風狂盲人日記 ㉓ ああ我が母校、神奈川県立厚木高校

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 ああ我が母校、神奈川県立厚木高校」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年9月29日

 16日(土)の午後、我が母校、神奈川県立厚木高校の設立120周年記念式典が、厚木市内のホテルで開催された。創設が1902年、日露戦争の2年前で、県立第三中学校として発足、戦後の1948年に高校となり、私はその高校第18回生(63年入学)となる。
 相模原市に住む同級生が、わざわざ我が家(足立区内)まで車で迎えに来てくれるということで、ほぼ10年刻みに開催している記念式典に久しぶりに参加した。

 厚木高校は、県中央部の学区内では昔からトップ校で、今日でも学区内を含め周辺の市町村の組長の殆どが厚木高校出身者で占められている。戦前は完全な男子校で、高校になってから女子も入るようになったが、私の学年では女子の数は学年420人中20数人で、その5年後ぐらいから女子が徐々に増え始め、今日では4割を占めるという。

 私は厚木高校時代、2年生の時に英語同好会会長を務めた。たまたま1年の時に厚木基地(厚木にはなくて、大和市と綾瀬市にまたがる)の米軍兵数人と親しくなり、基地内での映画会や野球、フットボールの試合の観戦に招かれたりし、高校生を持つ軍曹を厚木高校に招いて、米国の市民生活や教育事情などについて講演してもらう機会を作った。その時軍曹が気を利かせて、クラス50人分のホットドッグを保温器に詰めて持参し、皆に御馳走してくれたのが予想外のことで、私を含めて初めてホットドッグを食べたという生徒が殆どだった。

 2年の11月から3年11月まで生徒会長だった。それまでの生徒会は60年安保の余燼がくすぶる中で、社会党、共産党系青年組織の影響を受け、政治活動に走りがちだった。そのため一般学生からはかなり遊離した存在だった。それをおかしいと思い、親しい仲間と語らって高校生活を如何に充実させるかということに力点を置いた施策を幾つか手掛ける、全く新しい活動に取り組んだ。特に印象に残っているのが、全教員の協力を仰いで、それぞれの教科の持つ意義を語ってもらい、特に高校時代に読むべき本を何冊か推薦してもらう「読書ガイド」をガリ版印刷で作成し、全校生に配ったことだ。これは特に新入生や2年生には好評で、受験勉強一筋に過ごす高校時代とは違う生き方を考える縁(よすが)にしてもらえたと今でも思っている。

 当時は木造二階建ての校舎で、一階の職員室の上が生徒会室だった。私はそこでほぼ毎日放課後、運動部、文化部の部長たちの苦情や相談を受け、その善後策を役員同士で話し合い、校長始め教職員に交渉することを数えきれないほどやった。そのため、同期生のうち軽く100人以上の顔と名前は今でもよく覚えているし、下級生も数十人は親しく付き合っていた。

 私は戦後の混乱期のベビーブーム世代であり、取り分け父が何度か転職をしたため、小学生時代は、生まれた大分県別府市から静岡県裾野市、茨城県鹿島市などに転居し、小学校は4つ、中学校も3つ行き、幼い頃からの親しい友人というものが殆ど持てないで育った。その点、高校は初めて丸三年間同じ校舎で同じ仲間たちと過ごしたことが取り分け自分にとっても意義深く思い出されるし、高校時代の友だちとは今日に至るまで何人も親しく付き合ってきた。

 振り返ってみれば、高校大学の友人たちというのは、社会に出てからの社内での付き合いや、仕事を通じての付き合いで親しくなった人たちとは異なり、利害関係が殆ど全くない、という点で何年離れていても会えばいつでも名前を呼び捨てにして「俺、お前」の関係で気兼ねなく話せる貴重な仲間たちということになる。そういう高校大学の友人たちに、ある時は支えられ、ある時は励まされ、これまでの社会人生活を歩んできたのだな、ということが良く実感できる。

 記念式典とそれに続く交流パーティーでは参加者が約380人。そのうち我が同期生は30数人と、出席率がかなり高い方で、パーティーの終わった後、ホテルのラウンジで同期会を催したが、全員からやさしく肩を叩かれ握手されて、「目が不自由になってもよく来てくれた」とねぎらいの言葉をかけられたのがとても嬉しかった。

 帰りは、朝から付き合ってくれた同行援護サービス協会のガイドさんに手を引かれて、本厚木駅から約2時間半かけて自宅まで送ってもらった。同期の連中とはまた新年に同期会を開こう、との話がまとまっており、それにも勿論参加することを楽しみにしている。

(つづく)

第18回ゆい歴史散歩「小江戸川越を訪ねる」参加者募集 

城下町として500年の歴史を誇る川越。江戸文化と現代文化が交差する、小江戸川越。
今回のゆい歴史散歩は、NPO法人ゆい思い出工房と株式会社従心会倶楽部の共催で、蔵造りの街並み、川越城本丸御殿などを視察すると伴に、天保3年(1832年)創業の銘店・川越いちのや本店で鰻重の昼食をお楽しみいただきます。
初冬の一日を川越の街並みの散策をお楽しみされては如何ですか。

風狂盲人日記 ㉒ 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。今回のテーマは「 日経「私の履歴書」を楽しく読もう会」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年8月31日

 この夏にはもう一つ楽しい集まりがあった。土曜日の午後、東京・日比谷のプレスセンターのレストランを借り切って「日経『私の履歴書』を楽しく読もう会」が開かれた。主催したのは、化学薬品会社重役だった吉田勝昭(まさあき)さんが20年ほど前に始めた「私の履歴書研究会」で、この日はコロナ明けの久しぶりの集まりということで、会員約20数人とその親しい友達に限定して、総勢92人。吉田さんの「私の履歴書」に関わる4冊目の新しい本が出版されるのを祝うパーティーでもあった。

 日経新聞朝刊文化面の「私の履歴書」は1950年代に始まったが、60年代から毎月一人を登場させ、1日に始まって月末に終わる30回の連載で、もう既に800人以上の各界著名人が登場している。

 吉田さんは若い時からこの定期コラムを愛読し、毎月その読後感を詳しく自分のホームページに掲載する一方、登場人物を様々な角度から分析し、それをデータベースとして蓄積している。彼が主催する研究会は、毎月20人近くが集まって、前月の履歴書について、食事をしながらそれぞれの感想を述べ合う社外勉強会で、私も何度かゲスト・スピーカーに招かれて、その議論に参加してきた。

 私は日経新聞記者時代に、1991年5月、初めての外国人としてフルブライト米上院議員を登場させ、それが予想外に好評だったため、90年代半ば以降、年に一人か二人は著名な外国人を取り上げることが、社内の基本方針となった。その社命を受けて、私は2001年10月にジャック・ウェルチ米GE会長、02年10月にルー・ガースナーIBM会長をそれぞれ登場させ、彼らの本社事務所や自宅、別荘などを訪ねて長時間インタビューし、その録音テープを聞きながら30回分の自叙伝にまとめていった。執筆にあたっては英文と日本文を同時に作成し、日本文がコラムの分量の約2割増しになる程度に書き、英文を本人にファックス(後にe-mail )で送って、本人がその文章を訂正してきた場合に日本文も書き改める、という方式を取った。だが実際には、3人とも私の英文を殆ど直さず、「よくできている」「面白い」と評価してくれ、こちらも安心して日本文をコラムの枠内にきっちり収まるように削る作業だけで済んだ。2割増しの英文自体は、日経が始めていたインターネットによる英文情報提供サービスの中に、売り物として本紙の3日後に連載分を発信し、これも読者から好評で、英文ネットサービスの拡張販売に貢献できたと自負している。

 そんな縁もあって、この日のパーティーでは乾杯の音頭を任され、「日経の記事をこれほど熱心に愛読してくれて、その成果を出版に結び付けている例は他に聞いたことがない。私としては勝手に日経の社長に成り代わり、吉田さんたちグループに感謝状なり表彰状なりを送りたい気持ちです」と挨拶した。

 パーティーではゲスト・スピーカーとして、日経の同僚、小牧利寿君が、東南アジアの4人の政治リーダーの履歴書を書いていることから、その内幕話を披露してもらった。マレーシアのマハティール、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルト、フィリピンのラモスで、取材には私の場合とは異なった苦労があったことが窺われた。

 新聞を作る側の率直な感想としては、自分たちの書いた記事を熱心に読んでくれる読者がいるということは、非常に取材の励みにもなるし、また会社全体に活気をもたらすことにも繋がっている。この日の吉田さんたちのパーティーは、そうした思いを改めて実感させるいい機会になった、と小牧君と一緒に喜んだ次第である。

(つづく)

『ハワイ・マウイ島ラハイナの火災に思う』

8月8日、ハワイ・マウイ島・ラハイナで山火事が発生し大きな被害がありましたが、1984~1991年の7年間ハワイに在住し、ラハイナでの事業を担当された元飛島建設株式会社の福田鉄男氏にご寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。

株式会社従心会倶楽部会員
元 飛島建設株式会社

福田 鉄男 氏

 「私はかつて飛島建設に勤務していた頃、1984~1991年の7年間ハワイに駐在していました。
 ハワイにおけるサトウキビ・プランテーションの地元財閥の一つであるアムファック社(Amfac Inc.)が所有していたマウイ島西部の最後の砂浜海岸を有する土地の半分の所有権を購入し、アムファック社との合弁でリゾートホテルの開発誘致を推進していくという事業計画でした。
 購入した土地はマウイ島の既存の高級リゾートであるカアナパリ(Kaanapali)の北部隣接地でした。

 そのカアナパリから2~3km手前(マウイ島のメイン空港であるカフルイ空港から行くと)が、今回山火事の延焼で全焼したラハイナ(Lahaina)地区です。
 ラハイナは歴史的にはハワイにおける日本の京都の様なところです。
 19世紀、ハワイがまだカメハメハ王朝の頃、アメリカ大陸の白人が本格的にハワイに移り住む前に捕鯨の町として栄えていて、当時はハワイ王朝の首都だったところです。
捕鯨船の船乗り達の荒くれ者が、酒場で飲んだくれ暴れて収監される監獄跡も有名な観光名所でした。またかつて日系移民がサトウキビ・プランテーションのために入植した所でもありましたので、日系人のための寺院があり境内には 三重塔もありました。
 そんな良き昔の面影を多く残す意味での観光地でした。しかし、この寺院も三重塔も今回の火災で焼失してしまったのです。

 私が勤務していた当時、飛島建設の現地法人であるTobishima USA Incの代表であった 大谷武彦社長など、開発予定地の視察のために社内外のお客様がマウイ島に来られた際は、必ずこのラハイナに立ち寄ったものです。

 私がハワイに滞在していた頃は、このラハイナの街の山側のなだらかな斜面は地元の人の住宅地はあったものの、ほとんどがサトウキビ畑だったと記憶しています。
ところがニュースによると、最近はそのほとんどが雑草地となっていて乾燥しやすい状況となっていたようです。

 ラハイナの火災後の廃墟と言えるほどのニューズ映像の中に、これも歴史的遺物としてラハイナのランドマークでもあった、かつてのサトウキビ加工場(Pioneer Mill Company)の白くて高いコンクリートの丸煙突がポツンと残っている姿が、私にはなんとも印象的でした。
 今は、ただただ早期の復興を祈るのみです。」

ラハイナの街並み
カアナパリリゾト

飛島建設、大澤国際支店長を訪問

先日の「飛島建設海外OB・OG会」にご出席され、皆さんと親交を温めていただいた飛島建設の大澤海外支店長を尋ね、お礼を含め意見交換を致しました。
特に、従心会倶楽部の方針であるシニアの経験と叡智を活かし、シニアが活躍する場を創造すること、と外国人の活用について意見交換を行いました。

右から松島担当部長、大澤支店長、大川課長、神村部長、大谷代表

NPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行

この程、当社と連携しておりますNPO法人ゆい思い出工房では「ゆいNews No.37」を発行致しましたのでご紹介させていただきます。
今回は、「2023年定時総会が終了しました。」「株式会社従心会倶楽部との連携強化」、「石岡顧問が90歳を超えて3回目のエイジシュートの偉業!!」などの記事が掲載されております。

大谷代表は、この度の定時総会でNPO法人ゆい思い出工房の監事に就任されました。

株式会社オヤノコトネット訪問記

7月27日、都内にある株式会社オヤノコトネットの大澤尚宏と面談致しましたが、その訪問記を南雲康宏シニアアドバイザーにまとめていただきましたので掲載させていただきます。

 7月27日(金)大谷代表と津久井さんと私で株式会社オヤノコトネット社を訪問し大澤尚宏社長と面談致しました。
同社は “少子化・人口減少時代。人口動態の変化に対応した課題解決を創造する” をテーマに多彩な事業を展開している。

右から2人目が株式会社オヤノコトネット 大澤尚宏社長

大澤社長は特に介護問題に対しては強い危機意識をお持ちで、このまま有効な対策を講じないと日本は中から崩壊しかねない。しかるに国民の大多数は危機意識を持っていない。などと介護に係わる現状を熱く語り、大いに啓発されました。

少子高齢化そしてその帰結としての人口減少。国の存続に係わる問題なのに大半の日本人にはその危機意識はない。昨年日本の総人口は80万人減少した。東京の人口1,400万人と比べると大した数ではないが、80万人と言えば山梨県か佐賀県の人口に相当する。まるまる一つの県がが消滅したことになる。

少子化に関しては最近の合計出生率は日本は1.36、韓国は0.81だそうだ。
オックスフォード大学の人口学者デイビッド・コールマン博士は、韓国は世界で初めて少子化のために消滅する国になる、と予測した。

政府は 巨額の予算措置を伴う “異次元の少子化対策” を発表しました。極端な少子化が進むと日本民族が消滅するかもしれないという危機意識をすべての日本人が共有すべきだと思いました。 

南雲康宏(従心会倶楽部 シニアアドバイザー)

風狂盲人日記 ㉑ 再会を祝う

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、一昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「再会を祝う 」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2023年7月26日

 今月は楽しい会合が二つあった。一つは東京外大英米語科の同級生の集まり。卒業以来数年おきにクラス会を開いていたが、コロナと私の失明が重なって暫く途絶えていた。静岡県沼津市内で寺の住職をしている男が久しぶりに上京するという機会を捉えて5年ぶりのクラス会となった。集まったのは8人。全員が70代半ばで、体のあちこちにガタが来て病院通いをしていると言うが、皆明るく元気で、それぞれ第二、第三の人生を、ボランティアで地域活動に取り組んだり、長年培った経験を生かして時々仕事をしている、あるいはボーリングなどのスポーツで汗を流しているという近況を楽しく語っていた。都合で欠席した二人とは事前に電話で近況を聞いたら、それぞれ、病弱な子供の介護や親の遺産の整理などで忙しくしているとのことだった。

中嶋峰雄先生(1936-2013)

 もう一つの会合は大学時代のゼミのOB、OGの集まりで、これまで長い間私が事実上の万年幹事をやっていたのだが、今回丸4年ぶりに再開できた。こちらは平日の昼間池袋駅近くのレストランに10人集まって楽しい昼食会が催された。

恩師の中嶋嶺雄先生(1936-2013)の東京外語大での国際関係論ゼミは、学内でも人気のゼミだったが、特に1969年から先生が学長に就任する1995年まで30年近くにわたって指導したゼミ生270人のうち、卒業後も毎年正月2日に先生の自宅で催す新年会には、数十人が集まって半日賑やかに歓談していた。このゼミの最大の特徴は、ゼミ誌(『歴史と未来』)をほぼ毎年、計28号まで活版印刷で出版し、大学の売店でも販売していたことで、私は創刊号の編集委員を務めて以来、最終号までエッセイや評論を10回以上寄稿し、最多出場を記録していた。

 先生が2013年2月14日に国際教養大学長在職中に急死した時には、ゼミOB十数人が集まって急遽追悼集を出すことを決めてゼミの一斉メールで呼びかけると、40数人が寄稿してくれて、わずか2ヶ月で出版できた。

その年5月に、先生の故郷・長野県松本市で松本深志高校同窓会と才能教育研究会の合同主催による「偲ぶ会」(約250人が参列)で配布した。先生はこの二つの団体の会長も長く務めていて、バイオリンの鈴木メソッドを学んだ一期生として終生バイオリンを手元から離さず、才能教育研の発表会がサントリーホールや武道館で開催された時には、そのリーダー役を務めていた。更に追悼集は、6月に東京・ホテルオークラで中嶋ゼミ主催で開催された「偲ぶ会」(約800人が参列)でも配布された。

 先生の業績を検証するため、没後間もなく著作選集全8巻を出すことを決め、出版してくれる所を探したがなかなか見つからず、最後に漸く桜美林大学の付属機関、東アジア研究所が引き受けてくれ、無事8巻を刊行できた。私はその編集責任者として、企画立案から選集で取り上げるべき論考全てをチェックし、8人の解説者をゼミ生で分担し、その解説文を編集委員会内部で何度も読み、書き直す作業を続け、内容的にも相当優れたものができたと自負している。選集の発行は2016年から2017年にかけて。それが終わるとすぐに、私が中嶋嶺雄研究会を3年の期限付きで立ち上げ、半年に1回のペースで、大学改革や国際関係、日中関係、地域研究など、テーマ別に公開シンポジウムを開催し、そのうち「大学教育革命」「日本外交への提言」は、ソフトカバーの冊子として出版もできた。

 そうした活動をすべて終えて、2020年春にゼミの会の総会を予定したのだが、コロナでできなくなり、翌年には私が失明して活動が大幅に制限されてしまって現在に至っていた。こうした経緯があったから、余計、今回集まってくれたゼミの後輩たちの元気な声を聞くことができたのは、何よりも嬉しかったし、私より20年以上も若い現役の人たちも忙しい合間を縫って来てくれたことに心から感謝した。このゼミの先輩後輩の集まりもまた、世代を越えて、私自身色んな業種で活躍している人たちから学ぶことも多く、これからも引き続き機会を捉えて集まろう、ということで皆さんの賛同を得た。

 仕事などの利害関係ではなく、お互いに気心の知れた仲間たちという関係で気楽に話し合える人たちを持っていることは幸せなことだ。孔子が紀元前450年頃に語った「友あり、遠方より来たる。また楽しからず乎」(『論語』)は、永遠の真理だな、としみじみと感じさせられた。

(つづく)

飛島建設海外OB・OG会開催される

令和5年7月8日、飛島建設(株)海外OB・OG会がコロナ禍に翻弄され、社会活動正常化が本格的にスタート、3年半ぶりに、中国飯店潮夢来で開催されました。
飛島建設(株)海外部門で従事、活躍した方々、直接間接を問わず、いろいろと海外部門に携わっている56名の方々が、一同に会し、盛況なる場で、旧交を温めることができ、過ぎ去りし日々の追憶に、暫し感慨深い一時を過ごすことができました。
当従心会倶楽部からは大谷代表、津久井事務局長、御厨・岸下シニアマネジャーが出席致しました。

奈良井満州雄様他、ご逝去された先輩諸氏に黙祷

開会の挨拶をされる大谷武彦氏

司会を担当された菊地克仁氏

乾杯のご挨拶をされる花岡紀夫氏

ご挨拶をされる元飛島建設㈱代表取締役社長 飛島章氏

ご挨拶をされる飛島建設㈱専務執行役員、元国際事業本部長 佐藤真一郎氏

ご挨拶をされる中江かおる氏

ご挨拶をされる蓮尾雅弘氏

飛島建設株式会社国際支店 大澤達雄支店長のご挨拶

ご挨拶をされる武田 紀美夫氏

最後のご挨拶をされる浜崎照元氏

ご挨拶をされる梅田典夫氏

受付関係者

ニューヨーク旅情記


The Stanhopeの
ロビーにて

株式会社従心会倶楽部
代表 大谷 武彦

ニューヨークに行ってまいりました。
今から35年前建設会社時代に4年間滞在した所です。
当初、ニューヨークに現地法人を設立し、米国東海岸におけるビジネス展開を担当いたしました。 ニューヨーク現地法人の設立経営、ホテルの買収と経営、コンドミニアムの建設。ワシントンでは設計会社の経営、ボストンでの住宅開発。更にはマイアミやアトランタでのリゾート開発やコンサルタントなど多岐にわたっておりました。
帰任して歳月が流れました。今回は12年ぶりの訪問でした。当時苦楽を共にした米国の知人の殆どは移動、若しくは幽冥境(ゆうめいさかい)を異にしておりました。
携わった建築物、事務所、郊外の住居も昔のままの面影でした。
また心を込めてグランドゼロに赴いて合掌をしてまいりました。
演奏会、ミュージカル、クラッシック、美術館巡りなど、感慨一入なものがありました。
長い歳月の経過が一瞬にして胸中を駆け巡り、暫し呆然としたものでした。

Tobishima Associates Co. Ltd.(米国法人)

350park ave 。かって事務所を構えていたビル前面の道路は激しく人が行き交い、ビルに入るビジネスマンは颯爽と歩を進めています。つられて思わず中に入って苦笑しつつも奮戦した日々を一瞬思い出す のでした。

THE STANHOPE

995th ave (メトロポリタン美術館前)
1926年に創業したこのホテルは長い歴史の中で、アメリカ特有の開かれたグランドホテルとして世界の要の定宿となっていました。
1989年、chapter11案件になっていたのを買収。客室数142、内スイートは85室。高い付加価値を付けたホテルは要人に愛され続けていました。 ケネデイ家、ロスチャイルド家、オナシス夫人、ジーナ・ロロブリジーダなど多くのVIPに支持されました。
又、G7(主要国首脳会議)の財務大臣会合にも利用されたことでも知られています。
このホテルの総支配人ニール・トラボウイッチ氏は飛島社長がスカウトした優れた才能を有するホテルマネージメントの権威でありました。飛島章社長とニールはバーの片隅で口角泡を飛ばしてホテル論を展開していましたが、次々に成果を上げたころの姿が思い出されます。そのニールは現在は消息不明..
このホテルは 内装を大きく変えて、高級コンドミニアムに変貌を遂げましたが、今でもニューヨークの著名人に愛され続けております。

THE GOTHAM

このコンドミニアムはNYの老舗の不動産会社、zeckendorf.coとJVで開発しました 。アメリカのコミック、バットマンの架空都市ガッサムから命名したこの建物は、風格のあるコンドミニアムとしてすっかり地域に溶け込んでいました。
今は亡きゼッケンドルフ氏はニューヨークの第1級の企業経営者でした。私は、折に触れ郊外の別宅に招かれ、クラッシック音楽を聞きながら、ワインを傾け、含蓄のある話に感動したものでした。その部屋から庭の木々の隙間を通して眺めた星空は、今も心の片隅で思い出したように時折輝く。

グランドゼロ

2011年9月の米国を震撼させたテロで崩壊したツインタワービルの跡地に建てられたメモリアルに赴き、テロにて犠牲となった畏友 田中謙一郎様(富士銀行)に心より哀悼の意を捧げました。共に頑張った日々の追憶。
新しい建物も建築され、その日がまるでなかったかの様な厳しい初夏の日が輝いておりました。

Scarsdale村

ニューヨークから電車で1時間。その頃住んでいたScarsdale村は、あれから35年の歳月が流れて、緑一色の静かな村に変貌していました。道路脇の大木に身を託すると、リスが飛び回り、一瞬笑みを禁じ得ませんでした。 往時と同じ風景でした。