風狂盲人日記  ㉜ 喜寿

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、数年前緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」としてご寄稿いただいておりますのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「 喜寿」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2024年6月20日

 今日は私の77回目の誕生日である。40代の頃までは、とても60以上まで生きられないと思っていたのだが、実に喜寿を迎えることになった。70代になってから全身にガタが来て、入退院を繰り返すことが続いたが、それも落ち着いたと思われ、元気に毎日を過ごしていることを神仏に感謝しなければならないと思う。

 私の生まれた1947(昭和22)年から戦後ベビーブームが始まり、1949年までの新生児数がそれぞれ270万人近くで、この間の合計出生数が805万7千人。また50年生まれが約240万人だったから、この僅か4年間で日本の人口の軽く1割以上を占めていた。人口ピラミッドで表現すれば、男女とも極端に多い数で底辺を占めており、これを堺屋太一氏が後に「団塊の世代」と名付けたが、実に言いえて妙だった。その大量の団塊世代が成長するに従って、社会もその需要に合わせて様々な変化が起き、国内的には60年代以降の高度経済成長の土台を築くことになった。

 今日団塊の世代が70代後半の「後期高齢者」となる一方、その子供から孫の世代では出生率が急速に減って、2023年には年間の出生者が75万人となり、一方23年の年間の死者数は159万人なので、日本は着実かつ急速に人口減少が進んでいることになる。

 「少子高齢化」は1990年代ごろから指摘されてきたが、政府や自治体の政策としては、これに歯止めをかけることができずに今日に至っている。

 1945年の終戦の頃、日本の総人口は約7200万人だった。政府が敗戦の責任を「一億総懺悔」することで、誰も責任を取らないということで戦後が始まり、300万人もの兵士たちが帰郷し、ベビーブームを呼んだものだが、GHQの占領期は焼け跡闇市時代で、食糧も、住むところも、着るものにも、全て困窮せざるを得ない時代だった。団塊の世代は、その幼少期に厳しい時代を潜り抜けた訳だが、小中学校時代から日本経済が復活し、高度成長期に入る中で深刻な社会不安も起こさずに済んできた。

 終戦まで、団塊の世代の親たちは殆どが5人以上の兄弟を持つほど子沢山だったが、その多くが病気などで死亡し、その結果戦前は平均寿命も50歳を下回っていた。しかし戦後生まれ世代になると、医薬品の開発や医療施設の充実などから、乳幼児の死亡率が急激に減少し、その結果平均寿命も70歳台に伸び、今日では女性が86歳、男性が81歳と、世界でもトップの長寿国となっている。

 私たち団塊の世代も長寿を全うする人たちが圧倒的に多いようで、2023年現在750万人を越えている。それに対し、過去10年ほどに生まれた人は、年間100万人以下ということだから、人口はピラミッドではなくまさにワイングラス型で、若い世代の倍の人数が高齢者になっている。日本の労働力が減少する中で、高齢者の世話を若い世代が負担しなければならないということで大騒ぎしているのだが、この高齢世代もあと10年から20年もすれば殆どが鬼籍に入るので、20年後には高齢化問題は、殆ど社会的には今日のような意味での政策課題とはならなくなってしまうだろう。

 振り返ってみれば、私たち団塊の世代は60年安保騒動が小学校5~6年の時であり、60年代後半の大学紛争を作り出した。一般に、大学進学率が10%を越える社会は大衆社会に入ってきて、大学がエリートでもなくなってくる、と社会学者は指摘しているが、日本の大学進学率が10%を越えたのは62年、私が大学に入学した67年は13%だった。つまり、大学が次々に作られて収容人員が増え、大卒がエリートでも何でもないという原型ができたのが、この60年代初めから70年代にかけてであったし、今日大学進学率が50%を超え、高校3年生が100万人いて、その6割近くが進学するにしても、今、全国の国公私立大学の定員総数が60万人になっていることからすれば、希望者は全員大学に入れるという時代になっている。それだけ大学教育の価値も落ちてきている訳で、学生も大学は社会に出るまでのモラトリアム(執行猶予)期間と心得て、勉学よりも遊び、アルバイトにウエートを置く傾向が長く続いてきた。大学改革の動きは、そういう大学の教育の質を高めようということで動いてはいるが、実態として殆どその効果を示していないのが実情だろう。

 ところで、喜寿を迎えた私たちの世代はこれからどう生きるか。そのポイントは、これまで無事に生きてきたことへの感謝を忘れず、少しでも社会への恩返しということで、地域貢献、社会貢献の活動に出来る範囲で取り組む、ということが一つ挙げられるだろう。私自身は3年前に失明して以来、ほとんど社会的活動ができなくなっているのだが、それでも色んな団体の役員を続けてZoomでの会議で発言したり、電話で色々相談を受けて助言を与えることを続けている。加えて、これまで親しんできた古今東西の本をもう一度読み直す(朗読CDで聴き直す)ことで、若い時にその本を読んだ時の体験を振り返りながら、「よくもここまで生きてきたものだ」と感慨を催している。

(つづく)