風狂盲人日記 ⑦ しなやかな中国人ヴァイオリニスト

 従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「しなやかな中国人ヴァイオリニスト」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 7月 X日

 7月8日(金曜)の夜、上野公園の東京芸大旧奏楽堂で行われた中国人ヴァイオリニスト、劉薇(リュウ・ウェイ)さんのコンサートを聴きに行った。勿論一人では行けないので家内に同行してもらった。

 その日のプログラムは、ウクライナを支援する気持ちを込めて、ということで、同国ゆかりのプロコフィエフらの作曲した曲を数曲演奏した。いずれも私には初めて聞く曲ばかりだったが、その演奏には強大国の暴圧に虐げられる人たちへの共感が現れているような気がした。

 劉薇さんは中国大陸内陸部の出身。音楽家を志望しながら果たせなかった父の夢を継いで上海の音楽学校を卒業し、1986年に単身来日し、東京芸大大学院に進学した。当時の中国は貧しく、彼女も飲食店の店員アルバイトをしながらの苦学生活だったが、サンリオの辻信太郎社長(当時)が「アジアからの留学生を支援したい」と設立した教育文化財団からの奨学金を得て、何とか学業を続けた。博士課程では、戦後中国の最高の作曲家と目された馬思聡(マー・スツォン)の足跡を辿り、その全貌を明らかにすることに思いを定めた。馬氏は文化大革命の迫害に耐えた後、米国に亡命した。

 劉薇さんは、その馬氏のニューヨークの旧居跡や親戚縁者、友人などを訪ねまわり、散逸していた馬氏の楽譜を集め、整理し直し、その作曲集を編纂するかたわら、曲の録音テープを作成。同時に人と作品論を博士論文としてまとめた。その結果、東京芸大の外国人として音楽博士号(実技+理論)の称号を授与された。90年代後半から東京を拠点に精力的に演奏活動を始め、声が掛かれば全国を公演して回った。今世紀初めに重い腎臓病にかかって医者からは人工透析を勧められたが、独自の食事療法、健康療法を研究して回復、音楽活動も再開した。腎機能を10年以上維持したが、再び腎臓病が悪化。半年間人工透析を受けた後、2019年7月に日本人の夫が自分の腎臓を半分提供することを申し出て、手術も無事成功した。3年半前には八ヶ岳高原に移住し、静養しながら音楽活動を行っている。90年代の頃は丸顔に短髪で少女然としていたが、その後長い療養生活を経て、すっかり細面で全身も細くなり、楚々とした美人に変貌してきた。その劉薇さんを少しでも助けようと、2000年7月に音楽活動の支援にと後援会が組織され、現在会員数は国内外で360人を越えている。私も後援会発足以来のメンバーの一人で、毎年1~2回送られてくる会報で、彼女が元気に立ち直っている様子を写真付きで見て喜んでいた。私が2004年春日本経済新聞社を中途退社し、恩師の中嶋嶺雄先生(1995年から2001まで東京外大学長)に請われて秋田の国際教養大学の設立に深く関わった際、その「新しい門出を祝う会」がプレスセンターの大ホールで催され、劉薇さんが駆けつけて私の好きな数曲を演奏して祝ってくれた。

 制作したCDはこれまで7枚。ヴァイオリン曲のクラシックの名品を数多く集めたものが半分と、馬思聡のCDが半分だが、最近はヘンデルのヴァイオリン曲も出し、私自身それを聴いて、宮廷音楽家がこんな夜想曲風のヴァイオリン曲を作っていたのかと驚いたほどだ。今月の公演の数日前には私に電話をくれ、目の状況を尋ねてきたが、「まだまだやることが沢山あるでしょう」と明るく笑い、「この夏には八ヶ岳に静養に来たらどうですか」と誘ってくれた。

 彼女の生き方を見ていると、レジリアンスという言葉を思い出す。しなやかで逞しく、決して倒れないというほどの意味で、最近これからの日本人に大切な資質としてあちこちでこの言葉が使われるようになった。苦難を押しても常に明るく、笑って前向きの姿勢でそれを巧み避け、あるいは乗り越えていく。その姿勢から私も大いに学ばされている。

(つづく)