のコロナ禍の結果、外での会食・会合ができにくくなり、在宅勤務が増えた結果、有能な人間は在宅中に会社の仕事は一日数時間で片付け、そこから更に他の仕事もできるようになる、という二足、三足の草鞋を履くことが可能になってきている。そこで、これまで官庁同様ほとんどの企業が「副業の禁止」を謳ってきたなかで、本業はどこかの会社の社員であっても、アルバイトあるいはボランティアの名目で他の仕事も自由にできる余地が出てきている。その意味で、個人の能力次第でこれまでの「単属」人間から「複属」人間への変容が、今静かに、しかし急速に進行しつつあるのではないか、ということを最近感じている。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉔ 日本の古典芸能の魅力

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日本の古典芸能の魅力 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年10月31日

 木曜の朝、東京の社外勉強会「丸の内朝飯会」でZoomで講演した。演題は、主催者の注文に従って「古典芸能の魅力」とした。午前7時半から1時間講演し、その後30分質疑応答という形式だ。私が年来、歌舞伎・文楽は日本文化の粋、と語っているのを知って、主催者が依頼してきたものだ。別に歌舞伎の専門家、研究者でもないが、1990年秋にロサンゼルス特派員の任を終えて帰国して以来、丸30年間歌舞伎座の毎月の昼・夜の演目、国立劇場の文楽公演は全て観てきた。我が書斎には、その関係の全集や芸談、評論、専門雑誌類などが、段ボール箱に詰めたら50箱以上にのぼっていた。と言って、単なる印象批評をしてもあまり意味がないと思われたので、何故歌舞伎・文楽が日本を代表する優れた伝統文化なのかということを、歴史的に素描しながら、その魅力を語ることを試みた。

 最初に強調したのは、文化の基盤をなす日本語の抑揚とリズムが、大和朝廷から奈良時代にかけて定着したことだ。それも、万葉集、古事記、日本書紀に見られるように、五七調(あるいは七五調)の短詩形の連続で自分の心情を表現するようになった。その抑揚、リズムが鎌倉期の平家物語、室町時代の太平記という語り物を通して、日本人の仏教をベースにした宗教観、生活倫理、死生観を広く浸透させることになった。

 日本人の生活様式や伝統文化の特徴が固まったのは室町時代から。まず観阿弥、世阿弥の親子が中心となって謡曲が生まれ、それを能舞台で演じる演劇集団が誕生した。その謡曲が江戸時代に入って歌舞音曲の多様化を促した。まず京都で出雲阿国一座が四条河原で公演をし、それが歌舞伎の原点となって、京、大阪、江戸と17~18世紀に一気に日本固有の芸能として発展していく。その芸能の特徴として、次の点が挙げられる。

  • 音曲部門で能の笛、鼓、太鼓から三味線が急激に普及し、その演奏家たちが家元制度によって技術の伝承と普及を進めた。
  • セリフ術を中心とする舞台上の演技もまた、親から子へ伝承される「お家芸」で伝えられ、その家元制度によって世代交代が次々に行われるという、世界でも数少ない芸能文化の普及形態が進んだ。
  • 本来武士階級を対象にした謡曲が、人口の9割以上を占める農民・商人に普及するにあたって、語りが浄瑠璃(義太夫(太棹)、清元・常磐津(中棹))、長唄(細棹)と三味線も多様化し、音色が一段と豊かになり、その語り手、唄い手たちもほぼ全て家の芸を継ぐ形が厳密に守られた。
  • 伝統芸能のほとんどは以上のように、それぞれの流派の型(形式)をしっかり守る形で広がり、それが役者であればセリフや見得、動きなどすべてに渡って型どおりに行うことがプロとしての技量を測るバロメーターとされた。

こうした型を生み出し定着させていくことが、それぞれの「お家芸」の伝承として最も重んじられる点に、日本文化の最大の特徴がある。江戸では市川團十郎(成田屋)、尾上菊五郎(音羽屋)、関西では片岡仁左衛門(松嶋屋)、中村鴈治郎(成駒屋)という、それぞれ名優を祖とする一門が活躍し、今日に至っている。

更に、江戸時代には座付き作者が次々に登場。大阪では近松門左衛門、江戸では幕末から明治にかけて鶴屋南北や河竹黙阿弥が優れた脚本を提供し、『白浪五人男』『三人吉三』などの名セリフと共に庶民の間で広く歓迎された。このうち特に私が注目してきたのは近松の心中物だ。この世で添い遂げられない若い男女が、あの世で幸せになろうと誓い合って死への旅路を歩む「道行(みちゆき)」は、世界の古典芸能、芸術作品などでも殆ど類例のない特殊な「情死の賛美」であり、普段この世の理不尽さ、不幸にじっと耐えている観客たちにカタルシスを与える優れた芸術美だと私は思う。

明治以降、天皇が九代目團十郎、五代目菊五郎の舞台を鑑賞して以来、岡本綺堂、真山青果、谷崎潤一郎ら多数の作家が新作を提供し、歌舞伎の演目を増やし続けて今日に至っている。1960‐70年代の高度成長期には、テレビ・映画の普及で歌舞伎・文楽は古臭いとして客も入らない時代が続いたが、その後古典芸能の魅力に気付いた人たちが新たな観客層となって、歌舞伎座や国立劇場に通い始め、今日では世代交代がどんどん進む中で、新たな役者・芸人たちが着実に育っている。私は3年前に失明してから舞台が全く見えなくなってしまって、劇場通いを断念したのだが、これまで半世紀以上にわたって様々な形で見聞してきた名優たちの舞台などを脳裏にくっきりと思い浮かべることができ、それを折に触れて反芻する形で楽しんでいる。

(つづく)

風狂盲人日記 ㉓ ああ我が母校、神奈川県立厚木高校

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 ああ我が母校、神奈川県立厚木高校」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年9月29日

 16日(土)の午後、我が母校、神奈川県立厚木高校の設立120周年記念式典が、厚木市内のホテルで開催された。創設が1902年、日露戦争の2年前で、県立第三中学校として発足、戦後の1948年に高校となり、私はその高校第18回生(63年入学)となる。
 相模原市に住む同級生が、わざわざ我が家(足立区内)まで車で迎えに来てくれるということで、ほぼ10年刻みに開催している記念式典に久しぶりに参加した。

 厚木高校は、県中央部の学区内では昔からトップ校で、今日でも学区内を含め周辺の市町村の組長の殆どが厚木高校出身者で占められている。戦前は完全な男子校で、高校になってから女子も入るようになったが、私の学年では女子の数は学年420人中20数人で、その5年後ぐらいから女子が徐々に増え始め、今日では4割を占めるという。

 私は厚木高校時代、2年生の時に英語同好会会長を務めた。たまたま1年の時に厚木基地(厚木にはなくて、大和市と綾瀬市にまたがる)の米軍兵数人と親しくなり、基地内での映画会や野球、フットボールの試合の観戦に招かれたりし、高校生を持つ軍曹を厚木高校に招いて、米国の市民生活や教育事情などについて講演してもらう機会を作った。その時軍曹が気を利かせて、クラス50人分のホットドッグを保温器に詰めて持参し、皆に御馳走してくれたのが予想外のことで、私を含めて初めてホットドッグを食べたという生徒が殆どだった。

 2年の11月から3年11月まで生徒会長だった。それまでの生徒会は60年安保の余燼がくすぶる中で、社会党、共産党系青年組織の影響を受け、政治活動に走りがちだった。そのため一般学生からはかなり遊離した存在だった。それをおかしいと思い、親しい仲間と語らって高校生活を如何に充実させるかということに力点を置いた施策を幾つか手掛ける、全く新しい活動に取り組んだ。特に印象に残っているのが、全教員の協力を仰いで、それぞれの教科の持つ意義を語ってもらい、特に高校時代に読むべき本を何冊か推薦してもらう「読書ガイド」をガリ版印刷で作成し、全校生に配ったことだ。これは特に新入生や2年生には好評で、受験勉強一筋に過ごす高校時代とは違う生き方を考える縁(よすが)にしてもらえたと今でも思っている。

 当時は木造二階建ての校舎で、一階の職員室の上が生徒会室だった。私はそこでほぼ毎日放課後、運動部、文化部の部長たちの苦情や相談を受け、その善後策を役員同士で話し合い、校長始め教職員に交渉することを数えきれないほどやった。そのため、同期生のうち軽く100人以上の顔と名前は今でもよく覚えているし、下級生も数十人は親しく付き合っていた。

 私は戦後の混乱期のベビーブーム世代であり、取り分け父が何度か転職をしたため、小学生時代は、生まれた大分県別府市から静岡県裾野市、茨城県鹿島市などに転居し、小学校は4つ、中学校も3つ行き、幼い頃からの親しい友人というものが殆ど持てないで育った。その点、高校は初めて丸三年間同じ校舎で同じ仲間たちと過ごしたことが取り分け自分にとっても意義深く思い出されるし、高校時代の友だちとは今日に至るまで何人も親しく付き合ってきた。

 振り返ってみれば、高校大学の友人たちというのは、社会に出てからの社内での付き合いや、仕事を通じての付き合いで親しくなった人たちとは異なり、利害関係が殆ど全くない、という点で何年離れていても会えばいつでも名前を呼び捨てにして「俺、お前」の関係で気兼ねなく話せる貴重な仲間たちということになる。そういう高校大学の友人たちに、ある時は支えられ、ある時は励まされ、これまでの社会人生活を歩んできたのだな、ということが良く実感できる。

 記念式典とそれに続く交流パーティーでは参加者が約380人。そのうち我が同期生は30数人と、出席率がかなり高い方で、パーティーの終わった後、ホテルのラウンジで同期会を催したが、全員からやさしく肩を叩かれ握手されて、「目が不自由になってもよく来てくれた」とねぎらいの言葉をかけられたのがとても嬉しかった。

 帰りは、朝から付き合ってくれた同行援護サービス協会のガイドさんに手を引かれて、本厚木駅から約2時間半かけて自宅まで送ってもらった。同期の連中とはまた新年に同期会を開こう、との話がまとまっており、それにも勿論参加することを楽しみにしている。

(つづく)