令和人間塾・人間学lab.の竹中理事長が来社されました

11月22日、一般社団法人令和人間塾・人間学lab.の竹中栄二理事長が来社され、同法人の理念、活動概要をご紹介いただき、今後の連携について意見交換を行いました。

前列が竹中栄二理事長

一般社団法人令和人間塾・人間学lab.の活動概要

一般社団法人令和人間塾・人間学lab.は、安岡正篤先生及び伊與田學先生の教義を元に、
「教育」「農業」による日本及び日本人の再生を理念に、次のような活動を精力的に行っております。

  • 人間学講座
  • 時務学講座
  • 定期講演会

一般社団法人令和人間塾・人間学lab.

風狂盲人日記 ⑪ Zoom講演に挑戦

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「Zoom講演に挑戦」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 11月 ×日

 9月から10月にかけて土曜日の午後、国際交流団体の依頼に応じてZoomによる一般向け公開市民講演会を実施した。講演は新聞記者時代から殆ど毎月何度かやってきていたが、2年前失明して以来、講演をするのは初めての試みとなった。Zoomによる会議は現在でも毎月3~4回はあって、参加者の意見を聞きながら自由に発言することを続けてきているが、まとまった話を全く原稿も見ずにやることは初めてになるので、最初は躊躇したが、幸いうまくできてホッとしている。

 依頼主は国際交流に長く携わってきた国際芸術家センター(IAC)で、戦後長い間世界各国の芸術団体を日本に招いて、公演を支援する一方、日本の郷土芸能、盆踊りなどを分かりやすくアレンジして国内だけでなく海外に舞踊団体を派遣する事業を行っていたが、コロナの影響で全くそうした公演活動ができなくなったため、別な企画としてZoomを利用した市民講座を断続的に開催して、今回それを単発ではなくシリーズ化する形で私に話を持ち込んできた。

 テーマは「日本と世界との関係を考える」で、その第一弾を引き受けることにした。

 第1回は、時代によって求められる人間類型の違いを論じた。1960年代から90年代まで通して、日本の国際化の時代の中で「国際人」の活躍が期待されてきたが、2000年代はグローバル化の時代と言われる中で、「グローバル人材」の育成が急務だという形で、政府、企業社会の間で求められる人間像に大きな変化があったことを示した。「国際人」は基本的に企業の海外進出を担う人材であり、現地で事業展開する上で地元の市場としての特徴を理解し、それを東京本社に伝えて海外ビジネスをスムーズに行うことが期待されたわけであり、そこでは「国際人」は海外事情に通じて英語でビジネスができるということが求められていた。一方、「グローバル人材」の方は、必ずしも企業の先兵として活躍するという以上に、日本人が一人の地球人あるいは地球市民として、どこの国、どこの地域社会に入っていってもそこで現地の人たちに信用され、信頼される人間として活動するということに力点が置かれており、その意味ではまず自分の専門分野であるビジネスでプロとして優れていることが第一条件であり、次にその人間性そのものが問われることであって、英語力自体はそれほど重要視はされないということが特徴になっている。

 第2回は「留学の意味と意義」と題して、明治以降日本が近代化を進めるにあたって留学生が果たした役割というものを改めて考え直すことにした。その具体的な事例として、森鴎(1862‐1922)、夏目漱石(1867-1916)、永井荷風(1879‐1959)の3人の文学者を取り上げて、それぞれの留学体験から私たちが何を参考にすべきかを論じた。この中で、日本の近代化そのものを担う形で最も優れた留学成果を上げたのはドイツに留学した鴎外であり、最も惨めな体験に終始してノイローゼで半強制的に帰国せざるを得なかったのが、イギリスに留学した漱石であり、永井の場合は正確には留学とは言えず、父親(明治国家の高級官僚から大企業の社長を歴任)の資産と人脈を当てにして、ニューヨークに4年、フランスに2年、事実上遊び暮らしたのだが、その中でアメリカでもフランスでも社会の底辺に蠢く(うごめく)人たちの生活実態をつぶさに観察し、また共感を持って付き合う中で、人間を見る目を豊かに養っていったということが言える。こうした留学体験は、今世紀に入って文科省が「英語が使える日本人を育成することが急務である」として「トビタテ、留学JAPAN!」のスローガンを掲げて若者の留学を積極的に支援する政策を打ち出し、全国の高校・大学がほぼ一斉に留学プログラムの充実に取り組んできている現状を見ながら、そうした留学の意義について決してバラ色ではなく、かなり慎重に考えなければならないことを指摘したかったからだ。

 第3回は、日本人と外国人の日本に対するイメージギャップが今日でも相当大きいことを指摘した。これは、この20年間全国の大学や高校、あるいは市民団体などで講演した際、日本が大きいと思うか小さいと思うか、という問いを出すと、常に8割以上の参加者が日本は小さいと答え、その理由も「国土が狭いから」という理由を挙げてきている。
 ところが領土問題というのは、領海問題なのであって、簡単に言えば排他的経済水域(EEZ)がどれくらいあるかということで言うと、日本は国土の面積こそ190ヵ国以上ある国連加盟国の中で61位だが、領海は小笠原諸島から沖縄諸島周辺までも含めて世界6番目の領海の広さを持っており、日本の領土紛争というのは領海紛争、尖閣諸島、竹島しかりということであり、また経済力は依然としてアメリカ、中国に次いで世界第3位であり、軍事力も9位には入っている。しかも人口が1億2000万人というのは、世界でも今日11位であり、ヨーロッパの大国と言われるドイツの8300万人、イギリスの6800万人、フランスの6500万人と比べても、如何に日本の人口が大きいかがよく分かる。つまりそうした事情だけから考えてみても、日本は世界から見れば大国であることは間違いない。日本人が「日本は小さな国で」と言ったら、この人は自分の国について無知であることを示し、馬鹿にされてしまうだろう。
 日本人が外国を理解することは、実はその国と比較して日本の歴史や文化の個性を理解することに他ならないのであって、それが国際理解教育の最も重要な点だと私は考えている。

 以上のようなことで、3回のシリーズを各回45分話をし、あと30分Q&Aをしたが、幸い毎回約40人の参加者からは大変に好評で、暖かいメッセージを沢山いただいた。
 主催者はこれに気を良くして、新年にもまたこの続きをやろうということを考えており、その際にはまた別なテーマで喜んでやりたいと思っている。目が見えなくても頭の中に入っていることで、自分なりに物事を整理して考える力を訓練する上でも、ボケ防止に役立つと考えている。

(つづく)

オイスカ・インターナショナル国際理事会に参加しました

10月4日、衆議院第一議員会館 国際会議場にて開催されたオイスカ・インターナショナルの国際理事会が開催され、大谷代表をはじめ関係者がオブザーバー参加致しました。
また、理事会終了後、日本プレスセンターでレセプションが盛大に開催されました。

土屋美咲さんの作品が第106回二科展に入選致しました

この度、従心会倶楽部顧問 土屋淳一さんのご息女・土屋美咲さんの作品「 混ざる境界 」が、第106回二科展に入選致しました。誠におめでとうございます。
なお、2022第106回 二科展は、新国立美術館において9月におこなわれました。

                  混ざる境界 土屋美咲 氏
                  F100号油彩

図録の表紙

風狂盲人日記 ⑩ 悲劇の英雄、平知盛

 従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「悲劇の英雄、平知盛」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年9月末日

 今月区立図書館から借りて聴いたCDで最も感銘深かったのは、前進座の俳優、嵐圭史の朗読した『平家物語』(全12巻、CD30枚)だった。

 前進座は、1931年に、歌舞伎界を支配していた松竹に反発して、中村翫右衛門、河原崎国太郎らを中心に旗揚げした歌舞伎劇団で、武蔵野市に造った劇場を拠点に歌舞伎だけでなく現代劇にも取り組み、女優を登用しているのが特徴。嵐圭史は、翫右衛門の息子中村梅之助(現テレビ俳優、中村梅雀の父)と共に、70年代から90年代にかけて同座の2枚看板だった。

 嵐が一躍注目されたのは、「平家物語」に題材を取った木下順二の劇作品『子午線の祀り』で主人公の平知盛(壇ノ浦の合戦の時の平氏の総大将)を演じた時。源氏の総大将源義経には狂言師の野村万作、土壇場で平氏の重臣から源氏に寝返る阿波民部重能を滝沢修、ナレーションは宇野重吉、それに架空の人物「影身の内侍」を名女優山本安英が演じるという舞台で、狂言回し役となった影身の内侍と知盛が二人だけの心の対話をする形で劇が徐々に進行。特に平家方、源氏方、それぞれの武将たちがト書き(説明)部分を一斉に合唱するように語る「群読」の見事さなどは極めて評判の高い名舞台となった。私はその舞台を数年間に3回観た記憶があるが、毎回知盛を演じる嵐の朗々たる発声かつ哀調を帯びた語り口に、滅亡する平氏の運命を真正面から受け止めて、それに立ち向かい、壮絶な戦いをした後、大長刀を振り捨て、船から鎧2着を小脇に抱えて「『見るべき程のことは見つ。今は自害せん』とて・・・海へぞ入りにける」という最後まで、まるで歴史の一大絵巻を見るような心地さえしたものだった。

 今回のCDは単行本にすれば軽く1000ページを超す長編を原文通りたった一人で読み下したもので、公家や武将、女官たちを声色巧みに演じ分け、笛や鼓、太鼓、琴などの効果音も全く使わずに淡々と読んでそれぞれの場面をくっきりと脳裏に思い浮かべさせることに成功している。とにかく、文中に夥しく出てくる官位、人名を全く澱みなく、延べ30時間以上にわたって読み上げていく様子もまた壮観であった。

 知盛は能や歌舞伎、文楽でも人気演目の一つになっており、亡霊として現れる『船弁慶』では、海上に浮かび出て大長刀を振り回して義経に襲い掛かる様を不気味に、しかも見事な足捌きで演じた歌舞伎の中村富十郎の演技が忘れられない。また、文楽、歌舞伎の『義経千本桜』の中の『碇知盛』では、実は知盛が壇ノ浦で死なずに生きていて、義経一行への復讐を狙っていたという想定で、改めて大物浦の浜で義経一行と戦い、血まみれになって最後、大きな岩の上から巨大な碇の綱を体中に巻き付けて碇と共に海中に仰向けに飛び込んでいく様が、誠に壮絶な悲劇の英雄の死を示した傑作になっており、歌舞伎では三代目市川猿之助(現猿翁)、昨年没した中村吉右衛門、片岡仁左衛門の3人の名演が記憶に強烈に残っている。来月の国立劇場では、義父である吉右衛門から学んだ尾上菊之助が二度目の知盛に挑戦するのが話題になっているが、前回数年前初めて碇知盛を演じた時には、チケットが即日完売でどうにも手に入れられず、尾上菊五郎のマネージャーに頼み込んでも無理だったということで、悔しい思いをしていた。今回はそれを改めて観る機会ができた訳だが、もう2年前から失明したので全く舞台が観られないのが極めて残念だが、家内が代わりに観に行ってくれるので、あとでその様子を聞くことで慰めるしかないと思っている。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑨ 「和」CDの楽しみ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「『和』CDの楽しみ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年8月末日

 半世紀以上の習慣だった読書ができなくなって丸1年半。代わりに点字図書館から文芸書の朗読CDでこれまで約250冊聴いてきたが、同時に足立区立中央図書館から「和もの」のCDを次々に借りて自宅で聴いてきた。その数はおよそ250枚以上になるかと思われる。この夏の終わりにそうした「和」CDで楽しんだ主なものを列記してみたい。

 ※観世流謡曲全集 全18枚
 ※広沢虎造浪曲 『国定忠治伝』7枚、『清水次郎長伝』14枚
 ※神田松之丞(現伯山)講談 3枚
 ※落語名人全集 古今亭志ん生 40枚、志ん朝 40枚、三遊亭円生 20枚、立川談志 40枚、
志の輔 10枚、桂米朝 40枚、枝雀 10枚

 ――以上がザっと主なものだ。それ以外にも、歌舞伎名台詞集、義太夫節(浄瑠璃)、長唄、などがそれぞれ数枚ずつあった。

 謡曲は能楽堂の舞台で観る時にはどうしても演者の動きを中心に観てしまうので、案外と台詞や地謡の言葉が耳を素通りしてしまうが、CDの場合、シテ(主役)、ワキ(脇役)の声が明瞭に聞こえるので、言葉の響きがきれいに耳に入ってくる。何より、舞台だと鳴り物(笛、鼓、太鼓)の音が鋭くて大きく、台詞や地謡の言葉をかき消してしまうことが多し、シテが面を付けたまま話すので声が籠って聞き取りにくい。それがCDだと鳴り物がなく、面も付けていないので、明瞭に聞こえてくる。舞台正面上手に並ぶ地謡の人たち(4~12人)の斉唱もきれいに揃って聞きやすい。このCDを1回目にはまず通して聴いて粗筋をつかみ、2~4回聴いて台詞を指で空になぞってみる。5回ぐらい聴いても全部書き取ることはほぼ不可能だが、8~9割方はそれで中身が掴めるし、仏語、漢文交じりの台詞が独特のリズムをもって心地よく響いてくるのが何とも楽しい。

 浪曲は小学生時代ラジオから流れてくる声を思い出して懐かしかったし、明治以降の大衆のヒーローだった侠客の生涯が美化されていて面白い。どのエピソードもストーリーは単純明快な勧善懲悪物だが、そこに親子の情愛、夫婦の機微、友情などが色濃く流れ、取り分け『次郎長伝』では、森の石松が極めて印象深く描かれ、小学生時代に観た東映時代劇の中村錦之助の石松が鮮明に思い起こされた。

 講談についてはいずれ詳しく別な機会に書きたいと思うので、ここでは省略。落語は記憶に残る名人たちの声が懐かしかったが、全集で今存命なのが僅かに志の輔一人であることに気付いて、時代の流れを痛感させられた。同じ人気演目を殆どの落語家が演じているのだが、その細かな演じ分けの違いがよく分かり、彼らの軽快なテンポの良さと絶妙の間の取り方が、音声からだけでも高座の様子が彷彿と浮かび上がってきて興味が尽きない。どの演者も人情噺から滑稽噺まで巧みに演じ分けて楽しめるのだが、談志の場合、講談の『三方ヶ原の合戦』(家康と武田信玄の戦さ)をなかなか見事に語るのを聴くと、やはりこの男は才人だなと思う反面、枕にしろ、話の途中にしろ、入れる言葉にあざとさがあって、やはり最後はあまり好きになれない。その点、一番弟子の志の輔は古典も正統的に演じてうまいが、また新作落語も『鹿の首』、『バールのようなもの』、『みどりの窓口』など、日常生活が異常な話に展開する見事さで、抱腹絶倒ものだ。失明以来、もはや寄席に通うこともできなくなってしまったが、こうしたCDによって日本語の持つ奥行きの深さ、楽しさを味わうのは何とも楽しい。

(つづき)

風狂盲人日記 ⑧ 夏目漱石は売文業の職人

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「夏目漱石は売文業の職人」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 8月×日

 「日本点字図書館」を中心に製作されている朗読CDで夏目漱石(1867-1916)の主な小説を聴いた。30代末に俳句雑誌に書いた『吾輩は猫である』(1905)、『坊ちゃん』(1906)、『草枕』(1906)の3部作は中・高校生時代にも面白いと思ったが、今回聴き直してみても、やはりこれは明治30年代の極めて優れた作品であり、日本近代文学史に残る名作だと頷かされた。

 その文才を評価されて、彼は朝日新聞社から破格の高給で文芸部員として雇われ、年に1、2本の連載小説を書き続けることになった。『三四郎』(1908)は東大生の青春の息吹を感じさせるまずまずの佳作と言えるが、『虞美人草』(1907)、『門』(1910)、 『行人』(1912)、『こころ』(1914)などから絶筆となった『明暗』(1916)に至るまでの新聞小説は、どれも読後感の良くないもので、むしろイライラさせられる作品ばかりであり、決して名作と言えるものではないと言わざるを得なかった。

 その理由は、主人公が作者の分身のような形で家庭環境、状況設定がわずかずつ異なってはいても、殆ど同じテーマの繰り返しであり、それは主人公が親や親類の財産を当てにして、大学を出てもまともに仕事をしないでのんびり暮らそうという「高等遊民」があれこれ妄想する話に終始しているからだ。主人公の性格は優柔不断で、自分では何も決められず、常に思うことと口にすることと行動の三つがバラバラになっている。精神分裂症的な傾向が強いことだ。

ストーリーで一応のまとまりを見せているのは『こころ』だが、前半は主人公が学生の私、後半が先生の遺書という構成で、繋がりが如何にも悪い。しかも、先生が親友を裏切ったことを悔いて十数年後に自殺するという心の動きが不可解のままに終わっている。また『行人』も主人公と嫂が仲良くしているのを、兄が二人が不倫関係にあるのではないかと疑い、それを試すような小細工をするという話で、結論は何も起こらず、全ての出来事は「コップの中の嵐」に終わっている。

 これは、新聞小説だから余りドラマチックなことは書きにくいという面も一部にはあるかもしれないが、実はそうではなくて、漱石自身としては新聞小説を書くことに殆ど情熱を傾けることもなく、ただ原稿用紙をひたすら埋めていけばいい、と考えていた節がある。その証拠に、題名の付け方も文芸部員任せにして、適当に付けてくれという投げやりな姿勢が目立つので、題名だけを見ても中身が何を書いているのか全く分からない、ということにも表れているし、取り分け、元旦からの連載をいつまで書けばいいのかと聞いて「彼岸過ぎまで」と言われると、その言葉をそのまま題名にしてしまうような安直な姿勢が露骨に出ている。

その上、主人公の行動範囲は本郷界隈から日比谷、雑司ヶ谷、田端辺りまでにほぼ限定され、品川、渋谷、浅草、墨田川一帯などの地名はほとんど出てこない。これは、漱石が馴染みの地域だけに主人公を動かしているだけであり、地図や年表、資料類を机に広げながら原稿を書いていた形跡が全く見られないことにも現れている。彼が原稿用紙の横に広げていたのは、恐らく登場人物の簡単な系図や相関関係図程度だったと私は感じた。

 漱石はもともと一高・東大出のエリートなのであるが、卒業後は望む東大教員になる道も遠いため、四国の松山にまで「都落ち」し、さらに熊本五高教員になる形で、学生仲間達に比べるとエリートの座から滑り落ちているという挫折感を味わっていた。ロンドン留学も何ら成果もない上、強度の神経衰弱で「夏目が気が狂った」と留学生仲間に通報され、2年で留学費用も出なくなり戻ってくる、という屈辱も味わっていた。帰国後は東大講師(年俸800円)、一高講師(年俸700円)、明治大学講師(年俸300円)として働いた。当時の大卒初任給の平均が月30円(『明治・大正・昭和・平成・令和値段史』 https://coin-walk.site/J077.htm)であったことを考えれば「薄給」とは言えないが、妻に子供が4人いて更に5人目を身ごもっており、女中2人に書生1人を養わねばならず、また家には多くの門下生が集まり来客も多かったので家計は苦しかった。そのため、もっと高給が取れる仕事はないかと思っているところに、新聞社からの誘いがあり喜んで乗ったものであり、月200円の月給に、更に盆暮れに1ヶ月ずつの賞与を加えてもらうことで了承し、年2800円の高給取りで過ごしていた。それだけに、彼の連載した文章も原稿用紙に殆ど字句修正をしたり挿入をしたりすることがなく、1日の分量を書いたら、それをそのまますぐに校正係に回しており、周囲の者が「よくこんな完成原稿が書けますね」と言うと、「完成しなくてもいいんだ。言いたいこと、書き足りないこと、書き直したいことがあれば、それは数日後また同じような話を蒸し返してそこで書けばいい」という、そういう姿勢で終始していた。

 漱石は明治の文豪と言われて、今日でも日本で最もポピュラーな作家の一人とされているが、その新聞連載小説の殆どは実は読まれていないのではないか、と私は思う。まともに読むと、余りにも同工異曲が多すぎて辟易としてしまうし、ストーリー展開も殆ど無い。漱石礼賛者の多くは、「近代知識人の苦悩を描いた大作家」と評価しているのだが、私に言わせれば、これは明らかな過大評価であり、本人もまたそんなことは思ってもいなかったのではないか。要するに、原稿用紙1枚幾らと計算しながら桝目を埋めていけばいい、ということに徹することのできた、その作文技術の優れた職人技が目立つだけのものではないのか、と私は強く感じている。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑦ しなやかな中国人ヴァイオリニスト

 従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「しなやかな中国人ヴァイオリニスト」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 7月 X日

 7月8日(金曜)の夜、上野公園の東京芸大旧奏楽堂で行われた中国人ヴァイオリニスト、劉薇(リュウ・ウェイ)さんのコンサートを聴きに行った。勿論一人では行けないので家内に同行してもらった。

 その日のプログラムは、ウクライナを支援する気持ちを込めて、ということで、同国ゆかりのプロコフィエフらの作曲した曲を数曲演奏した。いずれも私には初めて聞く曲ばかりだったが、その演奏には強大国の暴圧に虐げられる人たちへの共感が現れているような気がした。

 劉薇さんは中国大陸内陸部の出身。音楽家を志望しながら果たせなかった父の夢を継いで上海の音楽学校を卒業し、1986年に単身来日し、東京芸大大学院に進学した。当時の中国は貧しく、彼女も飲食店の店員アルバイトをしながらの苦学生活だったが、サンリオの辻信太郎社長(当時)が「アジアからの留学生を支援したい」と設立した教育文化財団からの奨学金を得て、何とか学業を続けた。博士課程では、戦後中国の最高の作曲家と目された馬思聡(マー・スツォン)の足跡を辿り、その全貌を明らかにすることに思いを定めた。馬氏は文化大革命の迫害に耐えた後、米国に亡命した。

 劉薇さんは、その馬氏のニューヨークの旧居跡や親戚縁者、友人などを訪ねまわり、散逸していた馬氏の楽譜を集め、整理し直し、その作曲集を編纂するかたわら、曲の録音テープを作成。同時に人と作品論を博士論文としてまとめた。その結果、東京芸大の外国人として音楽博士号(実技+理論)の称号を授与された。90年代後半から東京を拠点に精力的に演奏活動を始め、声が掛かれば全国を公演して回った。今世紀初めに重い腎臓病にかかって医者からは人工透析を勧められたが、独自の食事療法、健康療法を研究して回復、音楽活動も再開した。腎機能を10年以上維持したが、再び腎臓病が悪化。半年間人工透析を受けた後、2019年7月に日本人の夫が自分の腎臓を半分提供することを申し出て、手術も無事成功した。3年半前には八ヶ岳高原に移住し、静養しながら音楽活動を行っている。90年代の頃は丸顔に短髪で少女然としていたが、その後長い療養生活を経て、すっかり細面で全身も細くなり、楚々とした美人に変貌してきた。その劉薇さんを少しでも助けようと、2000年7月に音楽活動の支援にと後援会が組織され、現在会員数は国内外で360人を越えている。私も後援会発足以来のメンバーの一人で、毎年1~2回送られてくる会報で、彼女が元気に立ち直っている様子を写真付きで見て喜んでいた。私が2004年春日本経済新聞社を中途退社し、恩師の中嶋嶺雄先生(1995年から2001まで東京外大学長)に請われて秋田の国際教養大学の設立に深く関わった際、その「新しい門出を祝う会」がプレスセンターの大ホールで催され、劉薇さんが駆けつけて私の好きな数曲を演奏して祝ってくれた。

 制作したCDはこれまで7枚。ヴァイオリン曲のクラシックの名品を数多く集めたものが半分と、馬思聡のCDが半分だが、最近はヘンデルのヴァイオリン曲も出し、私自身それを聴いて、宮廷音楽家がこんな夜想曲風のヴァイオリン曲を作っていたのかと驚いたほどだ。今月の公演の数日前には私に電話をくれ、目の状況を尋ねてきたが、「まだまだやることが沢山あるでしょう」と明るく笑い、「この夏には八ヶ岳に静養に来たらどうですか」と誘ってくれた。

 彼女の生き方を見ていると、レジリアンスという言葉を思い出す。しなやかで逞しく、決して倒れないというほどの意味で、最近これからの日本人に大切な資質としてあちこちでこの言葉が使われるようになった。苦難を押しても常に明るく、笑って前向きの姿勢でそれを巧み避け、あるいは乗り越えていく。その姿勢から私も大いに学ばされている。

(つづく)

風狂盲人日記 ⑥ 日韓の認識ギャップ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「日韓の認識ギャップ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 6月末日

 先日、ある民間研究団体が主催した日韓学生交流座談会をZoomで傍聴した。参加者は両国の大学生4人ずつ。韓国人はいずれも都内の有名私立大学に在籍する留学生たちで、全員が流暢な日本語で同世代の日本人学生といろんな意見交換をした。

 その中で特に印象に残ったのは、今世紀に入って両国の外交関係が殆ど改善されない中で、学生間の交流が確実に活発になっているにもかかわらず、お互いに「今後の日韓関係は改善される」と明るい見通しを持っている人が少ないことだった。韓国では5月に保守系の新大統領が誕生したが、国民の支持率は47%であり、進歩系の対立候補が46%を得ていて、新政府の政治基盤が極めて不安定なものであることを若者たちも敏感に意識していた。

 それを聞きながら、韓国人の対日イメージ、日本人の韓国イメージが、この半世紀以上殆ど変わらない落差を示していることにも気付いた。

 私が新聞記者になって間もない1970年代、韓国からの当時の留学生や学者などと会って色んな話を聞いた中で、幾つか驚いたことを思い出した。一つには、韓国人の間で日本歴史上最も許せない人物として第一に伊藤博文、第二に豊臣秀吉が挙げられていたことだった。伊藤博文は日本では明治憲法下で初代内閣総理大臣となり、都合4回の内閣を組織した明治の元勲であり、元老として今日でも近代日本の功労者の一人と高く評価されているのだが、韓国人にとっては、日本の韓国統治下になった1910年、初代の朝鮮総督となっていることをもって「日本帝国主義の権化」とうつた。そのため伊藤が朝鮮半島を初めて視察した折、奉天で現地の若者安重根に暗殺されたのだが、朝鮮人側からすれば、安重根はその後も国民の英雄、あるいは近代朝鮮の歴史の偉人として長く称えられ、第二次大戦後は記念館も設立されて、彼を顕彰している。

 それだけに、日本が70年代に経済的に急激な発展を遂げ、韓国へも何十万もの人がビジネスで、あるいは観光で訪れるようになった時に日本円が現地でも通用したわけだが、当時最も広く使われていた千円札には伊藤博文の肖像画が使われており、韓国人学者から言われた「日本で最も嫌う人物の肖像画が載っている紙幣を有難がってもらうことに対する韓国人の心のうちを理解してほしい」という言葉がその後ずっと私の胸の中に留まっていた。そういう批判が韓国から出始めているということを聞いて、大蔵省でも千円札の肖像画から伊藤博文を外そうという動きが出ていると聞き、後に夏目漱石、野口英世に変わったといういきさつがある。

 また16世紀末朝鮮侵攻を図った秀吉軍に対抗した李将軍は、今日でも朝鮮史の輝ける英雄として称えられているが、今日の日本人でもそうした事実を知っている人は極めて少ない。
 さらに言えば、日本が近代化、西洋化に成功した象徴として称えられる日清戦争(1894-95)、日露戦争(1904‐05)にしても、主な戦場は朝鮮半島であり、そうした強国の戦火に家を焼かれ、田畑を荒らされ、逃げ惑った最大の被害者が朝鮮人であったということも、日本人は殆ど意識していない。

 それにつけても、現在の大学生たちの座談会でも彼ら自身が認めていることだが、お互いの国に対する歴史認識に相当の隔たりがあるということが明らかにされた。韓国では中学・高校以来、韓国史を学べばその大半はまず過去150年の近・現代史から勉強するのであって、しかもその70%ぐらいは日本との関係、つまり日本に抑圧されてきた関係ということが強調されてきた。それがまた、慰安婦問題や労働者の強制連行問題、最近では徴用工の問題などにも間欠的に吹き出して、外交関係の改善の重要な支障になってきていることは間違いない。逆に日本では、日本・世界の歴史は、中学・高校で学ぶ場合古代から始めて、ほとんどは20世紀初めまで、つまりせいぜい日露戦争までの歴史で終わりであって、1930~45年の日中15年戦争の模様も殆ど教室では学ばないし、太平洋戦争についてもまず学ばない。その理由は、高校受験、大学受験でその辺の問題が出ることはまずないからであり、過去40年ほど日本人の10代から20代の若者にとって、ほとんど20世紀の歴史というものを学んでいないという問題がそこによく表れている。

 またそういう歴史認識を正そうと、1990年代に日韓両国の政治学者、歴史学者が集まって、両国で使える若者向けの近現代史の歴史教科書、あるいは副読本を作ろうという動きがあったが、結局はその両国の学者同士の間でも激論が続いた結果、どうにも調整ができないということで沙汰止みになった、という経緯もある。朝鮮は古代以来強大な中国の影響を強く受けながらも、独自の文化と技術を育て、奈良時代以降中世まで、日本にもその優れた美術工芸を輸出してきたが、19世紀以降は大国の侵攻に晒され、戦後も南北に分断されるという悲劇を味わってきた。それが今世紀に入ると、科学技術面、経済力で「日本に追いつき追い越す」勢いを持ち、特に韓国では国家としてのプライドも強く意識されるようになってきた。

片や日本は、明治時代から「近代化=西洋化」を目指して「富国強兵」をスローガンにしてきたが、1945年以降は軍事力を厳しく抑えられる中で「富国」に特化し、成功してきたものの、1990年以降はその経済力も急速に低迷し、国民自身も日本に対する誇りを大きく失ってきている。

 日韓両国民にとってお互いに意識の上では「近くて遠い国」であり、その認識ギャップを埋めるのはなかなか容易ではない。

(つづく)

山田二三雄顧問と打合せ

6月7日、山田二三雄先生が来社され、今後の事業について意見交換を行いました。
山田先生は、当社の顧問で一般社団法人めぐみグループの代表理事をされておられます。

左から3人目が山田二三雄先生