コタキナバル便り(コタキナバル在住 氏原康隆氏)

株式会社従心会倶楽部会員でマレーシア・コタキナバル在住の氏原康隆さんより寄稿いただきましたのでご紹介させていただきます。
コタキナバルでは新型コロナウイルに対応するため全面的なロックダウンが行われるなど、これまでの生活が一変したと言うことです。

左が氏原康隆さん、右が奥様のティナさん

従心会倶楽部のみなさま、こんにちは。 しばらくご無沙汰をしておりました。今日はマレーシアから「コタキナバル便り」を寄稿させて頂きます。

「コタキナバル便り」を書き始めるには、やはり何故私達がコタキナバルにいるのか、その理由なくして語るのは難しいかもと考え,その経緯から始める事にしたいと思います。 私達家族がコタキナバルにやって来たのは2001年の9月16日でした。 丁度、アメリカで貿易センターに2機の飛行機が突っ込んだ同時多発テロの5日後の日でした。 当時、私は仕事でパキスタンに駐在していましたが、諸般の事情で飛島建設を退社し、後任者がやって来る時でも有りました。

後任者の着任数日後に前述の同時多発事故が発生。 本社ではアメリカの動きを察し、イスラマバード空港は軍によって閉鎖され飛行場は使用出来なくなり、イスラマバードでは通常の生活は出来なくなると判断し、後任者には直ぐにパキスタンから出ろと言う指示を出しました。 引き継ぎ作業も途中にして後任者は、翌日には日本に帰国してしまいました。 私達家族は取り残された形でイスラマバードに足止めをくらいました。 私達は後任者のように「バイバイ」と言って直ぐにパキスタンを出国する訳に行きません。 残された引き継ぎ書類の整理や、私達の家財道具の引越し準備に入らなければいけませんでした。 その間に、各大手の商社マンの家族、JICA職員の家族、日本大使館の家族の人達もパキスタンから一斉に出国して行きました。 私達家族にはどこからも何も指示は無く、その時は、「自分の身は自分で守るしかない」と思わされた数日間でした。

私はかなり以前から、会社を退職しても働かずして自分達の貯蓄の金利で日本からさほど遠くない所で生活が出来る国はないかと調べていました。 探し出すのにさほど時間は掛かりませんでした。 それは家内の故郷であるコタキナバルでした。 だから、パキスタンを脱出する際には、コタキナバル以外に思い付かず、行先に迷う気持ちは有りませんでした。 当時、私は52才。 私達の第2の新しい人生がスタートした瞬間でした。 そして、息子は中学1年生。 この時点では、息子に大きな試練が待ち構えているとは想像も出来ませんでした。

2001年9月、当時のコタキナバルは本当に生活し易い環境でした。 街を走る車数は少なく、街中のどこに行っても駐車場を探す必要はなく、駐車はどこでもすべて無料でした。 1ヶ月間の光熱費も2,500円程で十分。 二人で外食しても昼食は250円程、夕食は700円も有れば十分でした。 特に助かったのは銀行の金利でした。 通常の長期金利は4%、ブミプトラ(マレー人優遇政策)で優遇されている人達は13%、但し、預金額には600万円と上限有り。 家内はこの優遇を受ける事が出来助かりました。当時、不動産も驚く程安かったので、小高い丘の上に位置し、部屋のバルコニーから町と海が全貌出来る床面積200平方メートルのマンションを住居用として約1,000万円で購入。 ここでの収入源の足しになればと、街中の中心地に所在するリゾート・マンションを賃貸用(140平方メートル)として900万円で購入。 余った現金は銀行に預け、その金利と家賃で十分生活していける環境に有り、65才から受取れる年金は考慮する必要は有りませんでした。 ここ迄は、私達の第二の人生は計画通りでした。

私達の生活環境が激変したのは2020年3月18日からでした。 それは、誰しもが周知している世界を震撼させたコロナ・ウイルスです。 サバ州では、ウイルス(コロナ)による感染拡大を防ぐための措置として州政府はコタキナバル市を全面的にロックダウンした事でした。 コタキナバルと言う街は一夜にしてゴーストタウンと化し、それは本当に異様な世界でした。 車で街中を走っても誰一人として歩いている者はいません。 車の中も運転手以外は誰も同乗する事が出来ないほど厳しいものでした。 そして、何よりも私達が大変な思いをさせられたのは、そのロックダウン中に家内が部屋の置物につまづき転んで左腕を骨折した事でした。 感染が拡大している最中だったので、病院に行くのはとても不安でした。 幸い、近くに整体師(中国人)の先生が住んでいたのを家内が思い出し、病院に行くのを止めて、急遽、その先生宅に予約なしで訪問。 家内は車の中で必死に神様に祈りを捧げ、そのかいあってか無事に先生に応急処置をして頂ける事が出来ました。 後日、民間の総合病院を訪れ、完治とは言えないですが、日常の生活が出来る様になる迄に4ヶ月程掛かりました。 

そして、次に私達を非常に悩ませたのはコロナに対する感染防止策としてのワクチン接種です。 日本の様にワクチン管理が厳しくされていれば良いのですが、当地での医療(医師、看護師、設備)には問題が多過ぎます。 加えて、接種されるワクチンもファイザー、モデルナ、アストロゼネカ、それに加えて中国製の2種類のワクチン、5種類のワクチンがそれぞれクアランプールからサバ州に割り当てられた分量のワクチンが輸送されて来ます。 そこから病院ごとにワクチンが振り当てられ、割り当てられた病院でワクチン温度の管理、看護師によるワクチンの瓶から注射器への配分、注射器の管理等、管理項目は多岐に有り、それを地元の看護師が適切にこなすにはスキルが余りにも不足しています。 ワクチン接種に行って、そこで始めてどのワクチンを接種させられるのか知らされるのも不安です。 日本の新聞やTVではワクチン接種後の副作用や接種後に亡くなった人の記事を目にする事が出来ますが、ここではそう言った記事は政府の管理下にあり、我々は目にする事は全く出来ず、本当に大丈夫なのか不安が募るばかりです。 特にショックだったのは、何の持病も無かった知人の奥様がワクチン接種後翌日に亡くなった事でした。 ご主人は余りにもショックが大き過ぎて容貌は痴呆症の様に別人になってしまい、見るに耐えられない状態でした。 そして、それが記事に載る事も有りませんでした。 他にも同じような事例は有りますが、それらも全て記事になる事は有りませんでした。 憤りを感じましたが、虚しさの方が強く、その結果、私達はワクチン接種をしない事を決めました。 最近では規制も緩和され自由に動く事が出来ますが、当初は大変でした。 どこに行っても(ホテル、レストラン、ショッピングモール、教会、銀行、郵便局、学校等、病院以外のあらゆる施設)ワクチン証明書の提示(スマホでのアプリ)を求められ、私達にとってはとても厳しい生活環境に有りました。 家内と二人で「まるでモグラ生活だね」と言い合っていたのはその時期でした。 当然、私の学校でのバスケットボールのコーチ活動や自宅でのギター教室も全て中止となりました。  

昨年の12月からコタキナバルー成田の直行便が週に一便で再開致しました。 それ迄は、クアランプール経由で羽田か成田に着く便が有りましたが、感染の防止を考えれば、経由を避け出来るだけ多くの人達と交えない直行便がベストだと考えています。 航空運賃もコロナ禍以前であれば往復で5~6万円で行けていましたが、今は10~12万円と高額になっています。 このコロナ感染は、コタキナバルに長期滞在していた多くの日本人の人達にも暗い影を忍ばせています。 コタキナバル―成田間の直行便が再開したので、日本に一時帰国をしていた人達が戻ってくるのではと期待していましたが、その傾向が全く見当たりません。 通常であれば、日本人が集まり易いゴルフ場とかホテル、馴染みの日本料理店等に行けばチラホラ顔見知りの日本人を見かけますが、その姿が全く見られません。 私のコタキナバルでの囲碁友達も部屋(賃貸マンション)をそのままにして未だに帰って来ていないのは寂しい限りです。 加えて、ペナン島に長期滞在していたパキスタン時代から付合いの有った囲碁友達は、昨年日本に一時帰国をしていた際にコロナの影響を間接的に受けて亡くなりました。 今では、コタキナバルで対局出来る方が誰もおらず、Youtubeで観戦しながら時間を潰す日々となっています。

コタキナバルから優秀な若者が離れて行っているのを実感しています。 私が今日までに教えて来たギター教室での学生達や学校で教えていたバスケット部の学生達のほとんどがこの3年間の間にコタキナバルから消え去り、社会人となってコタキナバルで頑張っているのは私の知る限りでは数人だけです。 社会人となった若者はクアランプールやシンガポールに職場を求め、コタキナバルを離れて行きます。 裕福な家庭で育った学生は海外(英国、オーストラリア、ニュージーランド、米国)に留学し、卒業後はその国で仕事を見つける意向が強いです。 特に医療関係、建設関係はその傾向が強いです。 まず、その学生の親たちが地元に帰ってくるなと説得しています。 高度な教育を受けてもコタキナバルでその力を発揮出来る職場(会社)がないからです。 給与で比較するとクアランプールではコタキナバルの2倍、シンガポールでは3倍貰えると若者たちは言っています。 給与額にうんぬん言うのは表面的な問題かも知れません。 根本の問題は内部的な所にあり、それは人種的、宗教的な問題も絡んでいます。 マレーシアはやはり多民族で構成された国です。 マレー系の人達は政治を中心に、中国系の人達は経済を中心にと言う考え方は根強く残っています。 それは宗教的にも言える事で、イスラム主義は政治を、キリスト教とヒンズー教は経済をと言っている様にも捉える事が出来ます。 

コタキナバルに長期滞在して21年になろうとしています。 この先も長くコタキナバルに滞在するのであれば、マレーシアの永住ビザを取得しておいた方が良いと家内に勧められ、先日、関係部署に膨大な申請書を提出し、面接も終えました。提出後、20年経っても取得出来るか否か分からないと言われている代物ですが、取得出来れば、今後、マレーシアへの入国は滞在ビザを必要としないので助かります。  

先日、学校から連絡が入り、屋外でのスポーツも開始する事になったので、2月から再度バスケットボールのコーチをお願い出来ないかと問合せが有りました。 この3年間、運動不足になりがちだったので、即答で了承の意向を伝え老体に鞭をウチながらの日々が始まりそうです。 これから何年、コタキナバル生活が続けられるのか分かりませんが、体を鍛えて継続して運動を続けていれば80才までは可能ではと思っています。 その際には「コタキナバル便り」の続編として何か面白い変った出来事をお知らせする事が出来るのではと楽しみにしています。

マレーシア・コタキナバル在住
氏原康隆 氏