勝又美智雄先生の近況:風狂盲人日記⑤「ロシアの終わりなき領土拡張欲」

従心会倶楽部の顧問で国際教養大学名誉教授の勝又美智雄先生は、昨年緑内障の悪化で失明され、ご不自由な生活を余儀なくされておられます。
このような中、近況を「風狂盲人日記」として数回にわたってご寄稿いただけることになりましたのでご紹介させていただきます。
今回のテーマは「ロシアの終わりなき領土拡張欲」です。

株式会社従心会倶楽部 顧問
国際教養大学 名誉教授

勝又 美智雄 先生

2022年 5月末日

 4月から森鴎外の作品を朗読CDでずっと聴いている。彼が陸軍医学学校長から九州の小倉分隊の軍医長へと降格左遷された時期に書いた随筆集の中に、『ロシア戦域年表』があるのを知って驚いた。
 この年表は、ロシアが1600年代初めから1880年代までの間に如何に近隣諸国と戦争をし続け、ひたすら領土を拡張していったかを素描したもので、その変化を跡付けると極めて面白いことが分かってくる。ロシアは領土が広大にあるといっても、その半分近くは荒涼たる凍土地帯であり、農業が可能な地域は極めて限られている。そのため、モスクワを拠点として西へ、あるいは南へ、少しでも農業地帯を拡げようとする情熱はロシア建国以来一貫して持ち続けており、とりわけ興味深いのは、17世紀中頻繁にスウェーデンと戦争を繰り返し、その中間のフィンランドを領土とすることに躍起になっていたことだ。これは、不凍港を確保して更に西ヨーロッパへの足掛かりを得たいという宿願の表れであり、現にフィンランドを手中に収めて以来、すぐにバルト海に出られる軍港をこしらえて、そこで近代史上世界最強の海軍と言われたバルチック艦隊を育てることに精力を集中していた。そうした軍事力を背景に、更に横のポーランドには何度も戦争を仕掛け、領土を削り取ることを目論み、それがうまくいかないとみるとポーランドを挟んだドイツと組んで、両側からポーランドを攻めるという形で、都合3回に亘るポーランド分割を実現させた。中世から近世にかけてポーランドはヨーロッパでも最も領土の広い国であり、しかもその殆どが広大な農業地帯だったのだが、その四分の一以上はロシアが領土として取り込んでいた。

 更にウクライナに対しては、早くからここが大変な穀倉地帯であることに目を付けて、領土化することを何度も試み、侵攻を繰り返し、ついにそれを領土化すると、そこを足場に更に南下政策を取って黒海から地中海へと通ずる軍港をこしらえることで、中東から地中海に向けての勢力を確保しようと意図した。そのために、トルコとは戦争を何度も繰り返し、特にクリミア半島を確保するために両国間で争奪戦を続け、19世紀半ば以降クリミアを手中に収めると、そこから更にトルコと今度は手を組んで、エジプトにまで進出しようと目論み、地中海の南部エジプト地域をも勢力下に収めようとした。もちろんこれには失敗し、中東からも手を引くことになるのだが、クリミアだけは「生命線」として絶対に譲れないという形で、つい最近も2014年にはクリミアを改めて手中に収めることになった。

 こうしたロシアの終わりなき領土拡張欲をヨーロッパ諸国はよく知っているが故に、ロシアの西側進出に対して非常に警戒し、NATOを結成してきた訳だし、1990年代初めのソ連邦崩壊後、東ヨーロッパ及び中央アジア諸国が一斉に独立をしてソ連からの影響下から脱しようとしたのも十分頷ける。

 また日本に対しても、ソ連時代、第二次大戦終了間際のヤルタ会談で大戦後の処理対策を巡って協議した時、スターリンが日本は本州を真ん中で二分し、東側から北海道も含めてソ連が占拠し、西側をアメリカが領土化してはどうかという提案をして、フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相から一蹴される一幕もあったが、それが否決されるや次にスターリンが提案したのは、では北海道はソ連が取る、本州以下はアメリカが取ればいいという代替案であり、これまた英米から否定されると、しぶしぶ引き下がり、その代わりに北方領土から南樺太あたりは全部ソ連の領土であるということを主張したというのは、歴史の秘話として今日明らかになっている。

こうした異常なまでに強い領土拡張欲を持つ大国と付き合うには、相当な苦労があるし、現にフィンランド、スウェーデンが共に今回のウクライナ侵攻を見て、次はうちに来る可能性があると警戒し、NATOに加盟することを決めたというのは、プーチン大統領も恐らく予想もしなかった誤算であろう。プーチンは、1991年のソ連の崩壊を目の当たりにして、今世紀に入って大統領になって以来、「西側との協調・共存」を旨としてきた。しかし権力基盤を固めて万全の体制ができると、「ロシアの栄光」を取り戻すべく西方、南方への領土拡張を精力的に始めた。

 加えて、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」(モンテスキュー)であり、さらに言えば、絶対的腐敗は権力を内部から崩壊させるのも歴史の真実だ。
 「三日でウクライナを制圧する」のはずが3ヶ月になり、国際的非難を浴びた結果、親ロシア派住民の多い東部地区を奪い取ろうと方針転換したが、それもうまくいっていないのが実情だろう。
 中国も含めて、強大国が領土拡張に乗り出す時には、世界史を揺るがすような大きな事件になる、ということが端無くも今回のロシアの軍事作戦で明らかになったと言えるのではないだろうか。

森鴎外がこの『ロシア戦域年表』を書いたのは、1900年頃。鴎外にとっては不遇な小倉時代であったが、その3年近い間にクラウゼヴィッツの『戦争論』を要約して、小倉分隊長以下高級将校に講義をしており、その際既に来るべき日露戦争(1904-1905)を想定してロシアの特徴を冷静に分析していた、というのも実に興味深い話だと私は思った。

(つづく)