風狂盲人日記 ⑮ 私のオキナワ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
第15回目の今回のテーマは「私ノオキナワ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年2月×日

 今月もまだ寒い日が続いている。同行援護者の腕につかまって歩きながら、冷たい北風を顔に受けていると、また沖縄に行きたいなあ、と想う。2年半前に失明するまで約20年間、ほぼ毎年2回は沖縄に行っていた。南の空と海、住む人たちと歌と踊りの背景にある歴史を辿りながら沖縄各地を歩くことが、日本の近現代史を考え直す上でも極めて大事なことだと思っているからだ。

 初めて沖縄を訪れたのは1982年の夏、米政府から沖縄が「本土並み返還」された10年後。その実情がどうなのかを知りたくて訪ねたのがきっかけだった。「沖縄に米軍基地がある」ではなく「基地の中に沖縄がある」という感が強く、普天間基地などでは今でも爆撃機の発着が頻繁に続いている。戦後既に77年にもなるが、沖縄はまだ戦中・戦後の傷痕をずっと引きずっていると痛感させられる。

 91年から年に1度は沖縄に行こうと決め、あちこち見て歩いたが、大学の同級生で、学生時代にマグロ漁船に乗ってインド洋に行き、その後ヨーロッパを長く放浪していた男Kが那覇に戻って予備校を経営していることを知り、20年ぶりに再会してから沖縄行きに弾みがついた。私が沖縄に行けば必ずKが空港まで迎えに来て、滞在期間の大半を一緒にいて、あちこち案内してくれた。那覇の一番の繁華街、国際通りあたりを歩くと必ず知り合いに会い、立ち話をし、紹介される。沖縄そばや魚料理、豚料理などの旨い店を紹介すると言って連れて行かれるのは、大抵しもた屋の大衆食堂で、夜はもっぱら島唄を聞かせる居酒屋・スナックで、女将やママさん達と実に楽しそうに話をする。島唄ライブの店では、三線を1、2曲聞くと、「もうたまらん」とつぶやいて立ち上がり、ステージのそばまで行って両手を広げ嬉しそうに踊り出す。私もそれに何度付き合って踊ることになったか、数えきれない。

 国際通りの雑居ビル2階に喜納昌吉のライブハウスがあった。最後の演奏を終えた後、午後11時過ぎから喜納とKと私の3人で泡盛を飲みながら午前3時過ぎまで話し込んだことがある。喜納は国会議員をした体験から政治不信を募らせ、「国家など要らない」と無政府主義的な発言を繰り返した。Kも「人はどんな境遇にあっても生きて行けるさ」と頷き、私は「現実に背を向けるか、体制に立ち向かうかで人の価値観、生き方が決まるなあ」と評論家風な発言をした。最後は島民の慣用句である「なんくるないさー(なるようになるさ、仕方ない、何とかなるさ、など多義的な表現)」と笑って、「そのうちにまた話そう」と言って別れた。その店も10年ほど前になくなった。

 Kの特技は人と人とを結びつけること。おかげで随分沖縄に知り合いができたし、Kが7年前病死した後彼の行きつけの店に行くと、噂で聞いているという女将や、「え、Kさんが亡くなったの!!」と驚いて、みるみる涙をいっぱい流すママさんたちが、その後しんみりと、如何にKが心優しい男であったかを様々なエピソードを混じえて語ってくれた。

  島唄の囃子言葉に「ハー、ユイユイ」があり、このユイは「結」だと聞いた。那覇空港から首里城までのモノレールも愛称は「ユイマール」であり、人と人の心を結びつけるのが沖縄、ということを象徴したネーミングになっている。Kはまさにその「ユイ」を大事にするウチナンチュウ(沖縄人)の代表だったような気がする。

  Kと会えば、別れる時は必ず「今度いつ来る」と聞かれ、「来年」と答えれば「もっと早く来いよ」と何度も繰り返す。そこで2000年頃から年2回、それも最初は1回に3~4日程度だったが、だんだん期間を延ばし、1回に1週間から2週間は居ることにしていた。Kが亡くなってからも息子さんが父親と同じように何度も「また来てください。歓迎します」と連絡をしてくるので、沖縄行きは止められないな、と思っていた。それが2年半前に失明し、もう旅行は無理だと殆ど諦めてきているが、最近、「もしかしたらまた行けるようになるかもしれない」と思うようになってきた。特に冬の期間、12月から2月が最も快適で、気温は20度以下にはめったに下がらず、夜でもTシャツに上着で済む。できれば来年の2月頃には行ければいいな、と思っている。

(つづく)

公益財団法人オイスカ 永石専務理事と懇談

2月17日、公益財団法人オイスカ 永石安明専務理事(事務局長)と大谷代表と松本理事が懇談しました。
永石様は、現在オイスカのプロジェクト推進のためインドや東南アジア各国のご出張されるなどご活躍されておられます。

中央が永石安明専務理事

【公益財団法人オイスカ】
代表理事: 中野悦子 氏
本部: 〒168-0063 東京都杉並区和泉2-17-5
Webサイト: https://oisca.org/

当会会員の南野洋氏が来社されました

2月17日当会会員の南野洋氏が来社され意見交換を行いました。
南野さんは独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の建築課の課長補佐を務められ、更に今年3月に相模東急直通線が開通致しますが、その新横浜駅の駅舎などの開発を担当されておられます。

同氏はまた当社の顧問であります南野脩先生(工学博士)のご子息であると同時に、何よりも当会の創業中心メンバーとして長く会の運営をリードされた今は亡き南野徹氏の甥でもあります。南野徹氏とのことを懐かしく回顧いたしました。

向かって左が南野洋氏

風狂盲人日記 ⑭ お正月には箏(そう)の音を

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「お正月には箏の音を」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年1月×日

 お正月には箏の音を聴こう、と思い立って東京都足立区立中央図書館から筝曲のCDを計10枚借りてきた。昔(と言っても私が小中学生から高校時代にかけての昭和30~40年代)の正月には、町の商店街や公民館などの有線放送スピーカーから、必ずと言っていいほど宮城道雄の『春の海』が聞こえてきていた。都会のデパートでも、正月の店内BGMの定番が『春の海』あるいは古曲の『六段』だったと記憶している。

 宮城道雄(1894~1956)は8歳の頃から視覚障害となり、10代後半には全盲となったが、幼くして筝曲を学び、10代半ばには生田流の免許皆伝を受け、弟子を指導するほどにもなっていた。『春の海』は1929年(昭和4年)に彼の作った作品だが、フランスのバイオリン奏者が早くに注目し、ヨーロッパに紹介したため、戦前から箏の名曲として世界的に知られるようになっていた。宮城は長短合わせて100曲を越す作品を作曲しただけでなく、13弦の箏では飽き足らず、17弦、さらに20弦以上も備える新しい箏も開発するほど研究熱心で、壮年以降も大変な活躍が期待されていたが、演奏旅行の途中列車のデッキから転落して死亡するという事故で惜しくも62歳という若さで亡くなった。

 彼の筝曲は、ゆったりした流れの中で箏の複雑微妙な響きを豊かに感じさせる典雅なものが多く、聴いていて心が和む。もっと長生きしてくれれば、更に素晴らしい曲をたくさん作ったのではないか、と思われるのが誠に残念だ。

 借りたCDで驚いたのは「現代の筝曲」シリーズ5枚組だ。戦後も1970年代以降活躍してきた若い筝曲家の演奏を収録したものだが、伝統的な演奏法に基づいた誠にゆったりとのどかな曲から、驚異的なスピードで弦を弾くアップテンポな曲、また曲の起承転結がドラマチックに展開されるような作品など様々で、箏が既にポップミュージックやジャズ、クラシック音楽などとのコラボレーションも可能なところまで来ていることが実に良く分かった。

 参考資料として家内がネット検索して教えてくれた筝曲家、沢井一恵(1941~)のインタビュー記事を聞いて驚いたのは、彼女が武満徹や坂本龍一など現代日本を代表する作曲家の曲を演奏したり、五島みどりのバイオリンと組み合わせたコンサート活動を欧米で何度も行った上、ロシア人作曲家が彼女のために作った箏の曲をNHK交響楽団を背景にして演奏し、更に欧米でも様々なオーケストラと共演してきていることだ。彼女は欧米の大学に箏を寄贈すると同時に、弟子たちをその指導係として一緒に派遣し、各地の大学で邦楽講座を設けて筝曲の良さの普及に大きな貢献をしてきている。

 私たちはともすれば「国際的に活躍できる人間づくり」「グローバル人材の育成」などを強調しているが、その実態は未だに英語を学ぶことがその必要十分条件と考える風潮に染まっている。だが本当のグローバル人材とは、こうして日本の伝統文化の良さを理解し、それに誇りを持って海外でそれを分かりやすく伝えることができる人間だということを、こうした筝曲家の努力の跡から窺い知ることができるだろう。

 それにしても、私自身これまで毎年1月には国立小劇場で開催される邦楽公演を聴きに行っていたのだが、この3年ほどはコロナと失明とが重なってそれも果たせなくなっていた。だが、この正月はそうした「邦楽」の良さをCDで再確認することができ、まさに「こいつは春から縁起がいいわえ」の心境に浸っている。

(つづく)

47ホールでイングス株式会社幹部と会合

従心会倶楽部の大谷代表、松本理事は、47ホールデイングス株式会社 代表取締役 阿久根聡様、同管理部 松島卓郎様、及び、株式会社フーデイソン 代表取締役CEO 山本徹様と今後の会の運営について意見交換会を行った。

コタキナバル便り(コタキナバル在住 氏原康隆氏)

株式会社従心会倶楽部会員でマレーシア・コタキナバル在住の氏原康隆さんより寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
コタキナバルでは新型コロナウイルに対応するため全面的なロックダウンが行われるなど、これまでの生活が一変したと言うことです。

左が氏原康隆さん、右が奥様のティナさん

従心会倶楽部のみなさま、こんにちは。 しばらくご無沙汰をしておりました。今日はマレーシアから「コタキナバル便り」を寄稿させて頂きます。

「コタキナバル便り」を書き始めるには、やはり何故私達がコタキナバルにいるのか、その理由なくして語るのは難しいかもと考え,その経緯から始める事にしたいと思います。 私達家族がコタキナバルにやって来たのは2001年の9月16日でした。 丁度、アメリカで貿易センターに2機の飛行機が突っ込んだ同時多発テロの5日後の日でした。 当時、私は仕事でパキスタンに駐在していましたが、諸般の事情で飛島建設を退社し、後任者がやって来る時でも有りました。

後任者の着任数日後に前述の同時多発事故が発生。 本社ではアメリカの動きを察し、イスラマバード空港は軍によって閉鎖され飛行場は使用出来なくなり、イスラマバードでは通常の生活は出来なくなると判断し、後任者には直ぐにパキスタンから出ろと言う指示を出しました。 引き継ぎ作業も途中にして後任者は、翌日には日本に帰国してしまいました。 私達家族は取り残された形でイスラマバードに足止めをくらいました。 私達は後任者のように「バイバイ」と言って直ぐにパキスタンを出国する訳に行きません。 残された引き継ぎ書類の整理や、私達の家財道具の引越し準備に入らなければいけませんでした。 その間に、各大手の商社マンの家族、JICA職員の家族、日本大使館の家族の人達もパキスタンから一斉に出国して行きました。 私達家族にはどこからも何も指示は無く、その時は、「自分の身は自分で守るしかない」と思わされた数日間でした。

私はかなり以前から、会社を退職しても働かずして自分達の貯蓄の金利で日本からさほど遠くない所で生活が出来る国はないかと調べていました。 探し出すのにさほど時間は掛かりませんでした。 それは家内の故郷であるコタキナバルでした。 だから、パキスタンを脱出する際には、コタキナバル以外に思い付かず、行先に迷う気持ちは有りませんでした。 当時、私は52才。 私達の第2の新しい人生がスタートした瞬間でした。 そして、息子は中学1年生。 この時点では、息子に大きな試練が待ち構えているとは想像も出来ませんでした。

2001年9月、当時のコタキナバルは本当に生活し易い環境でした。 街を走る車数は少なく、街中のどこに行っても駐車場を探す必要はなく、駐車はどこでもすべて無料でした。 1ヶ月間の光熱費も2,500円程で十分。 二人で外食しても昼食は250円程、夕食は700円も有れば十分でした。 特に助かったのは銀行の金利でした。 通常の長期金利は4%、ブミプトラ(マレー人優遇政策)で優遇されている人達は13%、但し、預金額には600万円と上限有り。 家内はこの優遇を受ける事が出来助かりました。当時、不動産も驚く程安かったので、小高い丘の上に位置し、部屋のバルコニーから町と海が全貌出来る床面積200平方メートルのマンションを住居用として約1,000万円で購入。 ここでの収入源の足しになればと、街中の中心地に所在するリゾート・マンションを賃貸用(140平方メートル)として900万円で購入。 余った現金は銀行に預け、その金利と家賃で十分生活していける環境に有り、65才から受取れる年金は考慮する必要は有りませんでした。 ここ迄は、私達の第二の人生は計画通りでした。

私達の生活環境が激変したのは2020年3月18日からでした。 それは、誰しもが周知している世界を震撼させたコロナ・ウイルスです。 サバ州では、ウイルス(コロナ)による感染拡大を防ぐための措置として州政府はコタキナバル市を全面的にロックダウンした事でした。 コタキナバルと言う街は一夜にしてゴーストタウンと化し、それは本当に異様な世界でした。 車で街中を走っても誰一人として歩いている者はいません。 車の中も運転手以外は誰も同乗する事が出来ないほど厳しいものでした。 そして、何よりも私達が大変な思いをさせられたのは、そのロックダウン中に家内が部屋の置物につまづき転んで左腕を骨折した事でした。 感染が拡大している最中だったので、病院に行くのはとても不安でした。 幸い、近くに整体師(中国人)の先生が住んでいたのを家内が思い出し、病院に行くのを止めて、急遽、その先生宅に予約なしで訪問。 家内は車の中で必死に神様に祈りを捧げ、そのかいあってか無事に先生に応急処置をして頂ける事が出来ました。 後日、民間の総合病院を訪れ、完治とは言えないですが、日常の生活が出来る様になる迄に4ヶ月程掛かりました。 

そして、次に私達を非常に悩ませたのはコロナに対する感染防止策としてのワクチン接種です。 日本の様にワクチン管理が厳しくされていれば良いのですが、当地での医療(医師、看護師、設備)には問題が多過ぎます。 加えて、接種されるワクチンもファイザー、モデルナ、アストロゼネカ、それに加えて中国製の2種類のワクチン、5種類のワクチンがそれぞれクアランプールからサバ州に割り当てられた分量のワクチンが輸送されて来ます。 そこから病院ごとにワクチンが振り当てられ、割り当てられた病院でワクチン温度の管理、看護師によるワクチンの瓶から注射器への配分、注射器の管理等、管理項目は多岐に有り、それを地元の看護師が適切にこなすにはスキルが余りにも不足しています。 ワクチン接種に行って、そこで始めてどのワクチンを接種させられるのか知らされるのも不安です。 日本の新聞やTVではワクチン接種後の副作用や接種後に亡くなった人の記事を目にする事が出来ますが、ここではそう言った記事は政府の管理下にあり、我々は目にする事は全く出来ず、本当に大丈夫なのか不安が募るばかりです。 特にショックだったのは、何の持病も無かった知人の奥様がワクチン接種後翌日に亡くなった事でした。 ご主人は余りにもショックが大き過ぎて容貌は痴呆症の様に別人になってしまい、見るに耐えられない状態でした。 そして、それが記事に載る事も有りませんでした。 他にも同じような事例は有りますが、それらも全て記事になる事は有りませんでした。 憤りを感じましたが、虚しさの方が強く、その結果、私達はワクチン接種をしない事を決めました。 最近では規制も緩和され自由に動く事が出来ますが、当初は大変でした。 どこに行っても(ホテル、レストラン、ショッピングモール、教会、銀行、郵便局、学校等、病院以外のあらゆる施設)ワクチン証明書の提示(スマホでのアプリ)を求められ、私達にとってはとても厳しい生活環境に有りました。 家内と二人で「まるでモグラ生活だね」と言い合っていたのはその時期でした。 当然、私の学校でのバスケットボールのコーチ活動や自宅でのギター教室も全て中止となりました。  

昨年の12月からコタキナバルー成田の直行便が週に一便で再開致しました。 それ迄は、クアランプール経由で羽田か成田に着く便が有りましたが、感染の防止を考えれば、経由を避け出来るだけ多くの人達と交えない直行便がベストだと考えています。 航空運賃もコロナ禍以前であれば往復で5~6万円で行けていましたが、今は10~12万円と高額になっています。 このコロナ感染は、コタキナバルに長期滞在していた多くの日本人の人達にも暗い影を忍ばせています。 コタキナバル―成田間の直行便が再開したので、日本に一時帰国をしていた人達が戻ってくるのではと期待していましたが、その傾向が全く見当たりません。 通常であれば、日本人が集まり易いゴルフ場とかホテル、馴染みの日本料理店等に行けばチラホラ顔見知りの日本人を見かけますが、その姿が全く見られません。 私のコタキナバルでの囲碁友達も部屋(賃貸マンション)をそのままにして未だに帰って来ていないのは寂しい限りです。 加えて、ペナン島に長期滞在していたパキスタン時代から付合いの有った囲碁友達は、昨年日本に一時帰国をしていた際にコロナの影響を間接的に受けて亡くなりました。 今では、コタキナバルで対局出来る方が誰もおらず、Youtubeで観戦しながら時間を潰す日々となっています。

コタキナバルから優秀な若者が離れて行っているのを実感しています。 私が今日までに教えて来たギター教室での学生達や学校で教えていたバスケット部の学生達のほとんどがこの3年間の間にコタキナバルから消え去り、社会人となってコタキナバルで頑張っているのは私の知る限りでは数人だけです。 社会人となった若者はクアランプールやシンガポールに職場を求め、コタキナバルを離れて行きます。 裕福な家庭で育った学生は海外(英国、オーストラリア、ニュージーランド、米国)に留学し、卒業後はその国で仕事を見つける意向が強いです。 特に医療関係、建設関係はその傾向が強いです。 まず、その学生の親たちが地元に帰ってくるなと説得しています。 高度な教育を受けてもコタキナバルでその力を発揮出来る職場(会社)がないからです。 給与で比較するとクアランプールではコタキナバルの2倍、シンガポールでは3倍貰えると若者たちは言っています。 給与額にうんぬん言うのは表面的な問題かも知れません。 根本の問題は内部的な所にあり、それは人種的、宗教的な問題も絡んでいます。 マレーシアはやはり多民族で構成された国です。 マレー系の人達は政治を中心に、中国系の人達は経済を中心にと言う考え方は根強く残っています。 それは宗教的にも言える事で、イスラム主義は政治を、キリスト教とヒンズー教は経済をと言っている様にも捉える事が出来ます。 

コタキナバルに長期滞在して21年になろうとしています。 この先も長くコタキナバルに滞在するのであれば、マレーシアの永住ビザを取得しておいた方が良いと家内に勧められ、先日、関係部署に膨大な申請書を提出し、面接も終えました。提出後、20年経っても取得出来るか否か分からないと言われている代物ですが、取得出来れば、今後、マレーシアへの入国は滞在ビザを必要としないので助かります。  

先日、学校から連絡が入り、屋外でのスポーツも開始する事になったので、2月から再度バスケットボールのコーチをお願い出来ないかと問合せが有りました。 この3年間、運動不足になりがちだったので、即答で了承の意向を伝え老体に鞭をウチながらの日々が始まりそうです。 これから何年、コタキナバル生活が続けられるのか分かりませんが、体を鍛えて継続して運動を続けていれば80才までは可能ではと思っています。 その際には「コタキナバル便り」の続編として何か面白い変った出来事をお知らせする事が出来るのではと楽しみにしています。

マレーシア・コタキナバル在住
氏原康隆 氏

西久保八幡神社に参拝しご祈願致しました

1月10日、新年恒例の西久保八幡神社に参拝しご祈願致しました。
当日は、大谷代表をはじめ関係幹部、連携している株式会社東洋システム開発の松本社長をはじめ関係幹部,NPO法人ゆい思い出工房の青木理事長、南雲理事・事務局長が参列されました。

西久保八幡神社は、ここ数年改修工事が行われておりましたが、工事も完了し新しい神社に生れ変わりました。

風狂盲人日記 ⑬ 樋口一葉讃

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年12月末日

 年末になると樋口一葉の短編『大つごもり』を思い出す。

 明治20年頃、貧しい境遇の娘(18歳)が、商家に住み込みで下女として働いているが、年の暮れに伯父夫婦を訪ねたところ、幼い従弟の少年(8歳)を含めて親子3人が青白い顔をしてふさぎ込んでいる。聞けば、「あちこちに借金があって、とても年の瀬を越せそうにない」と言う。最低幾ら必要かと聞くと、2円(今ならザっと4万円)あれば何とか正月を迎えられそうだという。娘は「お給金の前借りをご主人に頼んで何とかするから、大晦日のお昼ごろ取りに来て」と約束する。だが店の奥さんは相手にしない。そこへ従弟がお金を受け取りに来たため切羽詰まって、娘は店の手文庫から1円札を2枚抜き取って、急いで少年に渡して帰らせる。その夜、意外な結末で娘の盗みは露見せずに済んだが、娘も伯父一家も新年には何の光明も見えない――。

 一葉の作品の登場人物の殆どは、こうした薄幸の少年少女たち。それを江戸戯作文と漢文混じりのキビキビとした文体で、簡潔に活写している。
 代表作『たけくらべ』も、浅草裏の下町に住む少年達が喧嘩ばかりしているのを宥めていた美登利(14歳)が、遊郭に身売りする話が中心となる。更に『にごりえ』では、遊女と客の心中事件が取り上げられている。

 一葉は明治5年に生まれて29年に没した。父は甲州の農家の出だが、田畑を売った金で八丁堀同心の株を買い、士族の末端に連なった。これで出世すると期待したのも束の間、明治維新で平民となり全財産を新しい商業組合づくりに注ぎ込んだが、失敗して無一文となった。失意のうちに亡くなり、17歳の一葉が母と幼い妹を抱えて家長となり、やり繰りしなくてはならない立場に立たされた。知り合いの間を駆け回って借金の申し込みをしたが軒並み断られ、僅かに3人が金を出してもいいと言ってくれたが、全て「身体と交換条件だ」「わしの囲い者になれ」ということを持ち出され、真っ青になって逃げ帰ってきた。そうした体験を基に、23歳から25歳までの約2年間に優れた作品10篇を書き綴ったわけだ。それを偶然目にした森鴎外、幸田露伴が激賞して原稿の執筆依頼が少しずつ舞い込むようになった。だが時既に遅し。栄養失調と過労に肺病を患ってほぼ寝たきりとなり、鴎外が医者を手配して診察させたが診断結果は「もはや手遅れ、打つ手なし」とのことで、その数日後には咳き込みながら息を引き取った。葬儀も出す金もないため、位牌に焼香に現れたのは近所の人達11人だけだったという。何とも悲惨な短い人生ではあった。

 井上ひさしの戯曲に『頭痛肩こり樋口一葉』がある。生活苦から10代で頭痛肩こりに悩まされた一葉の生活ぶりを描いた優れた作品で、再演を繰り返している。私は異なる配役でその舞台を3回観たが、そのうちCMガールからテレビタレントで人気だった宮崎美子が一葉を演じた時には「ミスキャストではないか」と思った。宮崎が天性のネアカ女性で、テレビでは常に明るく笑顔を振りまいている人で、一葉を演じるには無理があると思ったからだ。そしてその舞台は予想通り、宮崎一葉が常に笑顔を絶やさず母と妹を励まし、近所の人にも明るく振る舞っていて、場面が暗転する瞬間にフッと深刻に悩む表情になるということで通していた。それを観終わって、これは実は非常な適役ではないか、と考え直した。

 井上の小説、戯曲は常に「難しいことを易しく、暗い話を明るく、辛いことを楽しく」をモットーにした作品作りをこころがけている。どの作品も読みながら、あるいは観客として舞台を観ながら大いに笑わせ、見終わった後いろいろと考えさせるということで一貫している。

 五千円札に載っている一葉の顔を見ると、髪に櫛一つなくまた地味な着物を着て、その目は1~2メートル先を力も入れず見ているが、口はしっかりと真一文字に引き締めて芯の強さを感じさせる。とても20代前半の若い女性ではなく、かなり苦労した中年女性の表情としか思えない。その短い生涯を辿ってみると、将来に明るい展望を持てないまま、明日、明後日の生活をどうしようかと一人で悩みを内に抱え込んで黙っている静かな女性という印象が強い。それは恐らく明治時代の女性に多いタイプなのであろうし、決して彼女が例外的に一人苦しんでいた、ということではないだろう。現に彼女の小説のモデルになった娘たちの殆どは、彼女と全く同じ境遇であり、彼女自身も一歩違えば自分の小説で描いた女性たちと同じ運命を辿ることになったことは間違いないだろうから。

 一葉の文机の横には、書きかけの原稿やメモ類が大量に残され、4000首を越える和歌が残されていた。その和歌を辿ることで彼女の心の襞がより詳しく分かるのではないかと思うが、今の私にはそれは調べることもできない。
 ただ、彼女の心情を推し量れば、頼みにできる人も居ないまま、たった一人でひたすら自分を励ましつつ、必死の思いで書き続けた健気さが鮮明に浮かび上がる。

 私たちの生活を振り返ってみても、一年間に辛いこと、嫌なことは山ほどある。それを井上の描く一葉のように「明るく楽しく笑い飛ばす」ことで苦境を乗り越えるのが、しなやかで、逞しい「生きる術」だろう。新年もそう思って生きていきたい。

(つづく)

今年の漢字は「戦」に決定致しました

12月12日、「今年の漢字」が公益財団法人日本漢字能力検定協会より発表され、「戦」が第1位に選ばれました。
「今年の漢字」は例年、清水寺の貫主が大きな紙に書いて話題になっておりますが、今年も森清範 貫主が書き上げ清水寺に掲示されました。
清水寺に本社がある株式会社七味家本舗の福嶌良典社長(株式会社従心会倶楽部 理事)より写真をご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。

写真提供:株式会社七味家本舗 福嶌良典社長(15代当主)

 ことし1年の世相を漢字ひと文字で表す「今年の漢字」が京都の清水寺で発表され、「戦」の文字が選ばれました。
「今年の漢字」は、京都市に本部がある「公益財団法人日本漢字能力検定協会」が27年前の1995年(平成7年)に始めました。

 その年の世相を表す漢字ひと文字を全国から募集し、最も多かったものを「今年の漢字」として、毎年12月12日前後に京都市東山区にある清水寺で発表しています。
大きな和紙に一気に書き上げる様子は、師走の風物詩になっています。京都市東山区にある清水寺では12日午後2時すぎ、森清範 貫主が大きな和紙に「戦」の字を一気に書き上げました。

「戦」が選ばれたのは、アメリカの同時多発テロ事件などがあった2001年以来、2回目です。協会によりますと「戦」の字が選ばれた理由について、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻など戦争を意識した年であったことや、円安・物価高など生活の中での「戦い」を応募者の多くが体感したことをあげています。
また、サッカーワールドカップの日本代表が強豪のドイツやスペインを破ったほか、冬の北京オリンピックで日本人選手が活躍するなど、スポーツの熱戦が繰り広げられたこともあげています。
清水寺の森 貫主は「『戦』が選ばれたのは、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が非常に強い印象を残したためだと思います。来年は皆が心安らかに日々をおくれるような年になるよう願っています」と話していました。

「日本漢字能力検定協会」によりますと【トップ10は】次の通りでした。
2位「安」
3位「楽」
4位「高」
5位「争」
6位「命」
7位「悲」
8位「新」
9位「変」
10位「和」

勝又 美智雄先生の寄稿:「2022 年(令和 4 年)の回顧」

勝又美智雄先生は、毎年年末にその年の回顧を親しくされておられる方々にご送付されておられますが、目のご不自由な中、今年も「2022年(令和4年)の回顧」をお送りいただきました。ご本人の同意が得られましたのでご紹介させていただきます。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022 年暮れ

親愛なる皆さま

 一年間のご無沙汰ですが、皆さまご機嫌いかがでしょうか。私は今年初めから両目とも視界ゼロ、視力ゼロの全盲となり、同行援護なしでは病院通いも散歩などもできない状態になりました。しかし目以外は体調はまずまず上々で、朝昼晩の食事も美味しくいただき、殆ど毎日朝 9 時から夜 11 時ぐらいまで CD を聴いています。
昨年末の回顧文では、失明して、もはや読書もできなければ文章を書くこともできない、従ってこうした回顧文も書けなくなりそうだと記しましたが、この1年間様々な体験があり、「目が見えなくても書ける」ことを発見し、それによって精神的にも安定して、今年もこの私的回顧文を書くことに致しました。

 まず失明後の情報収集として、昨年春から始めた点字図書館の文芸書の朗読 CDを借り出して聴くということをずっと続けています。昨年は『平家物語』に始まって、『太平記』、『雨月物語』など江戸文学をサッと聞きました。続けて今年は明治以降、森鴎外、夏目漱石、幸田露伴、芥川龍之介、永井荷風、柳田國男などの主要作品をほぼ全部聴き、特に戦後のものとして井上靖、松本清張を数十冊聴いています。
目で読めば文庫本などは 1 時間に 70~80 ページのペースで読んでいましたが、朗読 CD ではそのスピードが半分なので倍の時間がかかります。耳で聴くだけだと却って集中して意味を取りながらストーリーを追うことで、案外良く頭に入ってくる気がします。

 振り返ってみれば、毎月ほぼ 20 冊以上聴いているので、1年間に 250 冊は読んでいると思います。その中で井上靖や松本清張の作品などでは、その緻密な構成と登場人物の心理への踏み込み方に実に鋭く深いものがあり感心する一方、夏目漱石の 40代の新聞小説十数本は、どれも内容が浅薄でしかも深みがなく、駄作ばかりではないかと驚いたのも新しい発見でした。
また、区立図書館から借りてくる市販の CD は、能の謡曲全集から始まって、講談、浪曲(広沢虎造の『国定忠治』『清水次郎長伝』など)、清元・常磐津・長唄、詩吟に童謡・わらべ歌など、ザっと 300 枚ぐらいは聴いたと思います。なかでも特に多かったのが落語で、志ん生、志ん朝、円生、米朝、枝雀、談志、志の輔などの全集物だけで約200枚にのぼり、公共図書館の在庫の豊富さに感謝しています。

 新年は、朗読 CD は海外の作品、普通 CD も日本民謡集からクラシック音楽へと広げていくつもりです。
こうした「聴く」楽しみだけでなく、「書く」楽しみもこの1年随分ありました。
まず第一に、シニア世代のための文化団体、従心会が「自由に何でもいいから書かないか」と誘ってくれたのに応じて、3月から 11 月までに計 12 回「風狂盲人日記」と題する連載エッセイを書き綴り、会のホームページに掲載してくれています(https://jushinkai.com/blog/)。
1回の分量は 2000 字平均で、自分の色んな体験を楽しんで書いていて、それが会員の人たちの間でも好評ということで、私としても気を良くして暫く続けていこうと思っています。
また、学会や教育団体の役職は殆ど外れましたが、Zoom での研究会や会議には相変わらず出席して人の話を聞きながら自由に発言することを続けています。それが毎月1、2回は必ずあるのも生活の励みになっています。更に、グローバル人材育成教育学会の会長を退いたのを機に、学会誌の論壇に私の評論を纏めて 5000 字以上書き送り、学会の支部大会でも Zoom で挨拶を頼まれたり、シンポジウムに登場して話をするなどの機会を与えてもらって楽しんでいます。また国際交流団体 IAC(国際芸術家センター)からの依頼で、この秋 Zoom による連続講演を3回実施しました。日本と世界との関係を考えるシリーズの初めての試みということで、①20 世紀に求められた国際人と 21 世紀に求められるグローバル人材の違い②鴎外、漱石、永井荷風の3人に見る留学の意味と意義③日本人と外国人の日本に対する大きな認識ギャップ―― の 3 点について、各回 45 分講演し、30 分参加者との質疑応答をするということで、これも毎回参加した 40 数人の人達からは大変好評ということで、新年にも更に別のテーマで連続講演をして欲しいと頼まれ、基本的に引き受けることにした次第です。

 2年前失明した当時は絶望的な気持ちで落ち込みもしましたが、回復しようのないものは運命と諦め、そのまま受け止めるしかないと覚悟を決め、その上で、では耳で何ができるかということを考え、この1年いろいろ模索してきた訳ですが、その結果として、予想以上に色んなことができるのだということが分かり、改めて自信を回復してきた感じがしています。
但しこうしたことは全て私一人ではできるものではなく、受け取ったメールを教えてくれるのも、またその返事を口述筆記で書き送ってくれるのも家内であり、この回顧文もそうですが、評論・エッセイ類などの文章も全て、iPhone に私が吹き込んだものを家内が空いている時間に起こして事実関係や、特に数字の間違いなどを訂正しながら直してくれ、それを聞き直して必要な文章の訂正をしながら完成原稿を送るということをやっています。その意味で、私の全ての社会的活動は家内の助けが無くては全くできないものであり、昨年の回顧文に引き続き、家内に感謝、感謝の気持ちを記しておくところです。

 最後になりますが、我が家の大きなニュースとして老猫モモが 11 月末に亡くなりました。22 歳7ヶ月、人間の年齢にすれば 106 歳ということで、かかりつけのペットクリニックでも「よく元気に長生きしている」と感心していました。それが家内の膝の上で寝たまま静かに息を引き取ったもので、苦しんだ様子もなく「大往生」と言えるでしょう。翌日に家内が近くのペット葬儀所に連れて行き火葬を済ませ、小さな骨壺に入って戻ってきました。長い間家族として親しみ、家内にベッタリと付き、家内が居ない時には私の足許にまつわりついて、膝に乗せるとそのまま大人しくひたすら静かに寝ていました。
居なくなってみると「ペットロス」で色んな場面を思い出して胸が痛むこともありますが、今はよく長生きしてくれた、と感謝しているところです。

 こうした事情ですが、体調は相当元気で、電話の応対も無理なくできます。どうか皆さま、いつでも結構ですから気が向いた時にメールなり、特にお電話を頂ければ幸いです。原則午前 9 時から夜 9 時ぐらいの間でしたら大丈夫です。
コロナ禍もまだしつこく続いていますが、どうぞ皆さまお互いに気を付けて楽しく年を越し、新年も明るく元気に過ごすように心がけましょう。私も来年末の回顧文では更にまた「進化」した話が書けるよう努めていきたいとおもっています。

〔勝又 美智雄先生の連絡先〕
   携帯電話:090-4595-8867
   メール:katsumatamichio@gmail.com