W.A.S Riverside nature terrace開所式(W=和歌山、A=有田川、S=清水町)

 従心会倶楽部の会員である株式会社全笑(平野仁智代表取締役社長)では、かねてから和歌山県有田川町にある複合施設のリニュアル事業を進めておりましたがこのほど完成し、3月1日に「W.A.S Riverside nature terrace」として開所式が行われ、従心会倶楽部からは、大谷代表と松本理事が出席致しました。
株式会社全笑より開所式の模様を寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。

 晴天に恵まれた2023年3月1日、株式会社全笑は和歌山県有田川町清水の W.A.S Riverside nature terraceのリニューアルの開所式を無事に開催する事ができました。

 この施設のある有田川町は日本一の山椒の産地ですが、高齢化・人口流出など多くの問題を抱え、町のランドマーク的存在のこの施設も閑散期と繁忙期の差が激しく毎年赤字が続いておりました。
この施設を弊社代表平野が、地域、高野山、バックアップ企業等を結びつけ活気のある施設にたてなおすべく進めてきた事業です。この趣旨にご賛同いただいた高野山関係者、有田川町町長、副町長、行政関係者、企業様等、約70名に出席いただき盛大に開催いたしました。

主な参加者
有田川町町長 中山様、副町長 坂頭様、教育長 片嶋様、高野山真言宗別格本山 普賢院院家 森様、株式会社角濱総本舗 角濱社長、株式会社中本名玉堂 中本社長様、公益財団法人オイスカ顧問中野様、株式会社 従心会倶楽部 大谷社長様、ソルビバ株式会社 竹内社長様、東洋システム開発株式会社 松本社長様、税理士法人be 篠田会長様、金印わさび株式会社 石川社長様、株式会社 美ノ久 取締役部長田口様、生産者側より、JAありだ 代表理事組合長 森田様、JAありだ理事 宮本様、ありだ山椒組合 部会長 平野様、一般社団法人 大和屋 代表 見座様、株式会社 ロゴスコーポレーション 河田様 等。

平野仁智社長の方針発表

これまでの取組み、地域課題、今後の展望を発表する平野社長

試食会

試食会風景
開所式の締めのご挨拶をしていただいた有田川町長 中山様
熊野牛のステーキプラン
鶏すき焼プラン
美味しく焼いてくださる竹内社長
宿泊施設前にて
左からロゴスコーポレーション 河田様
全笑 法橋、松本 社長、平野社長、角濱社長
普賢院 森様、大谷代表、京都信用金庫 野々口様

主な施設

宿泊施設 レ・アーリ
木材を活かした室内
満天の星空を眺められるテラス
宿泊の目玉
夫婦揃って入れる露天の五右衛門風呂
ワンちゃんも一緒に宿泊できるドームテント

今後の展望

 高野山、バックアップ企業、行政、全笑、地域の方々とでタッグを組み有田川地域が活性化し交流人口が増え、清水町への移住定住が増えるように努めて参ります。また中山間地域の課題は全国的にも共通だと思いますので中山間地域の農業の必要性を説き全国でもモデルケースになるような事業にして参りたいと思いますので今後ともご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。


3月18日より本格稼働
ドームテントでの宿泊は4月中旬から
詳しくはホームページもしくは担当 松原までお問合せ下さい。
0737-25-1288

株式会社全笑ご紹介
代表者:代表取締役社長 平野仁智
所在地:〒610-1105 京都府京都市大枝塚原町3-152 シャルレ桂坂1F
電話:075-874-3198
Webサイト:https://zensho-net.com/

第17回ゆい歴史散歩 参加者募集中「武蔵野の自然・さくら・江戸の水瓶を訪ねる」

さくらの花の開花が待ち遠しい季節となりましたが、株式会社従心会倶楽部では、NPO法人ゆい思い出工房と連携して第17回ゆい歴史散歩「武蔵野の自然・さくら、江戸の水瓶(すいびょう)を訪ねる」のテーマで実施することとし、参加者の募集を開始致しましたのでご案内申し上げます。多くの皆様のご参加をお待ちしております。

徳川家康は江戸の街を作るにあたり生活用水に苦心したようです。
そんな折、武蔵野に広がる善福寺公園、井の頭公園を《江戸市民の水瓶》として利用しました。
今回の散歩は武蔵野に広がる善福寺公園、井の頭公園、時間が許せば玉川上水の側道を散歩します。「東京にもこんな大自然が残っているのだ」と驚く事でしょう。
途中バス利用で、約1万3千歩の散策です。皆様の参加を待ちしております。

実施概要

1.開催日2023年3月24日(金)
2.集合場所/時間JR中央線 西荻窪駅改札口 10時集合
3.参加費4,000円
(入場料、昼食代、コーヒー代等を含む)
4.参加費振込銀行口座株式会社従心会倶楽部
城南信用金庫 新橋支店 普通 469126 カ)ジュウシンカイクラブ
5.募集定員20名(先着順)
6.締切日3月18日(土)
7.連絡先青木 豊 y.aokicx@s7.dion.ne.jp 090-9304-3212
津久井 均 h.tsukui@jushinkai.com 090-4590-0404

散歩コース概要

JR西荻窪駅からバス ⇒ カフェカワセミピプレット ⇒ 善福寺公園(下、上の池)
⇒ 東京女子大前からバス ⇒ 井の頭公園近くで昼食会 ⇒ 井の頭公園散策 ⇒
山本有三記念館 ⇒ 玉川上水川脇道 ⇒ 太宰治入水の碑、文学サロン、展示室
⇒ JR三鷹駅にて解散(午後4時頃)

参加申込(こちらのリンクをクリックして下さい)

写真で見る武蔵野 善福寺公園~井の頭公園~三鷹 へ


喫茶店カフェカワセミピプレット

喫茶店カフェカワセミピプレットで美味しいコーヒー、紅茶を飲んでスタートします。
頼朝伝説 遅の井の滝 

頼朝が弓で掘ったら清水 が湧き出した。でも水が出るのが遅いので遅の井の水と言う。

善福寺公園

善福寺公園は、池を豊かな樹木が取り囲み、武蔵野の面影を伝えています。池にはカワセミ、サギもよく見られ「野鳥観察の聖地」でもあります。
井の頭公園

井の頭公園も江戸の水瓶として重要でした。湧水量も多く、神田川の源流でした。弁財天が祀られている。


井の頭公園の「お茶の水」

「お茶の水」の湧水は家康が飲み天下の名水と褒めたたえた。
山本有三記念館

井の頭公園脇に文豪・山本有三の立派な記念館があります。
氏は路傍の石、米百票、真実一路等等の名作を著しています。
太宰治入水の碑

太宰治の心中場所に建つ碑です。
玉川上水は、江戸市中への給水を目的として羽村からお茶ノ水まで43㎞に亘ります。
太宰治文学サロン

三鷹周辺は太宰治が愛した街で、最近オープンした《太宰治文学サロン》があります。
太宰の作品が部屋いっぱい並び、ファンの方が多く訪れて

参加申込(こちらのリンクをクリックして下さい)

第2回 ゆいWEBフォトコンテスト審査の実施

NPO法人ゆい思い出工房では、昨年当社も協賛した「第2回ゆいフォトコンテスト」を行い多数の応募がありました。この程、浦安市街づくり活動プラザで審査会が行われ入選作品、優秀作品が選ばれました。
審査会の模様を寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。

 NPO法人ゆい思い出工房ではこのほど「第2回絆100公募展Webフォトコンテスト」を実施しました。2018年に開催した第一回目では全国各地から471点(198名)のたくさんの応募をいただきましたが、今回はそれを大きく上回り519点(251名)という応募で大成功を収めました。「素敵な『人と人との絆』そのイメージは?」というテーマのもと、200字以内のコメントを添えての今回のこのコンテストでは、1人ひとり、思い思いに「絆」をイメージした、見る人の心に響く作品が多く寄せられました。

 そして去る2月10日、写真家・三輪薫氏、写真家・林義勝氏、弁護士・岩渕正紀氏、株式会社従心会倶楽部 代表取締役・大谷武彦氏による審査のもと、金・銀・銅・優秀賞をはじめ入選100点が選ばれました。

プリントされた作品群を眺め優秀作品を選ぶ審査風景

風狂盲人日記 ⑮ 私のオキナワ

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
第15回目の今回のテーマは「私ノオキナワ」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年2月×日

 今月もまだ寒い日が続いている。同行援護者の腕につかまって歩きながら、冷たい北風を顔に受けていると、また沖縄に行きたいなあ、と想う。2年半前に失明するまで約20年間、ほぼ毎年2回は沖縄に行っていた。南の空と海、住む人たちと歌と踊りの背景にある歴史を辿りながら沖縄各地を歩くことが、日本の近現代史を考え直す上でも極めて大事なことだと思っているからだ。

 初めて沖縄を訪れたのは1982年の夏、米政府から沖縄が「本土並み返還」された10年後。その実情がどうなのかを知りたくて訪ねたのがきっかけだった。「沖縄に米軍基地がある」ではなく「基地の中に沖縄がある」という感が強く、普天間基地などでは今でも爆撃機の発着が頻繁に続いている。戦後既に77年にもなるが、沖縄はまだ戦中・戦後の傷痕をずっと引きずっていると痛感させられる。

 91年から年に1度は沖縄に行こうと決め、あちこち見て歩いたが、大学の同級生で、学生時代にマグロ漁船に乗ってインド洋に行き、その後ヨーロッパを長く放浪していた男Kが那覇に戻って予備校を経営していることを知り、20年ぶりに再会してから沖縄行きに弾みがついた。私が沖縄に行けば必ずKが空港まで迎えに来て、滞在期間の大半を一緒にいて、あちこち案内してくれた。那覇の一番の繁華街、国際通りあたりを歩くと必ず知り合いに会い、立ち話をし、紹介される。沖縄そばや魚料理、豚料理などの旨い店を紹介すると言って連れて行かれるのは、大抵しもた屋の大衆食堂で、夜はもっぱら島唄を聞かせる居酒屋・スナックで、女将やママさん達と実に楽しそうに話をする。島唄ライブの店では、三線を1、2曲聞くと、「もうたまらん」とつぶやいて立ち上がり、ステージのそばまで行って両手を広げ嬉しそうに踊り出す。私もそれに何度付き合って踊ることになったか、数えきれない。

 国際通りの雑居ビル2階に喜納昌吉のライブハウスがあった。最後の演奏を終えた後、午後11時過ぎから喜納とKと私の3人で泡盛を飲みながら午前3時過ぎまで話し込んだことがある。喜納は国会議員をした体験から政治不信を募らせ、「国家など要らない」と無政府主義的な発言を繰り返した。Kも「人はどんな境遇にあっても生きて行けるさ」と頷き、私は「現実に背を向けるか、体制に立ち向かうかで人の価値観、生き方が決まるなあ」と評論家風な発言をした。最後は島民の慣用句である「なんくるないさー(なるようになるさ、仕方ない、何とかなるさ、など多義的な表現)」と笑って、「そのうちにまた話そう」と言って別れた。その店も10年ほど前になくなった。

 Kの特技は人と人とを結びつけること。おかげで随分沖縄に知り合いができたし、Kが7年前病死した後彼の行きつけの店に行くと、噂で聞いているという女将や、「え、Kさんが亡くなったの!!」と驚いて、みるみる涙をいっぱい流すママさんたちが、その後しんみりと、如何にKが心優しい男であったかを様々なエピソードを混じえて語ってくれた。

  島唄の囃子言葉に「ハー、ユイユイ」があり、このユイは「結」だと聞いた。那覇空港から首里城までのモノレールも愛称は「ユイマール」であり、人と人の心を結びつけるのが沖縄、ということを象徴したネーミングになっている。Kはまさにその「ユイ」を大事にするウチナンチュウ(沖縄人)の代表だったような気がする。

  Kと会えば、別れる時は必ず「今度いつ来る」と聞かれ、「来年」と答えれば「もっと早く来いよ」と何度も繰り返す。そこで2000年頃から年2回、それも最初は1回に3~4日程度だったが、だんだん期間を延ばし、1回に1週間から2週間は居ることにしていた。Kが亡くなってからも息子さんが父親と同じように何度も「また来てください。歓迎します」と連絡をしてくるので、沖縄行きは止められないな、と思っていた。それが2年半前に失明し、もう旅行は無理だと殆ど諦めてきているが、最近、「もしかしたらまた行けるようになるかもしれない」と思うようになってきた。特に冬の期間、12月から2月が最も快適で、気温は20度以下にはめったに下がらず、夜でもTシャツに上着で済む。できれば来年の2月頃には行ければいいな、と思っている。

(つづく)

公益財団法人オイスカ 永石専務理事と懇談

2月17日、公益財団法人オイスカ 永石安明専務理事(事務局長)と大谷代表と松本理事が懇談しました。
永石様は、現在オイスカのプロジェクト推進のためインドや東南アジア各国のご出張されるなどご活躍されておられます。

中央が永石安明専務理事

【公益財団法人オイスカ】
代表理事: 中野悦子 氏
本部: 〒168-0063 東京都杉並区和泉2-17-5
Webサイト: https://oisca.org/

当会会員の南野洋氏が来社されました

2月17日当会会員の南野洋氏が来社され意見交換を行いました。
南野さんは独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構の建築課の課長補佐を務められ、更に今年3月に相模東急直通線が開通致しますが、その新横浜駅の駅舎などの開発を担当されておられます。

同氏はまた当社の顧問であります南野脩先生(工学博士)のご子息であると同時に、何よりも当会の創業中心メンバーとして長く会の運営をリードされた今は亡き南野徹氏の甥でもあります。南野徹氏とのことを懐かしく回顧いたしました。

向かって左が南野洋氏

風狂盲人日記 ⑭ お正月には箏(そう)の音を

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「お正月には箏の音を」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年1月×日

 お正月には箏の音を聴こう、と思い立って東京都足立区立中央図書館から筝曲のCDを計10枚借りてきた。昔(と言っても私が小中学生から高校時代にかけての昭和30~40年代)の正月には、町の商店街や公民館などの有線放送スピーカーから、必ずと言っていいほど宮城道雄の『春の海』が聞こえてきていた。都会のデパートでも、正月の店内BGMの定番が『春の海』あるいは古曲の『六段』だったと記憶している。

 宮城道雄(1894~1956)は8歳の頃から視覚障害となり、10代後半には全盲となったが、幼くして筝曲を学び、10代半ばには生田流の免許皆伝を受け、弟子を指導するほどにもなっていた。『春の海』は1929年(昭和4年)に彼の作った作品だが、フランスのバイオリン奏者が早くに注目し、ヨーロッパに紹介したため、戦前から箏の名曲として世界的に知られるようになっていた。宮城は長短合わせて100曲を越す作品を作曲しただけでなく、13弦の箏では飽き足らず、17弦、さらに20弦以上も備える新しい箏も開発するほど研究熱心で、壮年以降も大変な活躍が期待されていたが、演奏旅行の途中列車のデッキから転落して死亡するという事故で惜しくも62歳という若さで亡くなった。

 彼の筝曲は、ゆったりした流れの中で箏の複雑微妙な響きを豊かに感じさせる典雅なものが多く、聴いていて心が和む。もっと長生きしてくれれば、更に素晴らしい曲をたくさん作ったのではないか、と思われるのが誠に残念だ。

 借りたCDで驚いたのは「現代の筝曲」シリーズ5枚組だ。戦後も1970年代以降活躍してきた若い筝曲家の演奏を収録したものだが、伝統的な演奏法に基づいた誠にゆったりとのどかな曲から、驚異的なスピードで弦を弾くアップテンポな曲、また曲の起承転結がドラマチックに展開されるような作品など様々で、箏が既にポップミュージックやジャズ、クラシック音楽などとのコラボレーションも可能なところまで来ていることが実に良く分かった。

 参考資料として家内がネット検索して教えてくれた筝曲家、沢井一恵(1941~)のインタビュー記事を聞いて驚いたのは、彼女が武満徹や坂本龍一など現代日本を代表する作曲家の曲を演奏したり、五島みどりのバイオリンと組み合わせたコンサート活動を欧米で何度も行った上、ロシア人作曲家が彼女のために作った箏の曲をNHK交響楽団を背景にして演奏し、更に欧米でも様々なオーケストラと共演してきていることだ。彼女は欧米の大学に箏を寄贈すると同時に、弟子たちをその指導係として一緒に派遣し、各地の大学で邦楽講座を設けて筝曲の良さの普及に大きな貢献をしてきている。

 私たちはともすれば「国際的に活躍できる人間づくり」「グローバル人材の育成」などを強調しているが、その実態は未だに英語を学ぶことがその必要十分条件と考える風潮に染まっている。だが本当のグローバル人材とは、こうして日本の伝統文化の良さを理解し、それに誇りを持って海外でそれを分かりやすく伝えることができる人間だということを、こうした筝曲家の努力の跡から窺い知ることができるだろう。

 それにしても、私自身これまで毎年1月には国立小劇場で開催される邦楽公演を聴きに行っていたのだが、この3年ほどはコロナと失明とが重なってそれも果たせなくなっていた。だが、この正月はそうした「邦楽」の良さをCDで再確認することができ、まさに「こいつは春から縁起がいいわえ」の心境に浸っている。

(つづく)

47ホールでイングス株式会社幹部と会合

従心会倶楽部の大谷代表、松本理事は、47ホールデイングス株式会社 代表取締役 阿久根聡様、同管理部 松島卓郎様、及び、株式会社フーデイソン 代表取締役CEO 山本徹様と今後の会の運営について意見交換会を行った。

コタキナバル便り(コタキナバル在住 氏原康隆氏)

株式会社従心会倶楽部会員でマレーシア・コタキナバル在住の氏原康隆さんより寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
コタキナバルでは新型コロナウイルに対応するため全面的なロックダウンが行われるなど、これまでの生活が一変したと言うことです。

左が氏原康隆さん、右が奥様のティナさん

従心会倶楽部のみなさま、こんにちは。 しばらくご無沙汰をしておりました。今日はマレーシアから「コタキナバル便り」を寄稿させて頂きます。

「コタキナバル便り」を書き始めるには、やはり何故私達がコタキナバルにいるのか、その理由なくして語るのは難しいかもと考え,その経緯から始める事にしたいと思います。 私達家族がコタキナバルにやって来たのは2001年の9月16日でした。 丁度、アメリカで貿易センターに2機の飛行機が突っ込んだ同時多発テロの5日後の日でした。 当時、私は仕事でパキスタンに駐在していましたが、諸般の事情で飛島建設を退社し、後任者がやって来る時でも有りました。

後任者の着任数日後に前述の同時多発事故が発生。 本社ではアメリカの動きを察し、イスラマバード空港は軍によって閉鎖され飛行場は使用出来なくなり、イスラマバードでは通常の生活は出来なくなると判断し、後任者には直ぐにパキスタンから出ろと言う指示を出しました。 引き継ぎ作業も途中にして後任者は、翌日には日本に帰国してしまいました。 私達家族は取り残された形でイスラマバードに足止めをくらいました。 私達は後任者のように「バイバイ」と言って直ぐにパキスタンを出国する訳に行きません。 残された引き継ぎ書類の整理や、私達の家財道具の引越し準備に入らなければいけませんでした。 その間に、各大手の商社マンの家族、JICA職員の家族、日本大使館の家族の人達もパキスタンから一斉に出国して行きました。 私達家族にはどこからも何も指示は無く、その時は、「自分の身は自分で守るしかない」と思わされた数日間でした。

私はかなり以前から、会社を退職しても働かずして自分達の貯蓄の金利で日本からさほど遠くない所で生活が出来る国はないかと調べていました。 探し出すのにさほど時間は掛かりませんでした。 それは家内の故郷であるコタキナバルでした。 だから、パキスタンを脱出する際には、コタキナバル以外に思い付かず、行先に迷う気持ちは有りませんでした。 当時、私は52才。 私達の第2の新しい人生がスタートした瞬間でした。 そして、息子は中学1年生。 この時点では、息子に大きな試練が待ち構えているとは想像も出来ませんでした。

2001年9月、当時のコタキナバルは本当に生活し易い環境でした。 街を走る車数は少なく、街中のどこに行っても駐車場を探す必要はなく、駐車はどこでもすべて無料でした。 1ヶ月間の光熱費も2,500円程で十分。 二人で外食しても昼食は250円程、夕食は700円も有れば十分でした。 特に助かったのは銀行の金利でした。 通常の長期金利は4%、ブミプトラ(マレー人優遇政策)で優遇されている人達は13%、但し、預金額には600万円と上限有り。 家内はこの優遇を受ける事が出来助かりました。当時、不動産も驚く程安かったので、小高い丘の上に位置し、部屋のバルコニーから町と海が全貌出来る床面積200平方メートルのマンションを住居用として約1,000万円で購入。 ここでの収入源の足しになればと、街中の中心地に所在するリゾート・マンションを賃貸用(140平方メートル)として900万円で購入。 余った現金は銀行に預け、その金利と家賃で十分生活していける環境に有り、65才から受取れる年金は考慮する必要は有りませんでした。 ここ迄は、私達の第二の人生は計画通りでした。

私達の生活環境が激変したのは2020年3月18日からでした。 それは、誰しもが周知している世界を震撼させたコロナ・ウイルスです。 サバ州では、ウイルス(コロナ)による感染拡大を防ぐための措置として州政府はコタキナバル市を全面的にロックダウンした事でした。 コタキナバルと言う街は一夜にしてゴーストタウンと化し、それは本当に異様な世界でした。 車で街中を走っても誰一人として歩いている者はいません。 車の中も運転手以外は誰も同乗する事が出来ないほど厳しいものでした。 そして、何よりも私達が大変な思いをさせられたのは、そのロックダウン中に家内が部屋の置物につまづき転んで左腕を骨折した事でした。 感染が拡大している最中だったので、病院に行くのはとても不安でした。 幸い、近くに整体師(中国人)の先生が住んでいたのを家内が思い出し、病院に行くのを止めて、急遽、その先生宅に予約なしで訪問。 家内は車の中で必死に神様に祈りを捧げ、そのかいあってか無事に先生に応急処置をして頂ける事が出来ました。 後日、民間の総合病院を訪れ、完治とは言えないですが、日常の生活が出来る様になる迄に4ヶ月程掛かりました。 

そして、次に私達を非常に悩ませたのはコロナに対する感染防止策としてのワクチン接種です。 日本の様にワクチン管理が厳しくされていれば良いのですが、当地での医療(医師、看護師、設備)には問題が多過ぎます。 加えて、接種されるワクチンもファイザー、モデルナ、アストロゼネカ、それに加えて中国製の2種類のワクチン、5種類のワクチンがそれぞれクアランプールからサバ州に割り当てられた分量のワクチンが輸送されて来ます。 そこから病院ごとにワクチンが振り当てられ、割り当てられた病院でワクチン温度の管理、看護師によるワクチンの瓶から注射器への配分、注射器の管理等、管理項目は多岐に有り、それを地元の看護師が適切にこなすにはスキルが余りにも不足しています。 ワクチン接種に行って、そこで始めてどのワクチンを接種させられるのか知らされるのも不安です。 日本の新聞やTVではワクチン接種後の副作用や接種後に亡くなった人の記事を目にする事が出来ますが、ここではそう言った記事は政府の管理下にあり、我々は目にする事は全く出来ず、本当に大丈夫なのか不安が募るばかりです。 特にショックだったのは、何の持病も無かった知人の奥様がワクチン接種後翌日に亡くなった事でした。 ご主人は余りにもショックが大き過ぎて容貌は痴呆症の様に別人になってしまい、見るに耐えられない状態でした。 そして、それが記事に載る事も有りませんでした。 他にも同じような事例は有りますが、それらも全て記事になる事は有りませんでした。 憤りを感じましたが、虚しさの方が強く、その結果、私達はワクチン接種をしない事を決めました。 最近では規制も緩和され自由に動く事が出来ますが、当初は大変でした。 どこに行っても(ホテル、レストラン、ショッピングモール、教会、銀行、郵便局、学校等、病院以外のあらゆる施設)ワクチン証明書の提示(スマホでのアプリ)を求められ、私達にとってはとても厳しい生活環境に有りました。 家内と二人で「まるでモグラ生活だね」と言い合っていたのはその時期でした。 当然、私の学校でのバスケットボールのコーチ活動や自宅でのギター教室も全て中止となりました。  

昨年の12月からコタキナバルー成田の直行便が週に一便で再開致しました。 それ迄は、クアランプール経由で羽田か成田に着く便が有りましたが、感染の防止を考えれば、経由を避け出来るだけ多くの人達と交えない直行便がベストだと考えています。 航空運賃もコロナ禍以前であれば往復で5~6万円で行けていましたが、今は10~12万円と高額になっています。 このコロナ感染は、コタキナバルに長期滞在していた多くの日本人の人達にも暗い影を忍ばせています。 コタキナバル―成田間の直行便が再開したので、日本に一時帰国をしていた人達が戻ってくるのではと期待していましたが、その傾向が全く見当たりません。 通常であれば、日本人が集まり易いゴルフ場とかホテル、馴染みの日本料理店等に行けばチラホラ顔見知りの日本人を見かけますが、その姿が全く見られません。 私のコタキナバルでの囲碁友達も部屋(賃貸マンション)をそのままにして未だに帰って来ていないのは寂しい限りです。 加えて、ペナン島に長期滞在していたパキスタン時代から付合いの有った囲碁友達は、昨年日本に一時帰国をしていた際にコロナの影響を間接的に受けて亡くなりました。 今では、コタキナバルで対局出来る方が誰もおらず、Youtubeで観戦しながら時間を潰す日々となっています。

コタキナバルから優秀な若者が離れて行っているのを実感しています。 私が今日までに教えて来たギター教室での学生達や学校で教えていたバスケット部の学生達のほとんどがこの3年間の間にコタキナバルから消え去り、社会人となってコタキナバルで頑張っているのは私の知る限りでは数人だけです。 社会人となった若者はクアランプールやシンガポールに職場を求め、コタキナバルを離れて行きます。 裕福な家庭で育った学生は海外(英国、オーストラリア、ニュージーランド、米国)に留学し、卒業後はその国で仕事を見つける意向が強いです。 特に医療関係、建設関係はその傾向が強いです。 まず、その学生の親たちが地元に帰ってくるなと説得しています。 高度な教育を受けてもコタキナバルでその力を発揮出来る職場(会社)がないからです。 給与で比較するとクアランプールではコタキナバルの2倍、シンガポールでは3倍貰えると若者たちは言っています。 給与額にうんぬん言うのは表面的な問題かも知れません。 根本の問題は内部的な所にあり、それは人種的、宗教的な問題も絡んでいます。 マレーシアはやはり多民族で構成された国です。 マレー系の人達は政治を中心に、中国系の人達は経済を中心にと言う考え方は根強く残っています。 それは宗教的にも言える事で、イスラム主義は政治を、キリスト教とヒンズー教は経済をと言っている様にも捉える事が出来ます。 

コタキナバルに長期滞在して21年になろうとしています。 この先も長くコタキナバルに滞在するのであれば、マレーシアの永住ビザを取得しておいた方が良いと家内に勧められ、先日、関係部署に膨大な申請書を提出し、面接も終えました。提出後、20年経っても取得出来るか否か分からないと言われている代物ですが、取得出来れば、今後、マレーシアへの入国は滞在ビザを必要としないので助かります。  

先日、学校から連絡が入り、屋外でのスポーツも開始する事になったので、2月から再度バスケットボールのコーチをお願い出来ないかと問合せが有りました。 この3年間、運動不足になりがちだったので、即答で了承の意向を伝え老体に鞭をウチながらの日々が始まりそうです。 これから何年、コタキナバル生活が続けられるのか分かりませんが、体を鍛えて継続して運動を続けていれば80才までは可能ではと思っています。 その際には「コタキナバル便り」の続編として何か面白い変った出来事をお知らせする事が出来るのではと楽しみにしています。

マレーシア・コタキナバル在住
氏原康隆 氏

西久保八幡神社に参拝しご祈願致しました

1月10日、新年恒例の西久保八幡神社に参拝しご祈願致しました。
当日は、大谷代表をはじめ関係幹部、連携している株式会社東洋システム開発の松本社長をはじめ関係幹部,NPO法人ゆい思い出工房の青木理事長、南雲理事・事務局長が参列されました。

西久保八幡神社は、ここ数年改修工事が行われておりましたが、工事も完了し新しい神社に生れ変わりました。