千葉哲雄さんのハノイ便り(終戦記念日に思うこと)

千葉哲雄氏-1

今日9月2日はベトナムが日仏二重統治から、1945年フランスの武装解除、そして日本の降伏でホーチミンが独立宣言した記念日です。数少ないベトナムの休日です。

今年は終戦70年ということで当地でもNHKワールドを通して多くの終戦記念番組を見ることができました。見るたびに自分の今までの体験が走馬灯のように蘇り、つかの間、昔を懐かしく想い出しました。
今回の便りは自分の昔話です。面白くないです。しかも少し重いです。迷惑にならないように読んでくれればと思います。

◆香港時代(1975年10月~1978年5月、1982年6月~1990年4月)

初めての海外赴任は29歳の時、香港地下鉄でした。初めての海外工事、右も左も分かりません。そんな自分をリョンさん(梁さん)という当時55歳前後の大世話役がたいそう面倒を見てくれました。ある日リョンさんが、多分自分が香港人を馬鹿にしたようなことを言ったのだと思います、(何を言ったかは失念した)「Mr.Chiba! 香港人は身内を辿っていくと、必ず誰かが日本軍に殺されたという辛い体験をしているよ。香港で仕事をする際には、その事を心の片隅に置いて決して忘れないようにした方が良いよ!」
すごいショックでした。驕りがあったわけではありませんが、頭をガーーンと叩かれたようでした。自分の不勉強を恥じるとともに、この一言がその後、海外工事に取り組む自分の姿勢に大きく影響を与えたと言っても過言ではありません。
その時の気持ちは40年後の今でも持ち続けています。

こんな事もありました。2度目の香港赴任時です。香港で7人制ラグビーの世界大会がありました。日本からも代表が来たので寒風の中家族を連れて香港スタジアムに行った時の事です。確かウエールズと日本の試合だったと思います。寒いのにビール片手のイギリス人は興奮すると大声で「Kill them!」ぶっ殺せ!と声援するのです。
ペニンシュラホテルにあるルイビトンに列をなして日本人が爆買するバブルの時代です。
(今の日本、中国人の爆買を彷彿させます。金持ちになった日本人への妬みか、あるいは戦火を交えた影響かわかりませんが、好日的でない多くのイギリス人が居たのは事実です。(30年近く前の話しです。為念)

シンガポール時代(1978年5月~1982年5月)

シンガポールも日本の統治下‘昭南島’と呼ばれた時代戦禍で5万人の方々が亡くなっています。今年亡くなったシンガポール独立の父 リークアンユウ元首相も身内を亡くしていました。彼の言葉「Forgive but never forget」”許す、しかし決して忘れない”は有名です。身内を殺されたとはいえ、日本人の勤勉さを見習えとシンガポール人を鼓舞し発展しました。1963年マレーシア連邦から追い出され、泣きながら独立宣言した若き日のリークアンユウ、今こうしてシンガポール独立の特集番組を見ると、つくづく彼が偉大な政治家だったことが分かります。
幾つか戦跡もあります、観光地で有名なセントーサ島の戦争博物館なども、日本人としては訪ねなければいけない場所ですが、見ればやはり日本人として心が痛みます。

フィリピン時代(1992年4月~1995年8月)

フィリピンにバギオという地があります。マニラのあるルソン島の北、車で5~6時間です。1946年アメリカからフィリピンが独立するまでアメリカ人の避暑地でした。
この高原地帯への道路建設でアメリカは難渋し最終的に日本人の労働者を受け入れ、この日本人により完成したケノン(別名日本)道路がります。100年以上前の話です。
この労働者が現地フィリピン女性と結婚しこの地には日本姓の方々が多数住んでいました。そして終戦です。終戦後、この日本姓の方々は表世界から隠れるように極貧の生活を強いられました。
1980年代からこの地に、下水処理場、農村基盤整備、バギオ総合病院と15年以上日本の援助が続きました。今では日本人農業専門家の尽力でこの地で日本の椎茸、ごぼう、イチゴ、花などを栽培し貴重な現金収入を得ています。
ここには日本人墓地もありフィリピンに赴任した日本大使が必ず献花に訪れる場所です。
こんなこともありました。下水処理場に繋ぐ下水管工事の進捗が遅れたので、工程上夜間工事を続けた時のことです、日本の企業が夜中仕事をするのは変だ、戦時中敗走した山下師団が埋めた黄金をこっそり掘り出しているのでは・・・・・・?
以来地元民が夜見張りに来ることが多くなったと現場からの報告を受けた事があります。

赴任中は不勉強で知らなかったのですが、フィリピンのキリノ大統領の特集番組がありました。番組の冒頭浴衣を着たフィリピン人の若いカップルの写真が出ました。後のキリノ大統領夫妻です。日本軍上陸後終戦までに実に100万人近いフィリピン人が亡くなっています。(日本軍の戦死者は50万人)このキリノ大統領は、親日家だったにも拘わらず奥さんと3人の子供を日本軍によって失っています。
終戦を迎え200人近く死刑及び終身刑判決を受けた日本兵がモンテンルパ刑務所へ収監され、キリノ大統領令で14人の死刑が執行されました。番組で帰国できた死刑囚が語っていましたが、起床ラッパが鳴ると刑の執行がないのでホットするが、毎朝次は自分かと恐怖との戦いだったと。その死刑囚の心情を表しているのが‘モンテンルパの夜は更けて’という歌です。(死刑囚が作詞)後に渡辺はま子が歌い、オルゴールにしてキリノ大統領へ助命嘆願願いとして送っています。
又、フィリピン上院議員の一人が死刑囚の多い大分県を訪ね死刑囚の家族と面談しています。そこで上院議員は多くの家族に「日本は終戦を迎えワシントンに友好の印として桜の木を送ったでしょ、何故フィリピンへ送らないの?日本人形の一つでも良いから送りなさい。」とアドバイスするのです。以来戦時下の物のない時代多くの家族が必至で日本人形を作りフィリピンに送り死刑囚の助命を嘆願します。
後にキリノ大統領の遺品の中にもこの送られた日本人形が残っていました。
当時のフィリピンはとても死刑囚を許す雰囲気ではありません。ましてや大統領自身が被害者です。だがこの大統領は、がんの手術でサンフランシスコに渡米し、その手術前に議会承認のいらない大統領特権で特赦するのです。
生き残った娘の娘(孫)が番組で語っていました。母はこの決断に、「何故母と兄弟を殺した日本人を許すのか?」と猛反対したところ、大統領は、「この腕を自分の子供の血で汚した日本人を決して許すことはできない、でも憎しみや恨みを永遠に持ち続けることは出来ない。許すことができなければ穏やかな人生が訪れることはない」と娘に諭したとのこと。
日本人にとって忘れてはならない政治家がいたのですね。フィリピン滞在中はまったくこのエピソードを知りませんでした。不勉強を恥じ入ります。
日本兵200名近くは帰国し、死刑囚だけが巣鴨刑務所に収監され(3ヶ月)後家族の下に帰っています。終戦5年後の出来事です。

インドネシア時代(1995年8月~2000年4月)

カリマンタン(旧名ボルネオ島)にマンドールという地があります。
上陸した日本兵に村民のほとんど2万人近くが虐殺された惨劇の地です。土だけが盛られた長方形の陵が10基ほどあります。1基にそれぞれ2000体ほど葬られているとのことでした。質素な陵に比べ立派なレリーフがありました。どのように殺戮されたかが描かれており日本人はとても直視できません。そして最後に、我々はこの殺戮を決して忘れない と書かれているのです。とても辛いものです。
日本大使も在任中一度は必ず訪れ献花すると聞いています。

マンドール周辺は豊かな地域ではありませんでした。ベッド一つと簡単な医療器具だけがある診療所、ここで皆出産するのだと聞いた時には絶句しました。
マンドール周辺の街にいくつかの診療所、そして最も大きな街ポンテイアナックに総合病院を日本の援助で建てようというプロジェクト作りに某商社と組んで奔走したことがあります。残念ながら紆余曲折があり実を結びませんでしたが。

東チモール

インドネシア駐在時代この地も何回も訪ねました。この地もやはり戦禍の後がありました。戦時中日本軍は兌換券を大量に発行しています。終戦とともにこの兌換券は何の価値もなくなりました。この兌換券をいまだに持っている人々がこの地にみられました。

特集番組を見ながら如何に自分の足跡が終戦と無縁ではなかったと思い知らされました。
そして又、如何にそれぞれの国で多くの方々に助けられての仕事だったかと改めて思います。もうちょっと遅すぎるかもしれませんが、少しでも恩返しできたらいいなと思うこの頃です。
現役を離れて訪ねたカンボジア、ベトナムとやはりそれぞれ悲惨な戦禍が残る国々です。
終戦記念日の安倍談話の是非が論じられています。日本国民の80%が既に戦争体験が ないのに、いつまで謝罪を続けるのか?これで最後にして欲しい。
日本人として分かる気がします。でも自分の世代は、一歩外に出て戦争の傷跡を目の当たりすると何も言えなくなってしまいます。
最初の赴任地香港で、リョンさんに出会えたこと、そして彼から手厳しいアドバイスを貰ったこと、今になり本当に感謝しています。
少なくとも自分の心の片隅に、彼の言葉を残してきた事とても良かったと今なら言えます。
安保法案のことは不勉強で分かりません。
ただ一つ間違いなく言えることは決して戦争を起こしてはいけないということ。
終戦を迎えても心の傷は決して癒えないし、癒すには長~い、長~い時間の経過が必要です。数々の特集番組を見て改めて終戦を噛みしめています。

ベトナムは対日感情がとても良い国です。まだまだ貧しい人が沢山います。明日ではなく、今日の糧を求めて頑張っている人が沢山います。こういう‘弱い人々’におもいを寄せられる国に日本はなって欲しいと切に願っています。
事務所の通訳の一人が早稲田のビジネススクールに留学したいので推薦状を書いてくれと頼んできました。27歳になってからの挑戦です。嬉しいですね!こういう若者が輩出したことだけでも、今回この地に来て良かったと自己満足しています。