勝又美智雄氏の中国研修旅行記

10月に行った「孔子・孟子の故郷を訪ねる旅」に参加された勝又美智雄氏(国際教養大学名誉教授)より、旅行記を寄稿いただきましたので掲載致します。

%e5%8b%9d%e5%8f%88%e7%be%8e%e6%99%ba%e9%9b%84%e6%b0%8f

 

 

 

 

 

 

 

 勝又 美智雄氏( 国際教養大学 名誉教授)
今回のツアーに参加するにあたって、折角だから事前準備を、と私の書斎にある中国古代思想、特に儒教関係の本約20冊にざっと目を通してみて、ショックを受けた。どの本にも奥付に「××年×月×日読了」と書いてあるのに、その内容をほとんど覚えていない、どころか、読んだという記憶そのものもないことだった。
とりわけ衝撃だったのは、今や古典的な名作である白川静の『孔子伝』(中央公論社)だ。まず学生時代、1971年に雑誌「歴史と人物」に連載されたときに感心して読み、翌年、単行本になったときにすぐに買って読んだ。それを94年5月に儒教関係書を数冊まとめ読みしたときにも再読(三読)し、さらに昨年2015年4月、実に4回目の「読了」を記録していた。それなのに今回、5回目の読み直しをして、まるで初めて読むような新鮮な刺激を受け、「記憶力の減退がこれほど進行したか」と半ばあきれ、半ば恐ろしくなったのだ。
そう言えば、この3,4年、毎朝、出かけるときに財布、携帯、手帳、時計、定期入れの5点セットのうち、必ずどれかを忘れ、途中で家に取りに戻ることが多くなった。「甚だしいかな、わが衰えたるや。久しいかな、我また夢に周公を見ず」という孔子の晩年の嘆きは、単に自分の理想(目標)がかすんできただけではなく、老眼がかすみ、われら凡人と同じく「ボケ症状」が進んできたからではないか、とも思った。
同時に、『論語』は人生訓に溢れているが、「老い」とか「ボケる」ということへの言及が全くと言っていいほどないことにも気づいた。2500年も前の中国人の平均寿命がいくつかは知る由もないが、ずっと下って8世紀の唐の大詩人、杜甫が「人生七十古来稀」(「古稀」という言葉の由来)と詠んだほど、70歳まで生きるのは紀元前ではきわめて稀だったろう(ちなみに杜甫は59歳で亡くなっている)。つまり74年も生きた孔子は当時まさに“超例外的”な長寿であり、その言動を書き残した弟子たちのほとんどは「老い」や「ボケ」を感じる前に亡くなっていて、「老い」は彼らの関心外だったのではないだろうか。
そこで今回の旅行は、なんとも自分の「老い」を確認する旅となった。
まず実感したのが「足腰の衰え」。泰山登りから孔子廟など、とにかく歩くこと、歩くこと。そのたびに「ヒェー」で、体力の衰えを痛感させられた。
第2に、朝昼晩と毎日3回、美味しい食事をしたのに、翌日には「昨日何を食べたか」思い出せないこと。一度、精進料理ばかりだった時には世話役の津久井さんに「なんとかならんの」と文句を言うと、彼が素早く次の食事場所を変更して肉・魚に盛大にありつけた。これまた我ながら、老人の「わがまま言いたい放題」をよく物語っている。
第3に、ガイドから日本語で説明を受けても、その独特のアクセントのせいもあるが、人名、事項ともに元の漢字がパッと思い浮かばない。従って自分の頭の中の年表、人名、事項と連関がつかず、基本的によくわからないことが(相当)多く、自分の知力の限界と何より学習意欲の衰退を思い知らされた。
そして第4に、諸々「これではいかんのではないか」と、同室の津久井さんと毎晩、「反省会」をしたわけだが、翌日になると、さて、何を反省したのだったかを忘れていて、あらためて「反省会」を催さざるを得なくなったことだ。だが夜毎に参加者が増え、それだけ「反省好き」の人たちが「同病=老病」相哀れんだのでありました。「われ日にわが身を三省す」は孔子の弟子、曽子の言葉だが、いくら反省しても、治らないものは「老い」でしょうねえ。
和辻哲郎の名著『孔子』(岩波文庫)は、孔子がブッダ、ソクラテス、キリストと並ぶ「世界の4聖」と呼ばれている理由として、彼らが「人類の教師」であり、その言動が弟子たちによって記録され、後世に伝えられ、その教えがそれぞれの文化を象徴する思想・哲学となることでかえってその普遍的な価値となっていったことを跡付けている。
たしかに釈迦(BC566~486)、孔子(BC551~478)、ソクラテス(BC469~399)、キリスト(BC4~AD30)と並べてみると、実にインドの仏教の始祖と中国の儒教の開祖がほぼ同世代、ギリシア哲学の代表的な存在がそれより100年遅れて出て、その300年後にようやくキリスト教が誕生する、ということになる。(ちなみにイスラム教の教祖、ムハンマド(マホメット、571~632)はほぼ聖徳太子と同世代になる。)
つまり今回の旅行は、実に2500年前を振り返るという“超歴史的”な時間を遡る旅でもあった。
孟子廟では、あの有名な「孟母三遷の教え」が絵入りで大きく紹介されていたが、その母親の顔がいかにもブス、というか醜いほどの顔つきであることに驚いた。これまでは「孟母」は良妻賢母のモデルのように美しく聡明な母親、というイメージが流布していたが、これではまるで醜悪な「教育ママ」、ママゴンの顔ではないか。考えてみれば、子供のために住居を変える母親というのは、子供のためというより自己満足のためではないか。そういう母親に抑圧されて、孟子はマザコンに悩み、それを昇華させるべく「仁愛」を強調したのではなかったか。それは現代の日本でも「子供のためにしていること」を押し付けるモンスター・ペアレントが社会問題になっていることに超歴史的に通じているのではないか、などと思いを馳せたのでありました。
観光土産物店では毛沢東と林彪が笑顔で仲良く並んだ写真がたくさん吊るされて、文化大革命時代(1966~74、もう半世紀も前になる!)の後半に「批林批孔(林彪も孔子も徹底批判の対象とせよ)」運動があったことも今は昔。物売りのおばさんたちは数百年前から同じことをしていたのではないかと思わせるような顔をしていたし、中国の新幹線が(予想に反して)日本並みに時間に正確に、しかも振動も少なく走っていることに正直、驚かされた。
40年前に初めて訪れた上海では、道路は野菜や飼料用の草を山ほど積んだ牛車、オンボロ自転車が目立ち、蛇腹のバスがすし詰め状態で苦しそうにあえいでいた。上海バンクでは早朝から中高年が集まってゆったりと太極拳をしていたが、今はそこが超高層ビルが林立し、ネオン輝く夜景の美しいデートスポットになっている。
大きく変わるものと全く変わらないものーーそれらが複雑に交錯し、共存している中国の懐の深さというか、したたかさを感じさせられる旅ではありました。この貴重な機会を与えてくれた従心会倶楽部に感謝しております。